No.033  2007年10月10日

     
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日本人が知らない「人類支配者」の正体  
船井幸雄  太田 龍   ビジネス社   2007年10月刊


 イルミナティに徹底利用された長州藩の正体

船井幸雄 少し話が脱線しますが、岸信介や安倍晋太郎・晋三が出た土地は、大室寅之祐(=すげ替えられた明治天皇)が出たというあたりとほとんど同じところだといわれています。伊藤博文などもその辺に近い出身の人です。岸・佐藤栄作、安倍系の政治家についてはそのことも知っておく必要があります。
太田) 大室寅之祐は今の山口県・田布施町という所の出身です。田布施町の周辺から実際、首相が何人も出ています。これは単なる偶然ではありません。
  最近、フリーメーソンの会員と自称している加治将一という作家が、『幕末維新の暗号』(祥伝社刊)という本を書いています。彼は鹿島fさんの『裏切られた三人の天皇』を読んで初めてこの問題に気がついたのです。そこに書かれていることを自分で調べて検証していくわけです。そうすると、明治維新というのは完全なフリーメーソン革命だということに気づくわけです。
船井 もうひとり、鹿島さんの友人だった松宣揚江さんという人も『二人で一人の明治天皇』(たま出版刊)という本を書いています。そういうことを皆合わせると、太田さんの説はやはり正しいようだ、と思います。
太田 長州藩が幕末からいまに至るまで強固な支配体制を維持している理由は、日本の政治では非常に異質な「忍者・諜報」機関が背後にいたということだと考えられるのです。そんな国家は日本には他に存在しませんでした。
  それは英国というかヴェネチアの国家に非常によく似ているのです。国家の中心が諜報機関なのです。そういうふうなシステムが毛利藩に継承されていきます。というのは長州をつくった毛利元就(1497〜1571)は最初は小さな勢力でした。ところが、いまの中国地方10力国を支配するような大大名にのし上がったのです。それはもっぱら諜報と謀略活動で大きくなったのです。豊臣秀吉も似ていますが、それとは違います。
  そのような性質を持った毛利藩が関ヶ原の戦で負けて小藩になります。しかし諜報機関は維持されて、「忍者集団」になります。そのトップが「上忍」で、「中忍」「下忍」などのシステムができあがります。そういうシステムこそ英国の国家、諜報機関、フリーメーソンと非常に相性がよかったと思われるのです(笑)。
  そして公然と孝明天皇を弑逆して息子の睦仁天皇も殺す、それを平然と行なうわけです。しかも、すり替えして隠蔽しきるという、日本のなかでは異質な手段を用います。
  そういうところでは、薩摩は長州の敵ではありません。グラバーの世話で長州の伊藤博文以下5人がロンドンに留学します。薩摩も同じようにグラバーを通じて続々とヨーロッパに留学して、そこでフリーメーソンになって帰って来た人物がたくさんいます。しかし、権力の中枢は長州藩にあって、薩摩のほうは下位に過ぎなかったのです。
  しかも、長州の諜報機関、忍者集団出身の権力中枢の連中は、薩摩を蹴落とすために分裂させるわけです。大久保利通(1830〜78)と西郷隆盛(1827〜77)を分裂させて、西郷派を一掃すると、薩摩の勢力は半分くらいなくなってしまいました。さらにその次は、大久保利通を消してしまうのです。大久保を暗殺したのは島田一郎という加賀藩の人物でしたが、その動きは長州側が察知していて、彼を泳がせて大久保を暗殺させました。だからその主犯は木戸孝允と伊藤博文なのです。これは鹿島さんが書いています。
  そういう諜報と謀略能力は、長州のほうが日本の他の藩とか勢力に比べて段違いに勝っていたのです。しかし、そういう諜報能力と謀略の力は英国のフリーメーソン、イルミナティのレペルと比べるとはるかに劣っているので立ち行かなくなってしまいます。

