HOME

専利(特許,実用新案,意匠)

商標

レポート

関連リンク

HOME > レポート一覧 > 【中国商標】「蝋筆小新」(クレヨンしんちゃん)事件の教訓

【中国商標】「蝋筆小新」(クレヨンしんちゃん)事件の教訓

(オンダ国際特許事務所発行「パテントメディア第73号」掲載)

2005年5月
特許業務法人オンダ国際特許事務所 理事
兼 上海オンダ商標事務所 常任顧問 管理部門長
谷尾 唱一

ある報道記事

2005年2月下旬、「蝋筆小新」として中国でも人気のアニメーション及びコミック本「クレヨンしんちゃん」の商標事件について、いくつかの報道があった。事件の骨子は次のとおりである。

  1. コミック本の出版社である双葉社は、2004年4月、ライセンス契約を結んだ上海の業者を通じて、子供服、カバンなど「クレヨンしんちゃん」のキャラクター商品を、上海などで販売した。
  2. ところが、コピー商品が中国名の「蝋筆小新」としてすでに商標登録されていたため、当局により、本物が商標権侵害として扱われ、同年6月~7月にかけて大手デパートなどで売場を閉鎖され、在庫も押収された。
  3. 広東省の中国企業が1997年コミック本の日本語版の絵柄と、台湾版の中国語タイトル「蝋筆小新」を無断で商標登録し、この商標権を譲り受けた上海企業が、靴やカバンなどの「しんちゃん」グッズを販売している。
  4. 双葉社は、2005年1月、当局にコピー商品の商標登録の取消を請求した。
  5. 双葉社は、2002年に中国でコミック本の販売を開始した際、海賊版の締め出しに成功している。

はじめに  

この報道記事は、日本の関係者に多くの衝撃を与えた。しかしながら、この事件には、日中の商標制度とその運用の違いや、中国における商標管理はどうあるべきかなど、日本企業が中国での事業を展開するに際し、解決しておかなければならない重要課題が含まれていることも事実である。そこで、企業における商標管理の一側面からこの事件を考えてみたい。

1.中国における商標事情

中国の商標制度は1904年に「商標登録試用規程」が制定されて以来100年を経過し、現行法は1982年に施行されている。その後、1993年7月第1回の改正法の施行、2001年12月第2回の改正法の施行を経て今日に至っている。
人口13億人といわれる中国の目覚しい経済発展とマクロ調整の強化・改善に伴って、日系企業はもちろん、世界各国からの中国進出は年々増加の一途である。
このような中で、中国商標の出願件数は目を見張るものがあり、直近のデータによれば、2003年度の商標出願件数は42万件、2004年度は約60万件に達したという。
しかしながら、その一方で、審査官、審判官の数は大幅な増員の気配はなく、現状のままで出願件数が増加するとすれば、出願から登録に至るまでの審査期間は、徐々に長期化することが懸念されている。
また、中国国内市場では、あらゆる商品分野で模造品・模倣品が氾濫し、これらに対する当局の取締りも強化はされているが、現実にはこれを根絶するほど有効な手段とはなっていない。
このため、各企業は、中国での模倣品対策に翻弄され、その排除に多くの労力と時間を強いられているのが実態であるといっていいであろう。
特に、有名ブランドのパッケージのコピーやデザインを真似したいわゆる偽物商品が、いたるところで販売され、これが医薬品にまで及ぶに至っては、消費者の人命にも関わる重大な問題ともなっている。

2.日本における「クレヨンしんちゃん」と商標権

この事件の対象となった「クレヨンしんちゃん」は、1992年4月からテレビ朝日系で放映中のTV番組で、園児「しんちゃん」を主人公にしたギャグアニメである。
この番組は永年、子供から大人に至るまで日本全国にブームを巻き起こし、いまだその人気は衰えていない。
これまでにも、「ドラえもん」「ウルトラマン」「鉄腕アトム」等々多くのアニメーション番組に連動して、そのキャラクター商品が販売されてきた。「クレヨンしんちゃん」もその例外ではなく、日本国内では、文房具、雑貨、服・服飾、おもちゃをはじめ、多岐にわたる商品分野でキャラクターグッズが販売されている。
この状況下で、日本国内における商標「クレヨンしんちゃん」の登録状況はどうであったか。
(株)双葉社は、商標「クレヨンしんちゃん」を日本国内で、文房具、おもちゃ・人形など7つの商品分野で登録商標を保有している事実がある。

