節目は「1971年」
「ちゃぶ台」から「ダイニングテーブル」へ
国立民族学博物館元館長の石毛直道さん
誰もがおなかをすかせていた終戦直後から高度成長期を経て現在に至る70年間を振り返ると、「日本人と食」の歴史は1971年に大きな節目を迎えたという。
食文化研究の第一人者である国立民族学博物館元館長、石毛直道さん(77)=大阪府茨木市=は半世紀近くにわたって、「日本人の食」を見つめ続けてきた。
石毛さんらは、一家だんらんの象徴でもある「ちゃぶ台」の普及率が1971年、ダイニングテーブルに取って代わられたことを、調査から見いだした。
食卓形式の移り変わり
出典:「現代日本における家庭と食卓 ― 銘々膳からチャブ台へ」 石毛直道・井上忠司編 国立民族学博物館研究報告別冊16号
石毛直道・元民博館長が全国284人を調査
調査は1983~84年に実施した。主に大正初期までに生まれた70歳以上(調査当時)の284人(女性259人、男性25人)を対象に「いつごろ、どんな食卓で、どんな食事をしたか」を尋ねた。地域に偏りが生じないよう全国各地に協力者を確保し、家族構成や家族史などとともに、詳しく聞き取った。
分析の結果、食卓については、大正初期には「箱膳」が約190例と主流で、「ちゃぶ台」の約100例を大きく上回っていた。しかし1925(大正14)年を境にちゃぶ台が優勢となり、そのちゃぶ台は1971年、ダイニングテーブルに取って代わられていた。
ちゃぶ台の起源は明確でないが、南蛮貿易とともに西洋から長崎に入ってきたという説がある。庶民の家庭に普及したのは意外に新しく、明治時代の後半、20世紀に入ってのことだ。
ちゃぶ台は100年足らず
東書文庫所蔵「尋常小学修身」の教科書の挿絵「謹慎」1892(明治25)年
箱膳とは、めいめいが自分の食器を箱型の膳に収納しておき、食事の際に箱を食卓として使うスタイルだ。食事が済むとお茶などで食器をすすぎ、かわかして再び収納した。家族全員の食器を一度に集めて洗うのは月1、2回という家が多く、配膳も皿洗いもいわば「セルフサービス」だった。使用人を含めた大家族が、農作業や商売の合間を見つけてそれぞれに食事をする生活様式が主流だった時代には、このスタイルが合理的だったのだろう。
昭和に入り、都市部では「勤め人」が一般的となる。コンパクトな住居では茶の間(居間)にちゃぶ台を置き、食事が済むとちゃぶ台を片付けて布団を敷く、そうした生活が定着した。この流儀は少し遅れて農村へと広がった。
調査では複数の対象者が「(食器を)あまり洗わずに片付ける箱膳より、ちゃぶ台形式の方が衛生的ですから」と語った。ちゃぶ台時代には、上座に家長(父親など)、そして家長の近くにお年寄りが座った。男女が分かれて座るのが一般的だったという。
団地ブーム…1960年代 食事専用空間の誕生
そのちゃぶ台がダイニングテーブルに主役を奪われた背景には「団地」の影響がある。もともと、日本の伝統的な家屋には食事専用の空間が存在しなかった。ちゃぶ台が置かれた「茶の間」は、日中には食事やくつろぎの場、夜は寝室に変わる万能の空間だった。
こうした現状を変えようとした建築学者らが「布団の上げ下げでほこりが舞う。食事をした場所で寝るのは衛生的でない」として「寝食分離」を提唱。この思想を具現化する試みとして、1956年から募集が始まった公団住宅の多くは、居間と、食卓が置ける広さを確保した台所とを分けた設計がなされた。「ダイニングキッチン」の発想だ。
かがまずに作業できる調理台、電気冷蔵庫のあるダイニングキッチンで、椅子に腰掛けてトーストと紅茶の朝食を楽しむ家族のイメージは、西洋文化へのあこがれとあいまって、多くの若夫婦にまぶしく映ったことだろう。1960年には東京・ひばりが丘団地を皇太子ご夫妻(当時)が視察に訪れ、「団地ブーム」が本格化する。「足が短くなる」と正座を嫌う世代の増加とともに、ちゃぶ台はダイニングテーブルに淘汰(とうた)されていった。
「団地ブーム」さなかの1960年9月6日、皇太子ご夫妻(当時)が東京・西部のひばりが丘団地を視察された。この団地は1959年、旧中島航空金属田無製造所の跡地(現西東京市・東久留米市)に日本住宅公団が造成した。国内最大の184棟2714戸、敷地内に緑地公園やテニスコート、スーパーマーケットなどを備えたマンモス団地で、この視察が大きく報じられたことや、当時としてはモダンな間取りが人気を集めた。
1971年前後 ファミレス登場、マック1号店、低価格レンジ発売
ダイニングテーブルが優勢となる1971年。食をめぐるいくつかのできごとがこの前後に起きている。
1970年の大阪万博は、科学技術がかなえる「便利な未来の生活」のショーケースだった。
この年は「外食産業元年」とも名付けられている。万博会場にはロイヤルやケンタッキーフライドチキンが出店し、人気を博した。すかいらーくは国内初のファミリーレストランを東京・府中に開店。翌71年には、マクドナルドが国内1号店を銀座三越にオープンし、ファストフード時代も幕を開けた。
松下電器産業のエレックNE-6100