 西郷隆盛は明治天皇すり替え事件を知っていた

太田 薩摩の西郷隆盛は日本の侍の典型ともいえる存在です。たびたびフリーメーソンから誘われますが、西郷さんはそれを拒否します。そこで、言うことを聞かないために西郷さんを処分するようなシナリオが書かれて、実行されたのです。
  西郷さんは孝明天皇弑逆事件の前後についても、フリーメーソンの謀略であるということを知っていたのです。もちろん大室寅之祐のすり替えの真相も知っていました。したがって西郷さんが政権を握ればそういう秘密が全部、日本国民に開示されてしまいます。明治天皇と称する大室寅之祐についても、西郷さんは全然、恐れ入っていません。明治天皇は西洋の帝国主義の傀儡になってしまったわけですが、そういう天皇が邪魔をすれば切るだけだ、という趣旨の詩を書いています。
  だから西郷さんはなにも言わないで死んだけれど、沈黙して世を去った陰で明らかになっていないそうした心情というものは日本人に伝わっていて、それはいまでもつづいているのではないでしょうか。
船井 そうした秘密が封印されているし、それを日本人が胸中で感じるのでしょうね。だから、西郷さんは国民に人気があるのでしょうね。これは私にもわかりますよ。私も、もっとも好きな人です。
太田 西郷さんの出発点は島津斉彬(1809〜58)に見出されたことにあります。島津斉彬という藩主は偉大な人物であり、藩主になった途端に異母弟との間に、確執・お家騒動が起こりました。前藩主・島津斉興の側室であるお由羅が生んだ次男・島津久光(1871〜87)を藩主にしようという強い執念をお由羅は持っていて、斉彬が藩主になったとき、斉彬を呪い殺すという秘密の呪術までさせたといいます。
  島津斉彬は50歳前で病気のため急死してしまいます。それは日本にとって致命的な損害というか損失でした。斉彬は西洋の勢力が日本に迫ってくる、それをはっきり認識したうえで、対抗措置と政策を体系的に展開して、薩摩に西洋式の産業とか軍事工場とかをつくって、日本の体制を立て直して、公武合体政策を推進しようとしました。薩摩は代々、朝廷との関係が深かったのです。朝廷と武家が一致して強力に体制を立て直して、西洋の侵略に立ち向かわなければならないという姿勢をとりました。その当時の藩主でこのようなことを実行できる人は誰もいませんでした。
  この偉大な島津斉彬に見出されて、西郷さんは側用人になったのです。ところが、斉彬は病死してしまいます。これは日本にとって最大の損失といわれています。島津斉彬の後、藩主になった島津久光はお話にならないボンクラで西郷さんは冷遇され、何度も島流しにされてしまいます。
  内村鑑三は西郷隆盛を「代表的日本人」としていますが、まさしく西郷さんは代表的日本人です。明治10年(1877年)に西南戦争が起こったとき、西郷さんの4人の主要な部下のうち、村田新八(1836〜77)という人はヨーロッパでかなり長い間勉強して、西洋のことを非常によく知っていました。村田新八は次代の日本の最高指導者になるだろうと期待されていました。ところがその村田新八が西郷さんと一緒に鹿児島に帰って西南戦争で戦死してしまうのです。鹿児島に帰ってきたときは陸軍少将でした。

 西郷隆盛はイルミナティから危険視されていた

太田 西郷軍のなかには西洋のことをよく知っている人が何人もいたのです。だから、長州藩の背後にいたイルミナティやフリーメーソン、英国の諜報機関や外交機関などの勢力は、西郷を潰さなければいけないという狙いをつけていたのです。それで西南戦争に動員された政府の軍隊の規模は莫大なものでした。莫大な西洋式軍隊をつくった資金はサッスーン財閥を通じて、東京の政権に対してあらゆる援助を与えたのです。だから西郷軍が戦ったのは東京の政権というより、背後にいる英国と西洋の軍隊だったのです。
  鹿児島ではこのような事情が、意識的か無意識的かは別として何らかの形で浸透しているのではないでしょうか。いまでも西郷さんは代表的薩摩人、鹿児島人であり、大久保利通のほうはまったく振り向きもされず、問題外なのです。
  しかし、長州と大久保一派がっくった歴史ではまったく逆になっています。「征韓論」論争がそれです。明治6年(1873年)に西郷が韓国を征服するという「征韓論」が出てきて、まず国内を固めることが先だという大久保一派と論争をして、西郷のほうが敗れたという具合に、今でも教科書に書かれています。日本人はそういうふうに教えられていますが事実はそうではありません。
  大久保と木戸と岩倉などが欧米を回覧してきた「岩倉使節団」が同年(1873年)9月に帰国した後、西郷の征韓論を批判しました。なぜ大久保と木戸の一派が強硬に西郷を韓国に派遣することを阻止したかというと、単に彼らの考えではなく、背後に英国・フリーメーソンの支配と指示があったからなのです。
  つまり、フリーメーソン・イルミナティの東アジアに対する基本的政策は、数百年来、中国と日本と韓国の3つの国を、絶対団結させてはならないという基本方針があったからなのです。これはいまに至るまで変更されていません。西洋に対して、この3カ国をそれぞれ分裂させてお互いに争わせ、殺し合いさせ、憎しみを掻き立てる、そういうふうに分断するというのが基本方針です。
  この方針を知っていた西郷隆盛は、「自分は韓国に行ってよく話し合って、一緒に西洋と戦おう」と言いに行こうとしたのです。それができたら次は北京に行って、清国の政府とも話し合いたいと公言しています。
  そんなことは絶対許さないはずです。フリーメーソン・イルミナティからすれば、西郷隆盛はその当時におけるアジアのもっとも危険な人物だったのです。「あらゆる力を行使して、西郷を潰せ」という彼らの命令を実行したのが大久保利通と長州勢だったのです。残念ながら、そういうことが鹿児島の人たちにはいまもってわからないのです。

