▲水上駅の転車台で方転する引退直前のEF55 1。その独特の"表情"はムーミンの愛称を呼び、世代を超えて人気となった。'08.11.29
クリックするとポップアップします。
先週末、高崎車両センター高崎支所で保存されていたEF55形1号機が大宮へと運ばれ、今週はじめにはJR東日本と鉄道博物館から同機の鉄道博物館入りが発表されました。
EF55 1は1936(昭和11)年日立製作所笠戸工場製(製番636)。折しもこの年の4月26日に旧万世橋駅本屋跡に鉄道博物館(2代目)が開館しており、この2代目鉄道博物館→交通博物館をルーツとする鉄道博物館にとっては、まさに「同い年」の機関車ということになります。
おらためてご紹介するまでもないかと思いますが、EF55形は世界的な流線型ブームのなかで生まれた国鉄(鉄道省)初の流線型電気機関車で、日立、日車、川車でそれぞれ1輌ずつ、計3輌が製造されました。全機が沼津機関区に配置され、戦前は特急「燕」や「富士」の先頭にたって活躍しましたが、残念ながらそれも長くは続かず、3輌それぞれがどちらかというと幸薄い日々を送ります。
▲高崎車両センター高崎支所手作りのファイナルラン用ヘッドマーク。上越線と信越本線、そしてその中心であった高崎を前頭部の飾り帯に合わせて象形化した秀逸なデザインであった。
クリックするとポップアップします。
今回鉄道博物館入りする1号機は終戦間近い1945(昭和20)年8月3日に沼津機関区で米軍機の機銃掃射を受けて16カ所破損、2号機はそれより前、1941(昭和16)年7月に品鶴線で衝突事故に遭って大破、3号機は終戦後の1948(昭和23)年12月に二宮駅で自動車と衝突...とどうにも不運が続きます。
▲"後進"運転を前提としていないだけに2エンド側の運転台はいわゆる回送運転台のような造り。ワイパーも手動式。
クリックするとポップアップします。
最終的に3号機は1962(昭和37)年に浜松工場でED30 1に改造され、2号機は1964(昭和39)年に廃車、翌年に昭島駅の解体場で解体(『機関車表』 による)、1号機のみ中央鉄道学園の教材として残されました。その後、1号機は高崎第二機関区に返還されて1986(昭和61)年に奇跡の動態復活、2009年1月のさよなら列車までさまざまな名シーンを見せてくれたのはご存知の通りです。
▲1エンド側の運転台。こちらも極端に狭く、大柄な乗務員は乗務すること自体が無理そう。もちろん手動進段。
クリックするとポップアップします。
▲レトロな電流計と双針圧力計。「日立製作所」の銘が入った電流計は戦前からのものだろう。
クリックするとポップアップします。
▲乗務員室天井には戦時中に沼津機関区で被弾した機銃掃射の弾痕が残る。
クリックするとポップアップします。
▲機械室灯のスイッチ箱。左の列にはエッチング製の「空襲」「警甲」「警乙」のプレートが付く。
クリックするとポップアップします。
思えば、そのさよなら列車「快速さよならEF55横川」号(9137レ)が発車した高崎駅ではJR東日本高崎支社主催の「EF55ファン感謝祭」が行われ、私もトークショーのゲストとして登壇いたしました(アーカイブ「EF55ファン感謝祭 大盛況」参照→こちら)。本論とは関係ありませんが、駅頭に設けられたステージ上がたいへんな寒さだったのを昨日のように思い出します。
▲高崎線の普通列車で余生を送っていた頃のEF55 1〔高二〕。前部連結器回りのカバーは外されてしまっており、往年の特急機といえども落ち武者の様相。この2年後には第一次休車となっている。'55.1.16 上野 P:三谷烈弌
クリックするとポップアップします。
鉄道博物館ではこのEF55をヒストリーゾーン1階に展示する予定で、ゴールデンウィーク前には公開されるそうです。また、展示エリア中央の転車台上への展示も検討中とのことですので、こちらの動向も注目されます。
▲さよなら運転まで残すところ一か月あまり、名所・第一利根川橋梁(通称・大正橋)にEF55+旧型客車のシルエットが浮かぶ。'08.11.29 渋川-敷島(試9735レ)
クリックするとポップアップします。