3.「クレヨンしんちゃん」事件の背景

そもそも、「クレヨンしんちゃん」事件の発端は、日本の権利者である双葉社が、上記のように日本国内においては商標権を保有してはいるが、中国における商標権を確保していなかったことに由来する。
中国語版の「クレヨンしんちゃん」コミック本は、1996年頃から台湾・香港経由で中国本土に入り、双葉社が中国本土で正式に出版したのは2002年であったという。
この経緯から考えると、双葉社は、1996年に「クレヨンしんちゃん」コミック本を台湾で販売開始する前、もしくは遅くとも販売開始した時点、更に遅くとも2002年に中国本土で正式に出版する前か出版開始の時点で「クレヨンしんちゃん」と同意語である中国語表記の商標「蝋筆小新」を登録出願し、継続的に第三者の出願状況を監視する必要があった。
これらが実行されていれば、本物の「クレヨンしんちゃん」グッズの販売開始後に、商標権侵害で売場から撤去され、在庫をも押収されるという最悪の事態は回避できたであろう。
不幸にして中国においては、1997年以来、「蝋筆小新」が、日用品、食品、薬品、被服、電気製品など広範囲の商品群で、第三者によって26の商品区分に36件もの商標登録がなされていたのである。
当所上海オフィスの調査によれば、この36件の年次別登録件数は、1997年:眼鏡、おもちゃなどに4件、1999年:清涼飲料・茶などに4件、2000年:食用油などに1件、2001年:乳酸飲料などに1件、2002年:レストラン、調味醤油などに3件、2003年:化粧品、文具などに14件、2004年:マンガ本、人造花などに9件となっており、これらの出願人は、福建省、広東省、浙江省及び香港など中国の経済発展地域である東南沿岸地区に集中している。
この内4件は登録異議申立の審理中であり、「クレヨンしんちゃん」の図柄入りの商標1件は既に登録抹消となっている。
また、これらの36件中7件は、既に最初の出願人から第三者に権利者名義が変更されていることが分かった。
さらにまた、上記の36件の中国文字商標のほかに「クレヨンしんちゃん」の図形商標4件が登録されていることも分かっている。
一方で、「クレヨンしんちゃん」の中国語表記の「蝋筆小新」のいくつかは、「中国知識産権報」などの新聞やホームページに譲渡広告されていることも判明している。
最初に登録された1997年6月から、最後に登録された2004年5月まで、7年間にわたり商標「蝋筆小新」が登録され続けられたということである。
双葉社にとって課題は、既に抹消された1件を除く残り35件の既登録商標にどのように対処するかである。上記のように、内4件は登録異議申立中であるとすれば、その結果を期待するしかないが、仮にこの4件の登録異議申立てが成功したとしても、残りの31件に上る商標権は存続したままである。
中国の商標制度では、わが国同様「先願主義」を採用しており、商標権は最先の出願人に付与される。また、商標公告日から3ヶ月以内であれば、商標局(工商行政管理局)に対し登録異議申立ができることになっている。上記のように登録異議申立の対象案件が4件であることは、その他の案件は法定の異議申立期間が経過し、制度上の対処が不可能であったと考えられる。
また、同国の法制上、3年間の不使用取消請求制度(審判制度ではない)、商標取消審判制度も導入されているが、不使用の立証は難しく、取消審判では、除斥期間を5年と定められており、権利者の悪意の立証、即ち詐欺的手段又はその他の不正な手段によって取得されたことを立証することが必要とされている。
しかしながら、このような法的手段を選択肢とするにしても、証拠の判断は極めて厳格であるばかりか、権利者の悪意を立証することは至難の技といえよう。
もちろん、中国にも馳名商標(著名商標)認定制度があり、改正商標法による認定例も多くはなっているが、「著名性」の立証は日本におけると同様に容易ではない。上記の異議申立中の4件は、「クレヨンしんちゃん」が著名商標であることを論拠としたものではないだろうか。それにしても、この異議申立の審理が終わるまでには、少なくとも3年程度を要するであろう。
万一、これらの法的対抗手段が当局によって否認されれば、現在の権利者から相当の対価を支払った上で譲り受けるしか手段は無い。しかしながら、上記のとおり既に中国国内で使用されている商標があり、すべてを双葉社に有利に解決することは難しいかもしれない。
いずれにしてもこのような対処療法は、事業の海外展開において抜本的解決手段とはならないのである。その間の多大な費用と時間は計り知れないものがあるばかりか、企業にとって重要なビジネスチャンスを喪失することのリスクは、極めて大きいものがあると考えなくてはならない。
今回の「クレヨンしんちゃん」事件に先立って双葉社は、2002年に中国本土でコミック本の販売を開始した際、海賊版の締め出しに成功したことが報道されている。
中国における商標権の上記のような経緯を考えれば、この成功例は「著作権」に基づく排除であって、「クレヨンしんちゃん」が著名商標であることに基づく排除ではなかったのではあるまいか。いずれにしても、中国語表記のみからなる商標「蝋筆小新」の部分に「著作権」の効力は及ばないのである。
冒頭の報道記事骨子によれば、双葉社は2004年4月、キャラクターのライセンス契約を結んだ中国上海の業者を通じて、子供服、カバンなどを販売したとのことである。
双葉社と上海の業者とのライセンス契約の時期・内容は明らかではないが、おそらく「クレヨンしんちゃん」の「キャラクターの商品化権」を付与したものであろう。
そうしてみると、当事者のライセンス契約締結時には、既に中国の第三者によって商標「蝋筆小新」が登録されており、事実上、双葉社には「キャラクターの商品化権」を他人に付与する権利は最初から存在しなかったのではないか。いささか疑問の残るところである。
双葉社にとって、第三者の先願・先登録商標について調査するチャンスはここにもあったはずである。少なくとも、当事者が、第三者の先願・先登録商標調査を注意深く実施していたならば、「キャラクターの商品化権」のライセンス契約は成立しなかったであろうと考えられる。