 ザビエルの布教以来、日本はイルミナティの最終破壊目標

太田 私は、フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)が1549年に日本に来て以降、一貫してユダヤ・イルミナティの日本に対する戦争は継続していると考えています。フランシスコ・ザビエルというのはイエズス会の創立メンバーの一人で、イグナティウス・デ・ロヨラ(1491〜1556)につぐナンバー・ツーです。ザビエルとロヨラが2人で相談して、ヨーロッパとアフリカと新大陸はロヨラが、インド以東アジアはザビエルが布教するというふうに協定したのです。
  日本人はザビエルという人物の正体というか重要性にまったく気づいていません。ザビエルはインドからマラッカ経由で日本に来ました。ザビエルの役割は単なるキリスト教の伝道師ということだけではありません。彼はイルミナティの世界支配の将校、斥候というか将軍くらいの役割を持って日本に来たのです。
  日本に4年足らずいて、たちまち信者をつくっていったのですが、そんなことが目的ではなく、日本の値踏みをするというか、日本を徹底的に調べ尽くして、どのように処分するかという戦略を立てて、彼らの根拠地を日本につくることにありました。ザビエルは1年半かそこらでイエズス会の本部に報告書を出しています。
  「日本はヨーロッパと対等か、もしかするとはるかに優れた水準の文明をつくっている。しかもまったく付け込む隙のないような強力な軍隊を持っている、民族として団結している」という報告をしています。
  だから彼らにとって、日本は危険な存在だと見抜いたのです。そこで、日本人全部をキリスト教に改宗させ、精神的に彼らの奴隷にするか、それができなければ殺すしかないという選択に迫られたわけです。日本を最終的に奴隷にするか、キリスト教徒にするには、南米とかアフリカでは部族を全部征服して、部族ごとキリスト教に改宗させることを強要し、集団洗脳しました。日本人は読書する能力もあり、そういうことはできなかったのです。
  そこで、文章による教育、布教が必要だと認識しました。そのため、宣教師は日本語を勉強して洋書のポルトガル語辞典をつくったりし、早い時期からさまざまな日本語を翻訳したりしています。このような文章による布教により、日本人の精神を洗脳するという戦略を行使したわけです。
  中国に対しては、日本よりはるかに大きな世界最大の国家ですから、これをどのように処分するかについて、ザビエルは中国にしばらく滞在して方針を立てて、報告書をローマ本部に送っています。
  そのとき以降、彼らの日本に対する方針は一貫しています。つまり、精神的に日本を日本人でないようにするための方針、アジアに対しては武力による侵略を行使するという方針を立てます。最終的に、米軍が日本を占領して原爆を投下して、恐怖に陥れるわけです。アメリカや西洋の文化を押し付け、日本の歴史を否定し、頭脳を変えてしまいました。
  いまでもこの方針は続いています。精神的に心理的に、習慣・風俗・食べ物などすべてにわたって日本的なものを全部変えてしまうわけです。そして抵抗するものは排除します。そういうふうにして日本に対する一貫した工作が行なわれているということを、日本人は知らなければならないと思うのです。

ミニ解説
  本書は、人類を支配していると思われるイルミナティや異星人などの「闇の権力」に関して、船井幸雄氏、太田龍氏が対談方式で語り合った内容がまとめられています。お二人の、よく整理された該博な知識には感嘆させられます。もちろん、実際の対談の後で加筆修正された部分も多いとは思いますが、これからの世の中の変化を占う上で参考になる情報が盛りだくさんです。
  しいて言えば、船井氏の発言の中で、私が「終末」と考えている今日の世の中のとらえ方や日月神示の解釈などについては、少し違和感を感じる点があります。
  また、太田氏の発言の中で「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの世界宗教は、イルミナティの人類支配のための道具としてつくられた」という内容は、おそらくデーヴィッド・アイクの説をベースにされたものと見られますが、私から見れば牽強付会の印象はぬぐえません。ここでは、幕末に関する太田龍氏の発言のご紹介に留めました。関心のある方は本書を入手してご自分で検証してみてください。
                                       (なわ・ふみひと)

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