日本で初めての下水道は、明治14年の横浜居留地で、神奈川県御用掛(技師)の三田 善太郎氏がこの下水道の設計を行ない、その時に「マンホール」を「人孔」と翻訳したのではないかと言われています。
ふたについては、現在のようなものでなく、掃除孔としての格子ふただったのではないかと推測されています。
現在のふたの原形は、明治から大正にかけて、東大で教鞭をとると同時に、内務省の技師として、全国の上下水道を指導していた中島 鋭治氏が、東京市の下水道を設計するときに西欧のマンホールを参考に考案したようです。この当時の模様が、東京型と呼ばれ、中島門下生が全国に散るとともに広まってゆき、その後昭和33年にマンホールふたのJIS規格(JIS
A 5506)が制定された時に、この模様がJIS模様になったようです。
一方、名古屋市の創設下水道の専任技師だった茂庭 忠次郎氏は、その後内務省土木局に入り、全国の上下水道技術を指導した折に、名古屋型を推めたため、名古屋型模様のものも全国的に広まっていきました。
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