近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしごりいせき) 飛鳥から近江へ都を移したが、わずか5年で消えた宮跡

近江大津宮跡
近江大津宮錦織遺跡第1地点

 見 学 メ モ


【所在地】大津市錦織2-8
【大津宮遷都】天智称制6年(667) 3月19日
【大津宮廃都】天武天皇元年(672) 7月22日、壬申の乱の敗戦による
【アクセス】京阪電鉄石坂線の「近江神宮駅」から徒歩約3分

大津宮錦織遺跡付近
大津宮錦織遺跡付近マップ

長い間所在がわからず”幻の都”とされてきた近江大津宮

三輪山
三輪山
智称制6年(667)、近江大津宮遷都に際し飛鳥古京を去るに当たって、額田王(ぬかたのおおきみ)が三輪山を見て詠んだ歌が万葉集の巻1−18に載っている。
 味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌
 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや

輪の山をつくづくとよく見ながら行きたいのに、無情にもその姿を隠す雲に語りかけながら飛鳥古京を離れる心情を表した歌として知られている。その大津宮遷都は天智称制6年の3月19日に行われた。天下の人民はこの遷都を喜ばず、諷諫(ふうかん)するものが多かったという。

しい都の中核をなす近江大津宮(おうみおおつのみや)は琵琶湖を見下ろす高台に築かれた。天智称制2年(663)7月、百済救援のために派遣された我が国の水軍は、新羅の連合国・唐の水軍によって朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で壊滅的な大敗を喫した。近江遷都の主な理由は、予想される唐・新羅連合軍の侵攻に対処するためだったとされている。

江遷都が行われたのは、上記のように白村江の敗戦から4年後のことだが、遷都計画は敗戦直後に立案されたと思われる。大津京の中核である大津宮の完成を待って、ようやく667年3月に遷都を実行したのであろう。

かし、天智天皇が671年12月の崩御し、翌672年7月に壬申の乱で近江朝廷軍が敗れ、大友皇子が大津の山前(やまさき)の地で自害して果てたことで、新京はわずか5年半足らずで廃都となった。都は再び飛鳥に戻り、大津京の建物は朽ち果てた。その中心だった近江大津宮の所在も人々の記憶から消えて、長い間”幻の都”とされてきた。



近江大津宮は大津市内の錦織地区にあった

大津宮付近地形図
大津宮付近地形図(*出典:「明日香風」No.15)
津宮の所在地については、大津市内の錦織(にしこうり)、南志賀、滋賀里などさまざまな候補地があった。昭和49年(1974)になって、錦織2丁目で行われた発掘調査で東西南北に整然とならぶ大型の掘立柱穴が発見された。

和53年(1978)、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、東西150m、南北350mにおよぶ官衙の遺構と思われるものが検出された。さらに、内裏南門と宮の中心を囲う回廊部分も見つかった。その後の調査では、宮の中心となる内裏正殿の建物も検出され、大津宮の中枢部とされる部分が明らかになった。こうして、長い間謎だった幻の大津宮の位置が確定した。

阪石坂線の「近江神宮前」駅から山の手方向に歩いていくと、最初の交差点「錦織2丁目」がある。その交差点の角は、史跡近江大津宮錦織遺跡第8地点になっている。第8地点からわずかに北にも、数カ所の遺跡地点が散らばっている。まるで宅地分譲住宅で売れ残った区画地のような空き地が、史跡公園になっている。住宅街の中で肩身を狭くしながら、存在を誇示している様子はいささか痛ましい。

史跡近江大津宮錦織遺跡第2地点 史跡近江大津宮錦織遺跡第7地点
史跡近江大津宮錦織遺跡第2地点 史跡近江大津宮錦織遺跡第7地点
史跡近江大津宮錦織遺跡第8地点 史跡近江大津宮錦織遺跡第9地点
史跡近江大津宮錦織遺跡第8地点 史跡近江大津宮錦織遺跡第9地点

在の街の様子からは想像しにくいが、天智天皇の時代、この地域は実に国際色豊かな場所柄だった。祖国が滅亡してやむなく我が国に渡来した百済遺民たちも近江朝廷の官人として起用されていた。近江朝廷の”文部大臣”に任ぜられた鬼室集斯(きしつしゅうし)などは有名である。百済服をまとった彼らも、多くの政府要人や皇族に混じって、朱塗り柱に白壁も目に鮮やかな宮殿を渡り歩いていたはずである。眼下に広がる湖水を眺めながら、望郷の思いに涙したこともあったであろう。そうした光景を思い描くのは楽しい。



謎の多い近江大津宮遷都

大津宮遺跡碑
大津宮遺跡碑
申の乱の後いくばくかの年を経て、柿本人麻呂がこの地を訪れ、すっかり荒都と化した大津宮を目の当たりにして深い感懐を詠んだ歌がある。
 近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥(ゆうなみちどり) 汝(な)が鳴けば 
 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ 
(巻3-266)
当時の緊迫した国際環境の中で、あわただしく造営され、そして歴史の陰に消えていった大津宮を彷彿とさせる有名な万葉歌である。

