白村江の戦いの敗戦に学んだ、日本海海戦
前編
斉明天皇陵が、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳に確定したとの報道があり、以前、このブログでコメントを書きました。
その斉明天皇の最晩年、古代史最大の対外戦争が起こったことは余り知られていない。
この戦いは、神国日本の沽券にかかわると、戦前の教科書にさえ載っていない、完全な日本側の負け戦である。
万余の日本兵が死んだ、白村江(はくすきえ)の戦いであった。
結果は、伽耶の国の任那日本府以来続いた朝鮮半島支配の足がかりが失われ、完全に撤退した。
この戦いにより、日本という国家を初めて意識し、日本書紀、古事記を編纂した。
国家を統一し、律令体制に移行するきっかけになった。
時代は下って、豊臣秀吉の朝鮮征伐に次ぐ敗戦であった。
白村江の戦いも朝鮮征伐も、いずれの戦役も陸では善戦したが、海の戦いで船を沈められ、補給が途絶えて敗北した。
いずれも、水戦に対する認識が薄く、船など、ただ、兵と兵糧武器を輸送する手段とのみ、思って居た。
白村江の戦いの概要は、
百済を滅ぼした唐の水軍基地は、錦江(きんこう)という河の上流の熊津(ゆうしん)にある。
白村江とは、その錦江の海に注ぐ河口の古名である。
日本は渡洋型の大船で、はるばる海を越えて百済にやってきた。
うねりの大きい外洋では、日本の大船の方が遙かに有利である。小さい唐船を外洋におびき出して雌雄を決せれば勝っていた。
だが、日本軍はあくまでも錦江を奪う事にこだわった。
制海権ならぬ制流権獲得にあった。
輸送の殆どを水運に頼る当時、錦江を制するは、百済を制すと言って過言でないからだ。
まして、海から見ると、手薄そうな唐の配陣である。
小舟が遊弋しているだけである。
たかが小舟の集団、踏みつぶせ、とばかりに、先を争って攻め上った。地形も敵の様子も調べずにである。
ところが、唐の水軍は練度が高く、隊列を作って敏捷に動く。唐船は当然、余計な物は積んでいない。
ましてや百済を滅ぼした後、三年も錦江にいるのだ。錦江を熟知していた。
かたや日本側は初めて見る錦江である。さらに援助物資を積んで船足が遅い。
攻め上る日本船に向かって、唐軍の潜んでいた両岸からも、火矢が放たれた。
日本船は岸から離れた川中に固まった。しかも大船が災いして舷がぶつかりあって身動きが取れない。
まさに、味方同士で舷舷相摩す悲惨さあった。
火は忽ち、油を撒かれた他船に燃え移った。
潮が反流した頃合を見て、唐軍は一斉に襲いかかって来た。
日本船の四百艘が燃えて沈んだ。
完敗であった。
残った船はようやく外洋に逃れた。
この辺を、『日本書紀』は、躍動的に描いている。
しかし、敗北をいたずらに憂えず、敗北を敗北として認め、そこから教訓を得ないと、独善に陥り、同じ過ちを繰り返す事になる。
勝ち戦からは、傲慢しか生まれない。
真の教訓は敗北からしか得られないからだ。
勝ち戦は、おれの手柄だ、功績だと、参加した者は騒ぎ立てる。
失敗談は言わない。言うと、論功行賞に響くからである。
評価する側も、勝ったから、ま、いいか。と評点が甘くなる。どうして勝ったのかという真の要因は霞み、総花的な評価になってしまう。
負けた時、俺は知らぬ、俺の意見は無視されたと、互いに責任をなすりつける。
責任は、弱い者、憎まれ者にまず転嫁されるが、本音をぶつけあう。
後世の者は、そこから真実を学ぶ事ができる。
勝てば、次の戦略に甘くなるが、
負ければ、今度こそ負けてはならぬと、細部まで徹底して練り上げて猛訓練する。
ぎりぎりまで戦わない。
戦う時は万全を期し、総員が死を覚悟するほど追い詰められ、満を持して戦う。
だから、起死回生の戦略と、最高の士気をもって戦いに臨む。
必死に戦うから勝算が大きい。
今、NHKテレビで、司馬遼太郎原作の、
日露戦争を扱った、『坂の上の雲』、が年末に放映される。
今年は第二部が予定で、日本海海戦は、来年に放映のようである。
日本海海戦の作戦を構築した秋山実之は、伊予の村上水軍の兵法と共に、この白村江の戦いを詳細に研究した証拠がうかがえる。
二つの戦いの共通は、
まず、二つの場所が近い。
地の利、人の和は、待つ方が圧倒的に有利である。
しかも、確実にどこに来るのか分かっている。日夜猛訓練に明け暮れて居た。
攻める方は戦い以前に、航海に専念せねばならない。
日露戦争時のバルチック艦隊は、最新鋭艦を並べる世界最強の艦隊である。
だが、艦の性能はともかく、アフリカの喜望峰を回り、インド洋を通過し、一年に及ぶ長い航海で兵は疲れ、充分な訓練もできず、厭戦気分がみなぎっている。
石炭積みなどの雑用に日々を過ごしていたからだ。
「行こかウラジロ 帰ろかオロシャ ここが思案のインド洋」
インド洋で滞陣するバルチック艦隊を、秋山は揶揄したという。
5月27日という、ロシア皇帝の誕生日に開戦時を合わせていることが戦後分かった。
驚くことに、戦機とは全く無縁な所で会戦日を決めていた。
これは、泥沼に入った日中戦争時の日本軍も、天長節等の記念日に攻撃していたので、笑えない。
祖国防衛や大義名分のない戦争に征く兵員の士気を鼓舞しなければならないからだ。
バルチック艦隊員は、速くウラジオストック港に入って休みたいという一心で動いた。
遙か太平洋を回る事なく、日本艦隊の待ち伏せする日本海を、団子のように固まり、狭い日本海を我先に北上した。
どのような方法でも良いから、とにかく日本艦隊を振りきり、ウラジオストックに入れという、およそ作戦と言えない方法で日本艦隊と戦った。
日本海を熟知し、標的の島が形を変えるほど、日夜、月月火水木金金、の猛訓練をしている日本軍である。
日本海海戦は、敵がやって来る所を叩く。
ウラジオストックに入られたら負けだ、という悲壮感で北上するバルチック艦隊を索敵した。
手薬煉ひいて待つ日本軍は、肉を切らせて骨を切るという、α運動(T字戦法)を行い、バルチック艦隊は全滅した。
甲陽軍鑑にあるように、まさに、生きようと思えば死に、死のうと思えば生きる。
結果は、味方の損害は水雷艇3隻。
その内2隻は味方同士の衝突による沈没である。
波高し日本海を、小さな水雷艇が木の葉のように揺れながら、敵艦に肉迫した証拠でもある。
まさに、攻守所を変えた白村江の戦いであった。
- 2010/11/02(火) 20:32:25|
- 飛鳥時代
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