幕末にこんな人物がいたなんて!新たな偉人を発掘しました。
ちょっと店長!何ニヤニヤしちゃって。
いつまでも正月気分で何年賀状いつまでも眺めて…。
いや〜やっぱりねもらうとうれしいもんですよね。
そりゃうれしいですよね。
「ファンです」とか「すてきです」とかね。
全く書いてないですけどね。
(笑い)いやでもね年賀状ってもらうとうれしいじゃないですか。
山本先生も学生さんからはたくさんもらう?そうですね。
たくさん来ますね。
随分工夫したのもあるし。
でも最近はメールとかねLINEとかで来るのも多いですね。
多いですか。
やっぱりね〜。
そんな中ねいろいろ最近あるんですよ。
例えばうちに来たのでいうとこんなの。
木?木の板なんですよ。
これでも届く。
更にこれね手作りでビックリしちゃったんですけどね。
何ですか?それ。
すごい!すごいでしょ。
光った!凝ってますよね。
松本さんも年賀状書かれます?書きます書きます。
今までは手書きでずっと200枚ぐらい書いてたんですけどやっとパソコンでやってみようかなと思ってなかなかでもプリンターの扱いとか。
失礼ですけど苦手そうな…。
アハハハ!苦手なんですよアナログ派で。
そんな方にぴったりのお話を先週聞いたんですよ。
プリンターはこうやって使うのがいいとかこの機種がいいとかやけにプリンターに詳しいお客さん。
ほらそうそううわさをすればこの方なんです。
こんばんは。
こんばんは。
プリンター製造会社の社長さん小池利和さんでいらっしゃいます。
どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
どうぞお掛け下さいませ。
お願いいたします。
実はプリンターの製造会社って言いましたけれどももともとはミシンを作っていた会社なんですよ。
ミシン!?ミシンとプリンターって全然違うじゃないですか。
でもミシンの市場がだんだん国内で成熟をしてきて会社で今までやってきた常識的なビジネスを変えようというところから始まってるんだと思いますね。
ミシンとプリンター。
一見関係性がないようだけどその常識を取っ払ったという事で今日のお薦めはこちら。
「常識をひっくり返せ!」。
そこでお薦めするのはこの方です。
日本が鎖国していたという事は皆さんご存じのとおり。
徳川幕府は200年以上中国オランダ以外の国との海外貿易を禁止してきました。
幕末その政策をひっくり返し開国を推し進めた人物がいます。
老中のトップ老中首座の職にありました。
今の総理大臣にあたります。
国の中枢の人間が幕府の根幹をなす鎖国政策に疑問を持ったのでした。
浦賀沖に黒船が現れます。
ペリーがアメリカ大統領からの国書を持参。
それは日本に開国を迫る内容でした。
その国書を受け取ったのがまさに阿部でした。
かねてから欧米列強との戦力の差を冷静に分析していた阿部。
この時「開国するしかない」と考えます。
しかし当時の日本では攘夷派つまり外国人を追い払おうという意見が主流でした。
長く続いた鎖国体制の中それは半ば「常識」だったのです。
阿部はその常識をひっくり返すため前代未聞の奇策を繰り出します。
阿部の知恵を読み解くのは…。
プリンターや情報通信の分野で世界をリードする電気機器メーカーの社長です。
主力製品はもともとミシンでした。
ところが1960年代一家に一台ミシンが普及すると需要が伸び悩みます。
この時から会社は生き残りを懸けた模索を続けます。
そして作り出したのがなんと…ミシン会社がタイプライター!?常識破りの製品は世間を驚かせました。
実はそこにはミシンの部品を作る技術が応用されていたのです。
常識を覆す商品開発という会社のDNAは小池さんにも受け継がれています。
小池さんは80年代初め26歳でアメリカに赴任。
命じられたのはプリンターの販売。
しかしアメリカ市場で苦戦を強いられます。
この時小池さんは常識を打ち破る商品を考え出します。
目をつけたのはニューヨークに多く見られるSOHOと呼ばれる小規模なオフィス。
狭いオフィスではいろいろな機械を置くスペースがありません。
そこで小池さんが提案したのはプリンターやFAXコピーなどの機能を一台に収めた小型複合機でした。
常識を覆したこの画期的な製品はSOHOで大人気となり会社はアメリカでトップブランドの座を勝ち取りました。
常識を打ち破りたい方必見!江戸と平成2人の知恵者の極意を紹介します!いや〜ビックリしました。
ミシンからプリンターっていうこの意外な展開でしたね〜。
私が最初に配属されたのは特機開発グループというユニークなところでとにかくブラザーブランドの製品でないものを売るという部署だったんですね。
そもそもグループに与えられたミッションが「常識をひっくり返せ!」というグループだったわけですね。
そうですね。
ですからプリンターも売ってましたし電卓もやってましたけれども例えば海苔ありますよね。
海苔って普通はあれ竹を使って海苔を養殖するんですけれどもあれは竹はしなるから実は養殖に向いてるんですけどそれをアルミに変えたらどうだって考えてわざわざカッパを着て海の中を泳いでアルミの棒を立てに行ったりとかですね。
そんな事をやったりする人もいればですね。
何かミシンって土台が木じゃないですか。
あれの木工の技術を生かしてこたつを作れとかね。
え〜!当時は部署のど真ん中にとにかく「自由闊達」という言葉が書いてあってですねそれで皆さん本当に好き勝手な事をやってる人が多かったですね。
でもやりがいがありますね。
面白くて。
そうですね。
いろんな事業を生み出すとか新しい商品とかを考え出すみたいなところも大変重要な事だと思いますね。
しかし幕末人気のある時代ですよね。
誰か好きな人っていますか?やっぱり坂本龍馬さんとかがすてきだなと思います。
ミーハーですね。
アハハハハハ!「日本の夜明けぜよ」というね。
そう日本の夜明けですよね。
龍馬とかですねその龍馬が結び付けた薩長これが明治政府をつくり上げるもんですからね。
やっぱりメジャーな感じがしますね。
それがメジャーだし一番何か開明的なように見えるわけですよね。
しかし当時は逆で薩摩・長州はむしろ開明的ではなくてですね…当時の常識は鎖国なわけですよね。
その鎖国を自ら開国というふうな核心に持っていこうとしたのが幕府でいやそれまでどおり鎖国であるべきなんだというのが後に明治政府をつくる長州とかそういう勢力なんですね。
今から考えるとちょっと立場が逆転してるんですね。
ああそうなんですか。
そういった中でその開明的な幕府の中心に座ったのがこの人ですね。
阿部正弘なんですけども。
いかにしてその幕閣のトップになっていったのか。
その辺りから見ていきたいと思います。
阿部正弘は文政2年福山藩主の六男として生まれます。
阿部家は幕府が始まった頃からの名門。
代々幕府の老中職を担う家柄でした。
阿部は18歳で福山藩主の座を病弱だった兄から譲り受けます。
そして21歳の若さで寺社奉行に就任。
幕府中央の政治への参加が始まります。
阿部は必ずしも初めから開国という考え方を持っていたわけではありません。
そんな阿部に大きな影響を与える出来事がありました。
大国だったはずの中国がイギリスに惨敗したのです。
中国は不平等条約を結ばされ香港を奪われます。
阿部が初めて欧米諸国の強さを認識した瞬間でした。
その後阿部は25歳で老中に就任。
翌年幕府にオランダ国王からの親書が届きます。
そこには更に阿部の危機感を募らせる内容が書かれていました。
オランダは西洋列強の次のターゲットは日本。
通商を拒否し続けて攻撃される前に国を開いてきちんとした取り決めを結ぶべきだと忠告してきたのです。
時の老中首座は水野忠邦でした。
水野はこの親書に対して曖昧な態度をとりオランダの助言を遠ざけようとします。
そんな中阿部だけがますます危機感を抱きました。
確かにこのままでは…阿部はこのころから思い切って開国に舵を切るべきではないかと考え始めます。
開国してきちんと…その後水野は政策の失敗で失脚。
阿部がそのあとを継いで老中首座に就きます。
この時27歳でした。
27歳という若さですよ。
すごいですね。
僅か27で国の舵取りをしなきゃいけないわけですからすごい緊張感だったと思いますね。
でも若さというのはね常識を破っていくうえでは武器になるものなんでしょうか?それとも足かせになるものでしょうか?年取っちゃったら駄目ですかね。
もうね。
駄目でしょうかね。
気持ちの問題ですよね。
マッカーサー元帥が確か座右の銘としていた「青春」という詩があるんですがそこの中で…ただしそういった挑戦とか理想を追い求めるという事をやめた時に人は老いるというような言葉がありましてね。
私はその言葉が結構好きで我々でもまだまだ常識を覆すひっくり返すという事は可能だというふうに思って毎日頑張ってます。
しかし開国という大きな決断ですよね。
これそもそもですけれども開国っていう道は日本にとってはいい事だったんですか?開国すればそこで結んだ条約をもとに国交が始まるわけですね。
条約を結ばない以上は国交がないので外国船の例えば軍艦がやって来て攻めてきてもですねこれは戦争にしかならないわけですね。
戦争に負けたらより条件の悪い条約を結ばざるをえませんよね。
国の一部分を占領されてそこが相手の土地になるという事も十分考えられるわけですね。
だからもうここで開国条約を結ぶのが日本としては一番いい手なんだろうというのが阿部の立場という事ですね。
いきなり開国というふうになったわけでもないわけですよね。
やっぱり完全なる常識ってのがあるわけですよね。
世の中みんな鎖国をしてるというのが当たり前になっててそれを維持するのも当たり前になってるわけですよね。
しかし阿部の場合は開国を考えなきゃいけないんだけども周囲は誰もそういうふうな事を考えてないと。
そうなるとどうやったらそういう状況を打破していけるか。
しかも国の舵取りですから何かやみくもにやってみて失敗したらそれでいいじゃないかというわけにもいかないわけですよね。
さあどんな知恵で…。
どうしましょうねこれね。
みんなを変えていったんでしょうか。
そこら辺からご覧下さい。
老中首座に就任した阿部。
どのように開国を推し進めるか策を練りました。
阿部は攘夷派の旗頭水戸藩の前藩主・徳川斉昭を懐柔しようと考えます。
水戸藩は御三家。
斉昭の発言力は絶大でした。
阿部は自ら水戸藩邸を訪ねます。
老中首座がじきじきに一つの藩の屋敷に出向くのはめったにない事でした。
気分を良くする斉昭。
阿部はこれ以後徐々に開国の話を持ちかけます。
まず日本の戦力が欧米に比べて劣っている事実を大砲の性能など具体的なデータで示しました。
また阿部は極秘の文書を用意させました。
そこには財政難に苦しむ幕府の実情があからさまに書かれていました。
そして今外国勢力と戦っても日本の財力は1年ももたないと訴えたのです。
現実を突きつけられた斉昭は反論できません。
更に阿部は極め付けの手を打ちます。
斉昭に幕府の海防参与に就くよう頼んだのです。
これはいわば防衛大臣の補佐役。
大きな発言権を持つ役職でした。
阿部はなんと対立する相手を自らの陣営に取り込んだだけでなく…阿部にはもう一つ懐柔しなければならない強大な反対派がいました。
外様の雄薩摩藩です。
この時の藩主は西洋嫌いの島津斉興。
がちがちの攘夷派でした。
そこで阿部は斉興の息子・斉彬に目をつけます。
斉彬は幼い頃から西洋文化を学び開国への意欲を見せていました。
阿部は自分と同じ考えを持つ斉彬を薩摩藩主につけようと画策します。
まず将軍・徳川家慶の助けを借りて斉興に圧力をかけます。
ある日江戸城に上った斉興。
家慶から一つの品を贈られます。
それは茶器。
「隠居せよ」という意味が込められていました。
更に阿部は斉興を追い込みます。
薩摩藩が密貿易をしているのではないかとほのめかしたのです。
陰に陽に巧みに圧力をかける阿部。
ついに斉興は藩主の座を斉彬に譲ります。
斉彬が薩摩藩主となると阿部は彼を幕府の政策決定に参加させようとします。
それまで幕府中枢の政治を担うのは譜代大名に限られており外様大名を加えるのは前代未聞の事でした。
このあと阿部と斉彬は将軍家と斉彬の養女・篤姫との婚姻を画策するなど深い信頼関係を築いていきました。
開国という常識外れの政策を実行しようとした阿部。
反対する御三家や外様大名を取り込み更には幕府政治に参加させる事で自らの方針を実現に近づけていったのです。
すごいですね。
そうですね。
反対派を味方につけるという感じですか。
ここでのポイントは味方につけるだけではなくて重要な役職に就ける。
ねえ先生。
そうですね。
御三家の水戸藩の徳川斉昭っていう人は完全な頑迷な鎖国論者なんですよね。
これを海防参与という事で幕府の海防を担当する役人というか顧問職にするわけですね。
すると彼も当事者として働かなきゃいけないのであんまり簡単に「鎖国鎖国」と言えなくなるわけですよね。
やっぱり彼らを責任ある立場に就けてですねもう少し現実的にものを見てもらうっていうそういう事をやろうとしたわけですよね。
しかし水戸の斉昭にしても島津にしてもうるさ型で今までの老中たちは避けてきた。
しかし雄藩の薩摩が自分の味方になってくれるっていうんで結構大きな意味を持つんですね。
もう一つは斉彬の娘になってる篤姫という人をその人を13代将軍・家定の御台所にするっていうそういう事をやりましてその篤姫を通じて島津家の力も入っていくようなそういう方策をとるんですね。
これを世話したのが阿部正弘なんですね。
どうでしょう?小池さん。
その常識にとらわれた相手の殻を破るには逆に大事な役職に就けてしまおう。
この知恵はどういうふうにご覧になりました?いや〜私はそれだけの知恵はなかったですね。
正面からというのが基本的な姿勢でした。
20年ほど前にアメリカのビジネスが驚異的に伸びた時に確か当時のお金で50億から60億の投資をするっていうふうに本社に提案したんですね。
そしたらやはり本社のトップの皆様方が結構驚かれてまあこちらもそういった事は十分想定どおりなので会議の2日ぐらい前から日本に行って何かおっしゃりそうなトップの方は大体分かってるのでそういう方たちとまず夕食を共にして。
それで飲みニケーションでちょっと根回しをしてですね。
まああんまり無茶な事はおっしゃらないように。
これは絶対会社として正しい方向ですからみたいな話をわざわざちょっとお話をしてみたいなのを1回2回繰り返してから本会議に入るという事で若干ソフトなやり方はしましたけど。
でも大事な事ですよね。
そうやるとやっぱり相手も心を開いてちょっといろいろ意見を。
阿部がやったのも同じ事ですよね。
斉昭をいかに自分の側につけるか。
あるいはいかに無茶苦茶な事を言わせないかという事なんで。
そうか。
阿部正弘も反対のムードがある中でこの人がキーになるっていう人を見抜いていたわけですね。
要所を押さえてるという事でしょうかね。
国内の空気が不穏な中いよいよあの船がやって来るわけですね。
さあ阿部はその現実となった不安にどう対処していくんでしょうか。
阿部に残された時間はそれほどありません。
浦賀沖に4隻の黒船が現れます。
蒸気機関を備えもうもうと煙をはき出す黒塗りの威圧的な艦船。
率いるのは…ペリーはアメリカ大統領の国書を持参していました。
それは日本に開国を迫る内容でした。
港を開いて石炭や食料の供給をしてほしいというのです。
ペリーは「回答は1年後にもらう」と脅すように言い残し一旦日本を離れました。
江戸幕府最大の危機。
しかし阿部はこの機を捉え開国を実現しようと考えます。
薩摩藩や水戸藩を取り込んだとはいえこのころ日本全体ではまだ攘夷派が多数を占めていました。
阿部は思いも寄らない方法をとります。
諸国の大名たちを江戸城に集め…アメリカの要求をのみ…忌憚なきご意見を頂きたい。
これは前代未聞の行動でした。
それまで重要な案件は幕閣の中枢だけで話し合う事が常だったからです。
長い間意見を求められた事などなく幕府の顔色ばかりをうかがってきた大名たちは驚きを隠せませんでした。
開国か鎖国か。
この時多くの大名の意見は鎖国を続けるべきだというものでした。
阿部は大名たちを再び招集しこう呼びかけました。
その上で阿部は思わぬ事を言いだします。
アメリカの強大な軍事力を伝えこう迫ったのです。
今まで防衛は幕府が担うものだとひと事のように考えていた大名たち。
突然責任と義務を負うように言われ狼狽します。
深刻な事態を突きつけられた大名たちは開国という阿部の考えに従う他ありませんでした。
阿部はこうして国内の世論をまとめていったのです。
再びペリーが来航。
阿部はアメリカとの間に日米和親条約を結びます。
幕府はついに鎖国を解き…そして食料や燃料の供給漂流民への対応などを取り決めました。
「鎖国は当たり前」という常識を覆した阿部。
同時に今後強まる外国の影響力に備えさまざまな対策を施します。
まず鎖国と共に禁じてきた…防衛力を高めました。
更に…海軍に精通した人材を育成する機関で後に勝海舟や榎本武揚も学びました。
阿部の打ち出した政策はその後日本の近代化に計り知れない影響を与えていきます。
阿部の死後日本はアメリカとの間に…港を開くだけではなくついに貿易を開始します。
こうして日本は国際社会の一員としてその一歩を踏み出したのです。
日米和親条約と修好通商条約。
これは2つはどういうもの?和親条約はただ仲良くしましょうと。
開港地である下田なんかではそこにやって来れば燃料を補給したり食べ物を補給したりもできるという事でアメリカとしてもいいわけなんですね。
しかしアメリカの和親条約を結んだ意図というのは貿易をやるんだというのが目的としてあるわけですね。
その先には。
日米修好通商条約っていう貿易条約を結ばせるわけなんです。
これは不平等条約っていうふうに言われてるんですが。
我々も歴史の時間にも「不平等条約です」と習いませんでした?そうですね。
そもそも強要されて不平等な条約を結ばされたという事ではないんですね。
例えば治外法権なんかを考えてみますとね。
アメリカにとってみるとこんな野蛮な国のですねちょっとお金を盗んだだけで首を斬られるようなそういう法律で裁かれちゃまずいのでそういうものをそういう条件を出したとかですね。
まあこの時点ではやむをえない条約かなという感じがしますね。
決して不平等ではなかったという事なんですか?日本が近代国家になったあとはやはり関税自主権がないとか日本の法律で外国人の犯罪を裁けないっていうのはどうしても不平等な感じがするわけ。
不平等なわけですよね。
だから明治政府は一生懸命条約改正の努力をするわけです。
その努力がいかに大変だったかというのを強調するために江戸幕府が結んだ当時としてはやむをえないというかよく頑張った条約をこんなにひどい条約を結んでいたんだと。
俺たちはこれだけ頑張って日本を近代化したんだというそういう宣伝のために使ったという側面もあるんですね。
つまり一方の側からしか見てない史観歴史観。
当時できうる事というのは限られてるわけでそれを正当に評価しないと後世から見てあんな事をやったのは何だというそういう見方をすると歴史っていうのはつまんなくなるというか要するに過去を現代の視点で裁断してしまうわけですね。
むしろ我々はそういう彼らがどういうふうに努力してどこまで頑張ったかというのを知るのが重要なんだと思うんですよね。
その当時の目線というか。
阿部の努力とか阿部の苦労ですね。
小池さん今の知恵ですけれどもね責任の一端を負わせる。
ひと事ではない。
自分事として捉えさせる。
これどうすればいいですかね?私の期待としてはですね将来的には自分たちがこの会社をしょって立つメンバーの一人であるという気概を持ってほしいという事を期待してますのでそれでもう少しおせっかいになれって申し上げてるんですけど。
おせっかいになれ。
他人のやってる事をやっぱり今はどちらかと言うと興味がないとか他人の事はあんまり干渉しないという事になるので他人のやってる事を知る事自体が自分の知識とか見聞を広める事になるのでコミットメントというかそういったものをしてほしいというお願いをしてます。
どうでしょう?今社員の皆さんその自覚出てきてますか?おせっかいになってますか?チャレンジ塾というのをやってましてですね。
チャレンジ塾?はあ。
若手次世代を担う人たちを30人ぐらい集めてですね毎回その6回ぐらいにわたって講義をしたりとかQ&Aをやったりしてですね。
私はねアメリカに23年もいてそのいろんな経験をじかに体で覚えながら体験したんですけど今は何とか座学でもいいから自分が思った事やろうとした事やろうと思ってる事それから自分がやってきた事いろんな経験をですねちょっとでもたくさんの人に分かってもらってそういった人たちがまたそういう話を聞いて俺もこういう事やるぞという気持ちになるというような形で。
そういった大志とは言わないけどもいろんなモチベーションの高い人を一人でも多くつくるという事が企業の力の源泉になるというふうに思ってるのでそういう事を漠然と期待しながらやってるという事ですね。
さあここでちょっと一息つきたいと思います。
「知恵泉」の特命店員がですね阿部正弘の取って置きの裏話ネタを仕入れてきてくれました。
そこをご覧下さい。
主人公ゆかりの地から「知恵泉」の特命店員が取って置きのネタをお届けする…日本には今や年間1,000万人を超える外国人の観光客が訪れます。
そして注目されているのが日本のおもてなしの文化ですよね。
ペリーが来航した頃にもそうしたおもてなしはあったんでしょうか。
(飯塚)
江戸時代の「お・も・て・な・し」とはどんなものだったのでしょうか。
この資料館には貴重な記録が残されています
(西川)これがペリーの公式遠征記録になります。
1856年ペリーらがアメリカに帰国後随行員たちの証言をまとめたものです。
日本での交渉内容や交流の記録が挿絵付きで書かれています
例えば日本の力士たちを呼んで横浜で土俵を作りまして取組をやったという記録も残ってます。
(飯塚)随分筋肉隆々な感じの力士ですね。
(西川)そうですね。
ペリーも当時の大関の腕を触ってビックリしたという記述も残ってますね。
アメリカ人をもてなすために幕府が開いた相撲大会。
40人の力士が集められました。
化粧まわし姿の力士たちを見てアメリカ人は「モンスター」「裸にエプロンをつけた男たち」などと驚いたようです。
力士たちの活躍はこれだけではありません。
日本の瓦版には米俵を運ぶ彼らの姿が残っています。
幕府がペリーに米を贈った際パフォーマンスとして力士たちに米俵を運ばせたのです
米俵を200俵ペリーに渡すんですけど1俵が大体60キログラム。
60キロ?
(西川)だから2俵だと120キロですね。
記録によると米俵を口にくわえた力士もいたという事が書いてありますからすごい力自慢を示した事にはなりますね。
一方アメリカから日本にも珍しいものが贈られました。
3/3サイズの蒸気機関車。
広場に線路を敷いて実際に走らせたところ大喜びした幕府の役人たちが機関車にまたがって何周も遊んだとか。
こうしてアメリカとの友好を深めた日本
近辺の農民たちの記録なんかだと最初は戦争になるんじゃないかと思って怖かったけれどもやがて別れを惜しむような事を書き記した記録もありますからかなり1か月ちょっとの間に変わっていった事は間違いないですね。
国際化の第一歩がここで始まったと考えていいと思いますね。
そしてもちろん最大の「お・も・て・な・し」は料理ですよね。
やって来たのは鎌倉。
料理を出した店の一つがこちら
こんにちは。
こんにちは。
どうも。
おじゃまします。
いえいえどうぞ。
ペリーが日本に来た時にその時におもてなしをした料理があると伺ってきたんですけども。
あります。
店の創業はおよそ300年前。
もともとは江戸に店を構え将軍家御用達として名高い料亭だったそうです。
幕府はペリーへの接待として最高級の料理を用意させます。
300人分で1,000両。
今で言うと1億円近くもかけた豪華料理でした
残念ながらペリーに出した献立は残っていないそうですが店に代々伝わる料理書を基にその一部を推測してもらいました
このお魚は?ぶりです。
これは日本海のぶりです。
背を切って腹。
乱れ盛りというやつです。
(飯塚)交互にやってるんですね。
ぶりの背と腹の部分を交互に並べて食感の違いを楽しみます
こちらはかぶの中にすり潰したえびが隠れています