学時代の国語の時間にこの歌を知って、いつか人麻呂と同じように琵琶湖西岸に立ってみたいと思っていた。その長年の夢を漸く実現し、錦織遺跡を一つ一つ見てまわった日、さまざまな疑問が脳裏をよぎった。第一の疑問は、白村江(はくすきのえ、錦江の河口)の敗戦から4年も経って、天智天皇が遷都を遂行した理由である。

智称制2年(663)7月27日、百済復興軍の支援に向かった倭の水軍は、白村江で唐の水軍に遭遇し歴史的な大敗を喫した。敗退した水軍は百済からは多数の亡命者を乗せて我が国に向かったという。司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、百済の国ごと引っ越したというほど、多数の百済貴族や一般人民がこのとき我が国に渡ってきたとされている。当時の近江には百済渡来氏族が多く住み着いていたため、こうした百済遺民の多くは近江の国に配された。

の時期、白村江の勝利の勢いをかって、唐・新羅連合軍がいつ我が国に攻め寄せてもおかしくない状況にあった。翌年の天智称制3年(664)5月には、唐の百済占領軍司令官・劉仁願が郭務■(かくむそう、■は立心扁+宗)を我が国に派遣してきた。戦勝国として、おそらく戦後処理を話し合いに来たのであろう。だが、大和朝廷は「天子の使人」でないと言う理由で入京は許さなかった。一行は12月に帰途についた。この年、対馬・壱岐・筑紫などに防人(さきもり)とノロシ台を置き、また筑紫に水城を築いた。

智称制4年(665)8月には、大和朝廷は長門に山城を築いた。さらに、筑紫の大野と椽(き、太宰府の西)にも二つの城を築いている。防戦体勢を整えるのに必死になっていた様子がうかがえる。そんな状況下にあって、9月には唐が劉徳高や郭務■らを使節として送り込んできた。今回の使節は入京が許された。戦後処理の話がどのように行われたのかは不明である。しかし、このとき講和の条件が整ったと思われる。彼らが帰国するとき、小錦守君大岩(もりのきみ・おおいわ)らを送迎使として唐に遣わされている(第5次遣唐使)。

江遷都が行われたのは、天智称制6年(667)3月。遷都の理由として、予想される唐・新羅連合軍の侵攻に対処するためとする説は多い。しかし、劉徳高たちとの間で和議が成立し連合軍の侵攻の恐れが消えて、すでに1年以上も経っている。当時、唐と新羅は次なる目標として高句麗侵攻を目指していて、我が国への侵攻の恐れはなくなっていたはずである。また、大和から近江に都を遷したところで、地理的に連合軍侵攻に対する防備が高まったとも思えない。遷都には、もっと他の理由があったと考えた方がよい。

大津宮復元イメージ
大津宮復元イメージ(「図説滋賀県の歴史」より)
二の疑問は、琵琶湖西岸の錦織地域が王都として選ばれた理由である。当時の湖岸線は現在よりかなり西に食い込んでいたとされている。その上、錦織地域を歩いてみれば実感できるのだが、現在でもひな壇式の住宅が建ち並ぶほど、土地は傾斜している。王都を築くにはかなり広範で平坦な空間を必要とするはずだが、その点からも決して都城を築くのに適した土地とも思えない。むしろ湖東の野洲川流域あたりにもっと適した原野があったはずである。

もかかわらず、湖西の狭隘な山麓が王都として選ばれた。その理由を推察するとき、やはりこの地域に居住していた渡来系氏族の存在を無視するわけにはいかない。平安遷都を陰で支援したのが山背に本拠をもつ秦氏だったように、大津宮遷都を支援したのは、この地を本拠とする大友氏などの百済系渡来氏族ではなかったか。ちなみに、天智天皇が溺愛した大友皇子を養育したのは大友氏とされている。

和と百済は以前から同盟に近い友好国だった。友好国が危機存亡の状態にあるとき、軍を派遣して支援することは国策として当然あり得る。百済がそのような状態のときに、倭国は何の支援も行わなかった。それなのに、百済が滅亡した後に国の命運をかけて復興軍の支援に走ることは、どう見ても為政者の取るべき道ではない。だが、天智天皇はそれを行なった。

智天皇は琵琶湖沿岸に居住する大友氏など百済系渡来氏族とかなり以前から太いパイプを持っていたと推察される。百済系渡来氏族からの強烈な圧力があり、大和朝廷はそれに抗しきれずに復興軍支援を決断したのではあるまいか。また、白村江の敗戦で唐・新羅連合軍の侵攻の危機感が高まったとき、百済救援に走った天智天皇に対する責任論が、大和朝廷の内外に当然生じたであろう。天智天皇の立場からすれば、そうした勢力が隠然として存在する大和よりも、百済系渡来氏族の支援が得られる琵琶湖西岸にいち早く遷都したかったのではなかろうか。



2004/12/11作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp