中国歴史のある事件にスポットを当てて、図や絵や表を加えて細かく分析していく企画です。 第六回 馬陵の戦い(B.C.341) 馬陵の戦いは、二人の人物によって際立つ戦いになっています。魏の龐涓と斉の孫臏です。 彼らは同門で兵法を学んだ仲で、 成績は常に孫臏が良かったようです。龐涓は自分より優れている孫臏の存在を恐れ、魏に孫臏を呼び寄せて罪をかぶせて、 足切りの刑に処し、顔にいれずみをさせました。 孫臏を不浄の者とすることで登用されることがないようにしたのです。 ちなみに臏とは「足切り」のことです。孫臏の名は伝わっていません。孫臏とは「足切りの孫」というあだ名でしょう。 孫臏は魏で捕らえられ、そのまま一生を終えるところでしたが、偶然にも斉の使者の目にとまり、脱出して斉に仕えるようになります。 龐涓の思惑は外れて、孫臏は世に現れることになり、しかも両者は敵対関係となったのです。当然、孫臏の心の中には龐涓への復讐の念が残ったままでした。 さて、馬陵の戦いの15年前、馬陵の前哨戦とも呼べる戦いがありました。桂陵の戦いです。 B.C.356魏は趙を攻めました。趙は斉に救援を求め、斉威王は田忌に援軍を率いさせます。その軍師が孫臏でした。 孫臏は趙に兵を進めずに、魏の国都大梁に兵を進めました。国都を落とされるわけにはいかない魏軍は急遽、 趙攻めを取りやめて帰国しました。そこを斉軍は桂陵で待ち構えて、魏軍を大破したのです。 この桂陵の戦いを前提にして、この馬陵の戦いを見てみましょう。 | |||||||||||||||||||||||||||
@B.C.341再び魏は趙を討つ。 A趙は今回も斉に救援を依頼する。 B孫臏は斉宣王に「趙・魏の兵がまだ疲弊してもいないときに、趙を援けるのはよくありません。趙は滅亡に瀕すれば、 かならず斉を頼りとしましょう。そこで疲れた魏軍を討てば、大利と尊名を得ることができましょう」と進言し、 宣王はそのとおりとする。 C魏は趙を攻撃して、5戦して5勝する。 D斉は両軍が疲れたころを見計らって、兵を起こし、桂陵の戦いと同様に趙ではなく魏の国都に兵を進める。 E魏の将軍龐涓は趙の攻撃を取りやめ、斉軍にあたる。 F孫臏は戦いに敗れて敗走すると思わせるため竈の数を日に日に少なくしていき、脱走兵が多いと見せかけて、 魏軍を深追いさせようとする。 G龐涓は策にはまり、軽兵で斉軍を追い、険阻の地で斉軍の反撃に会って大敗し、自身も戦死する。 馬陵の戦いは、孫臏の凄みが顕著に表れた戦いで、龐涓の死ぬ間際の「ついにあやつの名を知らしめてしまったか(功をたてさせたか)」 というセリフ通りの結果となりました。 龐涓もさるもので、斉が趙を救わずに魏に兵を進めることは分かっていました。 そこで慎重に斉軍の動きを見ながら趙から撤兵させます。ここまでは五分の戦いといっていいでしょう。 孫臏はそこで有名な「増兵減竈の計」を使います。竈の数を日に日に少なくしていき、脱走兵が多いと見せかけました。 これには龐涓もひっかかり、斉軍恐るに足らずと考えて昼夜兼行で追撃します。孫臏はこの魏軍の動きを読んでいたようです。 いつどこで魏軍に追いつかれるかを予想して、弩兵を伏せておきました。夕方に険阻な地で追いつかれると予想して、 大木に「龐涓この樹の下で死せん」と書かせて、弩兵には火が上がったら一斉に射るように命令しました。 はたして魏軍は夕方にその地にたどり着きました。龐涓は白い幹に文字が書かれているのを見つけて、火をともしてみようとした瞬間、 一斉に弩が放たれ、魏軍は大混乱を起こし、伏兵に撃たれて大敗しました。 非常に良く出来た話で、史実なのか疑いたくなります。しかし孫臏の兵法の凄さを表すには最適のものになっています。 それにしても孫臏の兵法には驚かされますね。趙を救うために魏の国都を討つとか、救援国の惨状がひどくなればなるほど、 救援したときに感謝される度合いが高いなど、先の先、裏の裏を読んだ兵法は見事としか言いようがありません。 兵家の面目躍如足るものがあります。 後世、「孫臏兵法」と尊重される孫臏の兵法は、輝かしい彼の実績が根底にあるのです。 |