この碑は地下鉄御堂筋線の東三国駅の近くの住宅地の一角にひっそりと立っている。
昔の長柄橋(ながらばし・今の淀川にかけられている長柄橋ではない。平安時代の歌枕。その頃はすでに橋はなく、橋げたなどはきりとられて、香木として尊重されたとか・・)は、今の大阪府淀川区東三国にあったようだ。推古天皇の時代、このあたりは三角州のなかにあり、難波の入り江は大小多くの島が点在していた。この頃、道をつなぐ橋は大水の出るたびに押し流されていた。長柄橋の架橋工事を完成させるため、人を生きながらに橋の下に埋めること、つまり、人柱を入れるしかないということになった。吹田の垂水の長者巌氏(いわじ)は、日頃の報恩の精神、慈悲の心を達するために、袴に横つぎのあたっている者、すなわち自分を人柱にすればよいと進言しました。推古天皇治世21年(613年)のことである。
人柱の霊験が現れ、長柄橋の架橋工事は完成した。しかし、河内禁野の徳永氏に嫁いでいた巌氏の娘、照日(てるひ)は、父が人柱となってからは悲哀に沈み、物言わぬ人となった。夫の介抱の功もなく、心を閉ざしてしまう妻を里方に帰すことになる。照日を乗せた一行が長柄橋を通過して垂水の里近くまで進んできたとき、一羽の雉の鳴く声が聞こえた。すかさず夫は弓矢を取り、雉を射止めた。それを輿の中から眺めていた照日は、ものいわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし と歌を詠んだ。夫は妻の心を知り、驚きかつ喜んで、雉をそのほとりに手厚く葬り、妻・照日を伴って河内へそのまま引き返し、仲良くくらしたそうだ。
この近くで私たち夫婦は22年前、新婚生活をスタートさせた。阪急豊津駅と、北大阪急行江坂駅のちょうど真ん中に位置する。歩いて7分のところだ。雉を葬った場所は雉畷と呼ばれ、上の写真にあるように石碑が建てられている。石碑の横には、老松が茂り、時の流れを感じさせてくれる。