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枕流亭ブログ

2011-10-23

[]禰軍墓誌

「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見(朝日)

http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html

西安で唐代の百済人の禰軍の墓誌が発見され、墓誌の文中に最古の「日本」呼称が出ているということで、話題になっています。日本の国号が記載されている墓誌というと、井真成墓誌(734年)の発見が記憶に新しいですが、それをさらにさかのぼる日本号つき墓誌の発見になりますね。

墓誌の誌名は「大唐故右威衛将軍上柱国禰公墓誌銘并序」らしいですが、ネット上には全文が落ちてないので、情報求むです。

朝日で出てる陰影は墓誌本文のごく一部だと思いますが、素人目で分かるとこだけ起こしておきます。

奠風影征雲外去顯慶五年

戎如金磾之入漢  聖

日本餘噍據扶桑以逋誅

千艘横波援原虵而縦沵

西暦660年(顯慶五年)の唐による百済征服や、663年の白村江の戦いが記述されているようですね。

ところで最近、西安でやはり百済出身の禰寔進・禰素士・禰仁秀といった人物の墓が出ています。

http://sn.people.com.cn/GB/216136/15521389.html

唐における百済遺民禰氏の存在が浮かび上がってきますね。唐の百済人は黒歯常之だけじゃないんです!

mujinmujin 2011/10/23 20:14 なるほど、百済人なんだけど唐側のひとなんですね。日本と扶桑が区別されていて、日本が民族名ないしは王朝名、扶桑が地名として扱われているように見えるのが興味ぶかいです。

nagaichinagaichi 2011/10/23 21:16 墓誌の全文が出てこないと分かりませんが、記事を見るかぎりでは、百済滅亡の前後の期間に入唐して、最終的に唐の官位か贈官かを受けた人なんだと思いますよ。おっしゃるとおり「扶桑」は「日本」の退却先の地名として扱われてますね。

nagaichinagaichi 2011/10/23 22:03 http://lib.cqvip.com/qk/82161X/201107/38330696.html
によると、墓誌の冒頭はこんな感じでしょうか。
大唐故右威衛將軍上柱國禰公墓誌銘並序
公諱軍,字溫,熊津蝸夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;淼淼熊水,臨丹渚以南流。浸煙云以槁英,降之於盪沃;照日月而模愆,秀之於蔽蔚;靈文逸文,高前芳於七子;汗馬雄武,擅后異於三韓;華搆增輝,英材繼響。綿圖不絕,奕代有聲。曾祖福、祖譽、父善,皆是本藩一品,官號佐平。並緝地義以光身,佩天爵而憋國。忠侔鐵石,操埒松筠。範物者,道淼有成。則士者,文武不墜。公狼輝襲祉,蔫頷生姿。涯溶澄陂,裕光愛日。
まあ慌てなくても、そのうちどっかで全文拾えるとは思いますが。

mujinmujin 2011/10/24 10:19 父祖代々、百済の公卿クラスですか。それにしてもこの手のは読みにくい文を書きますね。

goushugoushu 2011/10/24 14:39 「其先與華同祖」の華がよくわからないけど(華氏?)「永嘉末,避亂適東,」ということは、(自称)漢人の子孫ということですかね。
唐で生活するために漢人の子孫を自称したのか、本当に漢人の子孫として百済で中国語(漢文)を扱える家系だったりしたのか、ちょっと興味深いです

nagaichinagaichi 2011/10/24 20:04 「佐平」というのが百済の一品官らしいですね。墓誌はポエミーな文節は読み飛ばして、血縁や官歴を追ってくのが吉っすね。詩的文節も文学史な意義はあるかもしれないですが、その人物の実像を追うにはわりとノイズですから。基本、墓主の悪口は書かないですし。

「華」は華夏の意味と取りました。西晋末年の永嘉の乱を避けて半島のほうに行った一族だと言ってますね。たぶん漢人の子孫を自称しているだけだと思いますけど。

巫俊(ふしゅん)巫俊(ふしゅん) 2011/11/11 04:29 『日本書紀』に百済の禰軍の記述がありました。
665年に唐の使節団の一員として海を渡り、日本の筑紫へ上陸しているとのことです。

(天智天皇)四年(665年)・・・
九月,庚午朔壬辰,唐国遣朝散大夫-沂州司馬-上柱国-劉徳高等.等謂,右戎衛郎将-上柱国-百済禰軍.朝散大夫-柱國-郭務悰.凡二百五十四人.七月二十八日,至于對馬.九月二十日,至於筑紫.二十二日,進表函焉.

『日本書紀』によれば、唐の使節団は朝鮮半島と九州のあいだを繰り返し往復しています。
その様子を想像すると、日本の朝廷はその挙動を見守っていたばかりか、その後の内乱(壬申の乱)にも使節団は間接的な影響力を保持していたとする説があります。

巫俊(ふしゅん)巫俊(ふしゅん) 2011/11/11 06:11 墓碑の「千艘横波」というのは、
『晋書』に「則滄海膻波・・・」などとあるようですが、
千艘の大軍が横波(津波のように両翼にひろがる波)になって日本に押し寄せるという意味でしょうか???

墓碑の「戎如金磾之入漢」は、
前漢に仕えた匈奴人の金日磾のことですよね。
詩風の文章ながら、
本人のすごく、なまなましい体験をもとに、
「帰属意識」について語っているようにも感じました。

nagaichinagaichi 2011/11/12 01:10 「千艘横波」が白村江の戦いの描写なのか、それ以後の話なのか、墓誌全文を読んでないので判断つきませんが。先走るのはやめておきます。

「金磾之入漢」は、金日磾の故事を引いているのは間違いないですね。もし金日磾のような境遇だったとするなら、一度奴隷に落とされて宮中に入れられたのか、あるいは皇帝の近臣として篤実に仕えたのかどちらかだろうと思います。

1111111111111111 2012/05/01 21:30 ネットでこの墓誌が読めます。禰軍の弟禰寔の墓誌も発見された

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