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ブラジルで開催されるワールドカップに挑むアルゼンチン代表
今年は4年に一度のワールドカップ・イヤーだ。6月12日から7月13日までの1か月間、サッカー大国ブラジルにて、「世界一」の称号をめぐる激戦が繰り広げられる。
今大会に参加する32か国のうち、日本は最も早く出場権を勝ち取った国。前回大会同様、今回もアジア地区予選を難なく勝ち抜いたが、1998年大会まではどう頑張っても予選を通過できず、ワールドカップに一度も参加したことがなかった事実を考慮すると、Jリーグ誕生から20年の間、日本のサッカーのレベルは着実に進歩してきたことがよくわかる。
実際、今大会に出場する日本代表は、ACミラン本田圭佑、マンチェスター・ユナイテッド所属の香川真司、インテル・ミラノ所属の長友佑都といった、欧州のビッグクラブに籍を置く主力選手たちが全盛期の状態で挑む。様々な国の選手たちとの競り合いの中で逞しく成長を遂げた日本男児たちには、ブラジルでの好成績が期待される。
南米大陸でワールドカップが開催されるのは、実に36年ぶりのこと。前回は1978年、アルゼンチンにて行われた。当時のアルゼンチンは軍事政権下にあり、ワールドカップでの優勝が軍隊のプロパガンダに利用されたとして、国際的に不評を買った大会だった。
その一方であの大会は、私の人生を変えた。
アルゼンチンサポーター名物の紙吹雪、実は1枚1枚がこんなに大きい
1978年大会は日本で初めて中継されたワールドカップで、9歳の小学生だった私も、父と一緒にテレビで決勝戦を観た。スタジアムに舞う大量の紙吹雪。サポーターの熱狂。得点後に両手を広げ、長髪をなびかせて喜びを爆発させながら走り回るストライカーの情熱。優勝の瞬間、両手で顔を覆い、ピッチに倒れ込んで歓喜の涙を流すディフェンダーの感動。目に映る全ての光景に圧倒され、日本からはちょうど地球の反対側に位置するアルゼンチンという国に興味を抱いた。そしていつの日か、アルゼンチンという国とそのサッカーを体感したいと熱望するようになった。
今だったら、どこにいても、ネットを使って世界中の情報が一瞬にして入手できる。でも一昔前までは雑誌や新聞などの印刷物に頼るしかなく、その印刷物だって簡単には手に入らなかった。中学生の頃からアルゼンチン行きの計画を本格的にたて始めた私は、在日アルゼンチン領事館に手紙を書いて観光用のパンフレットを送ってもらったり、外国の書籍を扱う書店で首都ブエノスアイレスの地図を買ったり、当時日本にあったわずか3冊のサッカー専門月刊誌を全部買い占めて、遠い国に思いを馳せた。
今でこそ、サッカーは日本でも大人気のスポーツだが、1980年代はアマチュアスポーツでしかなく、国内リーグの情報も新聞のスポーツ欄の端っこにスコアが掲載されるだけだった。それでも4年に1度のワールドカップだけはNHKで毎回放送され、1986年大会では、ディエゴ・マラドーナの活躍でアルゼンチンが再び世界チャンピオンに輝いた瞬間をライヴ映像で観ることができ、その感動からアルゼンチンへの憧れとサッカーに対する思いはますます膨らんだのである。
1988年3月、大学在学中に、私はあるサッカー専門誌の読者プレゼントに応募すべく、編集部宛に送ったハガキに「アルゼンチンの情報をもう少し載せてください」というリクエストを添えた。その頃はアルゼンチンに対する私のアプローチもかなり積極的になっていて、同国随一のスポーツ専門誌「エル・グラフィコ」をアメリカ経由で購読していたこともあり、ハガキにはこのような文章を書いた覚えがある。
「私は毎週アルゼンチンからエル・グラフィコ誌を取り寄せていて、リーグ戦だけでなく、将来有名になりそうな若手選手の情報なども辞書を引きながら読んでいます。そういう情報を貴誌にもっと載せてもらえたら嬉しいです」。
読者プレゼントに当選したかどうかは覚えていないが、後日、その雑誌の編集部から電話がかかってきた。ハガキの一文を読んでくださった編集長からだった。
「ちょうど私もアルゼンチンサッカーの情報をより多く掲載したいと思っていたところでした。エル・グラフィコ誌の情報をもとに、リーグ戦のダイジェスト記事を書いてもらえませんか」。
当時、私は19歳の大学生。文章を書くことはもともと好きだったが、ライターになろうとは思っていなかったので、このオファーには正直なところ驚き、戸惑った。でも、1週間遅れで手元に届く雑誌をもとに日本語の記事をまとめ、アルゼンチンサッカーの魅力と面白さを日本のサッカーファンたちに伝える仕事に、使命感のようなものを感じたのも確かだった。
1年後、私は大学を卒業して間もなくブエノスアイレスに飛んだ。月一で現地から書く現地レポートの原稿料2万円で、当時のアルゼンチンでは十分生活ができた。20歳の日本人、しかも女性がひとりでサッカーを観に行くのは危険だということで、心配した友人が、一緒にスタジアムに行ってくれる人を紹介してくれたのだが、その人こそ、後に私の夫となるフォトグラファーの男性だった。
私が初めてアルゼンチンに降り立った日から、今年の3月でちょうど25年になる。その間、日本ではプロリーグが誕生し、サッカーが野球を超えるほどのメジャーなスポーツになり、私は夫と一緒に取材活動を続け、最初に仕事をくれた専門誌にコラムを連載し続けている。
スタンドが見えなくなるくらい大量に舞う紙吹雪
アルゼンチンで四半世紀にわたって日本向けにサッカーの記事を書き続けることができたのは、決して私にライターとしての飛び抜けた才能があったからではなく、単に、アルゼンチンとサッカーに対する憧れが起こした衝動のおかげだ。サッカーが好きになっていなかったらアルゼンチンに来ることもなく、夫とも出会っていなかったし、二人の娘たちの母になることもなかった。私の人生は、まさにサッカーに導かれたと言っていい。
アルゼンチン在住25年を迎えた今年、私がサッカーを愛するきっかけとなった1978年大会以来の南米開催のワールドカップで、アルゼンチンが優勝したらどんなに感動的だろう。全盛期にある主力選手を揃えた日本の活躍も楽しみだ。
今回も、世界のどこかで、ひとつのボールを転がすだけのスポーツによって人生を変えられる人が生まれるのかもしれない。
1968年生まれ。清泉女子大学英語短期課程卒。ライター。幼い頃から海外に興味を抱き、洋画・洋楽の世界に浸るも、1978年のワールドカップでサッカーに魅了されたことがきっかけで1989年からアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに暮らす。数々のサッカー誌・スポーツ紙に寄稿する他、アルゼンチンサッカーに関する書籍も執筆。3月に新著「キャプテンメッシの挑戦」(朝日新聞出版)が出版されたばかり。