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田淵節也元野村証券会長が死去

 “証券業界のドン”と呼ばれた野村証券(現野村ホールディングス)の田淵節也(たぶち・せつや)元会長が26日午後9時16分、心不全のため死去したことが27日分かった。84歳。岡山県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。お別れの会を開く。

 1947年京大法学部卒業後、野村証券入社。事業法人関係を中心に主に営業畑を歩み常務、専務、副社長を経て78年当時では珍しい54歳の若さで社長に就任。精彩を欠いていた国際部門を飛躍的に伸ばし、「ガリバー」と形容されるほど世界有数の証券会社に押し上げた。

 85年12月に田淵義久氏に社長の座を譲った後も、実力会長として君臨。財テクブームに乗った87年9月期決算で、経常利益を日本一に押し上げるなど野村の経営基盤を盤石にした。日本証券業協会会長なども歴任した。

 竹下登元首相と近く、証券業界を銀行と並ぶ金融機関に脱皮させた旗振り役として、90年に証券業界初の経団連(現日本経団連)副会長に就任するなど業界の地位を高めた。

 91年に特定の大口顧客への損失補てんや、暴力団関係者との不透明な取引など一連の証券不祥事が発覚。経団連副会長を事実上解任された上、国会で証人喚問され、同年7月に会長を引責辞任、相談役に退いた。

 93年の株価急落の際には当時の細川護熙首相に呼ばれ、株式市場対策を進言。95年6月にはアジア地域の戦力強化のためとして当時の田淵義久相談役とともに取締役に復帰した。復権への足掛かりではないかと取りざたされたが、97年の総会屋への利益供与事件で、東京地検特捜部の家宅捜索や事情聴取を受け、すべての役職から退いていた。

 死去する直前は笹川平和財団の会長を務めていた。

 学徒動員を受けマニラに出撃する矢先、マッカーサーのフィリピン反撃が始まり、作戦中止で生き残った。さらに、乗った小舟が転覆しおぼれかけたが、漁船に救われるなど強運の持ち主でもあった。

 [2008年6月28日2時42分]


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