(飯塚)すごいですねこの一手間。
(栗山)三手間ぐらいかかる。
(飯塚)三手間ぐらいですか。
さあ私の目の前にずらっと料理が並んでます。
これがペリーが食べたものという事です。
ほんとに色とりどりですね。
(栗山)煮豆腐と鴨の治部煮ですね。
あっ適度なしょうゆ味と。
(栗山)少し鳥の場合はしょうゆを強くするのがコツなんです。
(飯塚)鴨の香りですかね。
(栗山)はい。
続いて先ほどのかぶ
お〜かぶも柔らかくて染み込んでいてそこにえびの食感も加わって。
これでも知らないで食べたらかぶだけだと思って食べますよね。
それが江戸の仕掛けですよ。
今も昔も変わらぬおもてなしの心。
ペリーたちはどう味わったのでしょうか
今のお金で1億円ぐらいかけたって。
八百善というのはお茶漬けだけで10両ぐらい取ったという…。
高級料亭ですね当時の。
高級料亭ですか。
そういった豪勢なお料理の数々を味わって頂こうと思いまして用意したのはデザートなんですけれども。
え〜!はい。
きんとんでございます。
これペリーにデザートとして出したと。
当時は砂糖が高価だったそうで非常にぜいたくな味としてね楽しまれたそうですけれども。
すごく柔らかいです。
小池さんいかがでしょうか?おいしいです。
ありがとうございます。
おいしい!ほんとですか。
おいしいですね。
これは感動しますね。
日本の職人の仕事ですよね。
力士のパフォーマンスも楽しいですね。
ええそうですよ。
あれもですね日本はこんな強いやつがたくさんいるんだというのを見せる事によって日本を攻めるのはやめさせようとしたわけですよね。
ちょっとビビらせちゃおうかな。
そのつもりだったんです。
さあ本日のテーマは「常識をひっくり返せ!」という事で見てまいりました。
小池さん流の常識をひっくり返す極意教えて頂けますか?いや極意っていわれる立派なものはないですけどやはり今の世の中もね結構想定外の事がいっぱい起きて変化のスピードも速いしそれに対していろいろ対応していかなきゃいけない時代っていう面では幕末以上に大変な時代だと思ってます。
変化をできるだけ早く予知をしてできるだけ早く対応するという事がですねやっぱり一番今求められてる事なんだろうなと思ってます。
大変なお仕事ですね。
そうですね。
自分の心の中ではいつもそういう覚悟で毎日ビジネスを運営してるというふうに思ってます。
覚悟を決めて一歩を踏み出すという事が大事なんですかね。
はい。
ですから覚悟を決めるという事はつまりもう既に一歩を踏み出すという事ですので。
決まったらすぐやらなきゃいけないですよね。
デシジョンすなわち実践も含むという形にどうしてもなるというのが自分の頭の中での発想なんですね。
はい。
本日は貴重なお話をどうもありがとうございました。
2015/01/20(火) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 常識をひっくり返せ!「阿部正弘」[解][字]
テーマは「常識をひっくり返せ!」。幕末の老中・阿部正弘は鎖国が常識という時代に、いち早く開国の必要性を痛感。巧妙にじょうい派を懐柔し、常識を覆す。その方法とは?
詳細情報
番組内容
テーマは「常識をひっくり返せ!」。幕末の老中・阿部正弘に注目。阿部は「鎖国が常識」という時代にあって、いち早く開国の必要性を痛感。ペリーが来航すると、巧妙にじょうい派を懐柔し、開国へと導いていく。この時代に阿部がいたからこそ日本は諸外国とのあつれきや戦争を起こすことなく、そして植民地化を避けつつ、その後の近代化の基礎を作ることができたと評価する研究者も多い。光が当たりにくい幕臣の功績を掘り起こす。
出演者
【出演】ブラザー工業株式会社代表取締役社長…小池利和,東京大学史料編纂所教授…山本博文,松本明子,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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