児玉源太郎:日露講和は「失敗」と断言 一級史料を発見
毎日新聞 2015年01月28日 07時40分
日露戦争(1904〜05年)で陸軍の作戦を指揮した軍人で政治家の児玉源太郎が記した手帳や書類など約400点が東京都内の児玉の旧宅で見つかった。桂内閣が進めた露との講和(05年9月5日)を「失敗」と断じる覚書もあり、合理的な政略家としての一面がうかがえる。児玉は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」などで知られるが、直筆の1次史料は少なく、近現代史研究の第一級史料といえそうだ。
児玉の長男秀雄氏(故人)の調査を進める過程で発見、特に日露戦争関連が多い。
日露講和に関する「覚書」は、桂太郎首相へ提出しようとした下書きとみられ、同年9月25日に記された。
日本軍はこの年の3月、奉天での戦いに勝ち、7月にロシア領の樺太全土を占領するなど優位に立っていた。しかし講和交渉が遅かったことや日本政府が賠償金を得ようとして失敗、占領した樺太の半分を返還したことなどに関して「政略上の活動は奉天戦以前に着手して奉天戦の結果を利用して優越の条件を求むるこそ政府の取るべき手段」だったと不満を述べている。
さらに手帳には、日露が勢力争いをした旧満州(現中国東北部)の戦後構想をうかがわせる記述がある。現地の主要都市ハルビンに触れて、「万国共存の商業地」として国際的に開かれた都市を目指したことも判明した。昭和に入り、かいらい国家「満州国」を日本が建国するなど独占しようとした経過を考えると興味深い。
また、私信に加えて、同郷の乃木希典や伊藤博文、山県(やまがた)有朋ら為政者からの書簡も多く見つかっている。
一連の史料は、一般社団法人「尚友倶楽部(くらぶ)」に寄託され、季武(すえたけ)嘉也創価大教授(日本近現代政治史)らが調査を進めていた。うち約180点は「児玉源太郎関係文書」として、同成社から近く刊行される。【栗原俊雄】
【略歴】こだま・げんたろう (1852〜1906年) 長州藩の支藩、徳山藩出身。戊辰戦争以降、明治期の主要な戦乱、戦争で活躍。日露戦争では陸軍大将、満州軍総参謀長として作戦を指揮。台湾総督や陸軍大臣、内務大臣、文部大臣なども歴任し、戦後は一時、首相候補と目された。