4.商標調査と権利確保の必要性

それでは、この事件を教訓として、我々は何を学ぶべきだろうか。
まず、商標権の効力が及ぶ地域的範囲は、商標権を取得した当該国に限るということを、大原則として認識しておく必要がある。例えば、日本国内で商標権を取得してあるから、日本以外の国にもその商標を付して商品を輸出してもよいという論理は成り立たないのである。当然のことながら、その国で自ら製品の生産・販売を開始する場合はもちろん、その国へ事業をライセンスする場合も全く同様である。
これらの場合、少なくとも予め事業展開をしようとする国で商標権を取得しておくか、当該国でその商標と同一又は類似の他人の商標が登録されていないか否かを、事前に調査をしておく必要があることは前にも述べた。
この事前対策を実施することなく事業展開がなされ、その時点で既に第三者によって商標権が登録されていたとすれば、その者は商標権侵害のリスクを負わなければならない。
今回の「クレヨンしんちゃん」事件は、不幸にしてこのケースに該当する。

 

外国における商標調査は、その国の商標制度に精通した現地代理人(特許事務所など)を起用すべきであろう。特に、中国の場合には、いまだ公表された商標審査基準はなく、実務上の経験則によって判断しなければならない要素が多くある。例えば、漢字であっても中国語と日本語という言語上のギャップ、商標の類否の基準となる称呼と観念の捉え方、カタカナ・ひらがなの取扱いなど、中国商標制度固有の視点があることを考慮しなければならない。

終わりに

我々にとって模倣品は悪である。しかしながら、中国で模倣品は悪ではないとしたら、我々は他の選択肢を考えなければならないであろう。それが知的財産権の多面的戦略である。
ジャパニーズスタンダードは、必ずしもグローバルスタンダードではないことを知らされた事件である。
少なくとも、企業がその国において事業活動を推進する限り、国と制度を理解し、その仕組みの下で国と社会に融合しながら活動を展開していく姿勢こそが肝要ではないだろうか。
日本の文化が徐々に希薄になっていく中で、日本が世界に誇れる文化がコンテンツビジネスである。この事件を知的財産権の側面から眺めれば、コンテンツビジネスにおける商標管理のあり方が明確となり、業界に重要な教訓を残したといえよう。

 

参考:「蝋筆小新」(クレヨンしんちゃん)事件続報 Q&A (2005年9月)