千葉工業大学准教授 越智敏之
 
 今日はみなさんに、魚と西洋史の関係についてお話しさせていただきます。

「魚と西洋史の関係」と聞くとピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。ですが、実際にはキリスト教徒は、意外なほどに魚を食べていたのです。キリスト教には断食日があります。断食日自体は教会初期の時代から風習としてあったのですが、一年を通じての断食日の日数や、断食日に食べることが許された食品の種類は、時代を通して変化していきました。もともとの断食の目的は、食欲という直接的な快楽に打ち勝つことで肉体を克服し、そのなかでも性欲の源と考えられていた肉を断つことで、性欲を抑えることにあります。ですからなによりも肉食を断つことが重要だったのですが、カトリック教会では時が経つにつれて、断食日には魚を食べることが許されるようになりました。そしてやがてはむしろ、積極的に魚を食べる日に変化していき、ついには「フィッシュ・デイ」、つまり「魚の日」と呼ばれるようになっていったのです。
 この変化の背景に何があったのか、実際にはよくは分かっていません。ですが現実問題として、この断食日の日数は時代が進むにつれて増えていきます。そして中世の中ごろには、復活祭の前の40日間である四旬節、キリストが十字架にかけられた金曜日、そして水曜日と土曜日、さらには主要な聖人の祝日と、つまり一年のおよそ半分が断食日となったのです。言い換えれば、一年の半分を、カトリック信者全員が積極的に魚を食べたわけです。この宗教的な要請が西洋にもたらしたものを想像してみてください。西洋文明においては、この宗教的な要請が原因で魚の巨大な需要が生まれ、漁業が日本人が想像する以上に重要なものとなり、西洋史に大きな影響をもたらす要因となったのです。

 この巨大な需要を満たすために、漁業の中でも特に重要だったのが、大量に獲ることが可能だったニシンとタラになります。回遊魚であるニシンは現代でもよくわからない理由で回遊コースを変えます。この回遊コースの変化がときに国家や集団の命運に関わることがありました。
11世紀にはニシンはバルト海を回遊し、リューベック近海の浜辺に押し寄せていました。
 
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リューベックはバルト海を北海と隔てるユトランド半島のバルト海側の根元に位置する都市です。
リューベックは1241年に、ユトランド半島の北海側の根元にあるハンブルクと都市同盟を結び、この都市同盟がやがてはハンザ同盟へと拡大していきます。 そしてリューベックはハンザ同盟の中心都市として隆盛を極めます。このリューベックの繁栄のもともとのきっかけが、近海に押し寄せてきていたニシンにあるのです。リューベック、そしてやがては他のハンザ都市がこのニシンを塩漬けにして、ニシン交易を独占します。ハンザ同盟の繁栄の礎は、ニシンの交易を通して「フィッシュ・デイ」という宗教的要請に応えたことにあったわけです。
 ところが先ほどもお話しした通り、ニシンは回遊コースを変えることがあります。15世紀にはそのコースを北海へと移し始め、16世紀には完全に北海へと移動してしまいます。
 
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この変化を最大限に生かしたのがオランダでした。オランダはハンザ同盟のように、浜辺に押し寄せるニシンを捕まえるといった、ちまちました漁はしませんでした。北海に移ったニシンはシェトランド諸島沖から南下を始め、英仏海峡を通り抜けていきましたが、オランダはニシンの群れを追いかけながら、半年にわたってニシンを捕りつづけたのです。 その結果ニシン漁だけでなく、ニシン交易の支配権までハンザ同盟から奪い取りました。
この富の蓄積が礎となって、オランダは世界的な交易国家へと成長していきます。また、イングランドとオランダの仲が悪くなった背景にも、このニシンの回遊コースがありました。何分、英仏海峡を南下するニシンの群れを追いかけるオランダの漁船が、それこそ目と鼻の先で巨万の富を築くのを指をくわえて眺めていたのがイングランドでした。当然、おもしろいわけがありません。17世紀にはジェイムズ一世と息子のチャールズ一世がオランダ漁船から入漁料を徴収しようと画策します。とくにチャールズ一世はそのために海軍力を増強し、その際の無理な増税が仇となって、ピューリタン革命で公開処刑されたのです。

 オランダは北海におけるタラ漁においても、圧倒的な優位を確立していましたが、西洋史におけるタラ漁の面白味は、北海よりも新大陸の漁場にありました。というのも、この海域のタラ漁は、新大陸を旧世界の経済システムの中に取り込んでいく媒体の一つとして機能したからです。そもそもがタラの干物は保存性に優れていて、保存状態が良ければ5年はもち、腐ることなく赤道を越えることのできる、数少ない蛋白源でした。そのため船乗りの必需品となり、タラの干物がなければ大航海時代はあれほど爆発的にはならなかっただろうと考える歴史家もいるほどです。
そして1496年、ジョン・カボットがイングランドのブリストルから西に向けて、アジアへの航路を求めて出港します。ところが、図らずも新大陸に到達、そこで彼が発見したのは、海面が盛り上がらんばかりのタラの大群でした。
以降、この海域のタラ漁場は旧世界にとって重要なタラの供給地の一つとなります。この地域、とくにニューイングランドへの植民を経済的に可能にしたのもタラでした。しかもこのタラ漁は、17世紀半ばには西インド諸島の黒人奴隷を使った砂糖プランテイションと結びつきます。塩分が必要な黒人奴隷の食事として、干物の製造過程で生まれた半端もののタラの干物が重宝されるようになったからです。その結果、北米のタラ、西インド諸島の砂糖、西アフリカの黒人奴隷、この三点をつないだ巨大な三角貿易が生まれ、この経済システムの中で、ニューイングランド植民地は富を蓄積していくことになります。1764年、アメリカ独立戦争の一因ともなった砂糖法をイギリスが定めます。この砂糖法は西インド諸島から糖蜜を輸入していたニューイングランドのラム酒製造業者にとって死活問題になったというだけでなく、この三角貿易の一辺の物流を阻害したために、タラ漁師にとっても死活問題となったのです。つまり、タラはアメリカ独立戦争の原因にまで、一枚かんでいたわけです。
もともとは信仰心を証明するという、極めて敬虔な理由からキリスト教徒は魚を食べたわけですが、その結果生まれた需要があまりにも大きすぎたために、漁業はヨーロッパの中での国々の盛衰に関わったばかりではなく、西洋世界を新大陸へと拡大していく原動力となりました。そしてその過程の中で、奴隷貿易とまで関わってしまったのは、そのもともとの出発点を考えると、歴史の大きな皮肉と言えるのではないでしょうか。