松下電器産業(現パナソニック)は1971年、低価格を売り物にした家庭用電子レンジ「エレックNE-6100(愛称・エレックさん)」を8万9800円で発売した。電子レンジは東海道新幹線の食堂車に業務用が導入され、珍しさもあって注目されたが、早川電機工業(現シャープ)が1966年、家庭向けに投入した第1号は19万8000円(当時の大卒国家公務員の初任給2万3300円)と、気軽に買える代物ではなかった。実際のところ、「電波が脳に影響する」といった風説や、単機能なのに割高ということがネックになり、普及するのは1980年代に入ってからだった。
「楽しむ食」へ進化
核家族化 子どもと母親が食卓の中心に
食卓を囲む家族にも、大きな変化が訪れた。
一つは核家族化だ。1950年には、1世帯当たり平均4.97人だった家族構成は、1970年に4人を切って3.69人になった(国勢調査)。「父母と子ども2人」という典型的な家族のイメージが確立する。その中で、父親は稼ぎに出かけ、家事全般を取り仕切るのは母親、という役割分担が明確化していく。
世帯人員別一般世帯数
出典:国勢調査時系列第2表世帯人員別一般世帯数
専業主婦の割合は、1970年代半ばまで増え続ける。ピークは1975年で、婚姻世帯の配偶者の約55%が仕事を持っていない(専業主婦)というデータがある。
石毛さんらの調査からは、食卓の雰囲気の変化が見て取れる分析結果も出ている。
箱膳、ちゃぶ台の時代には、正座や箸遣い、食べる順番などの「しつけ」がうるさく指導され、食卓での会話も「禁止」または「必要なことだけを」「静かに話す」程度に制限されていた。
明治時代中期の尋常小学校の修身(道徳)の教科書には、厳格そうな父親と幼い子ども、母親たちが箱膳を前に食事をする「謹慎」という挿絵が描かれている。話題の提供者も、ちゃぶ台時代まではもっぱら父親だったが、テーブルになってからは、子どもや母親が中心になる。
父親不在もうかがえるこの結果は、食がもたらす家族だんらんの形そのものの変化を示している。
75年にその割合がピークを迎えた専業主婦は、パートなどで働きに出るようになる。前後して、働く母親を支える社会的サービスが加速度的に充実していく。その最たるものが、家電の進化だ。
電気炊飯器の登場…1955年
提供:東芝未来科学館
1955年、国内初の電気炊飯器を東芝が発売した。食事の支度をとりしきる女性にとっては、家族より早く起きてご飯を炊く手間が大幅に改善された。洗濯機、冷蔵庫、テレビのいわゆる「三種の神器」もブームに。この年をきっかけに、主婦の家事労働負担は大きく軽減されていく。
例えば、スーパーマーケットの魚売り場では、内臓や骨を除いた魚の切り身が販売されるようになった。家事労働の一部を社会が担う方向への変容だ。石毛さんはこうした現象を「食品産業は社会の台所、外食産業は社会の食卓」と例える。冷凍食品、レトルト食品など、加熱するだけで食べられる食品の種類が拡大し、1970年以降はファストフードやファミリーレストランなどを中心とした外食産業も花盛りとなった。
こうしたいくつかの変化により、かつては「労働」として位置づけられていた調理に、「作る楽しみ」を見いだす層が生まれた。家族それぞれが好きなものを食べたい、そんな願いに応えるように、デパートの総菜コーナーや、下ごしらえされた素材を売る店が増えた。食べ歩きや、高級食材を惜しげもなく使ったフルコースが話題になる。グルメブームの到来だ。
グルメブーム…1980年代
日本では長いこと、食について語ることは「卑しい」ことと見なされていた。
江戸時代は、百姓から税として米を物納させ、大名の実力も米の生産量で計る「米本位制」。百姓を管理する武士の側も禁欲的であることが求められた。明治になってもその価値観は引き継がれてきた。
戦後の高度経済成長は、経済的な豊かさと同時に心の余裕ももたらした。もっとおいしいものを、もっとたくさん……。1980年代には、西洋料理をはじめ、各国の料理が日本にいながら食べられるような環境が整った。食文化にかかわるミュージアムは、大小含め国内に200近いという説もある。
「食」にまつわる展示館や資料館、ミュージアムのうち、インターネットで検索できた主な施設は地図の通り。大きく分けて、地方自治体や財団法人などが地域の伝統的な食文化や名産品の歴史を紹介する目的で設置するものと、企業が社会貢献やPRの一環として設置するものがある。有料・無料はまちまち。工場見学と併せて展示や料理体験が楽しめる施設や、予約以外は受け付けない施設、長期休館中の施設などもあるので、訪問前にネットか電話での確認が必要だ。
共食によるコミュニケーション
連帯感と絆 確かめる食
「食は最大のコミュニケーションです」
世界各地の食文化を実際に訪ね歩いてきた石毛さんの、体験に根ざした信念だ。大学時代、トンガ王国でのフィールドワークで料理の面白さに目覚めたのをきっかけに国内外の珍しい料理を食べてきた「鉄の胃袋」(石毛さん)の持ち主。盟友でSF作家の故・小松左京氏からは「大食軒酩酊(めいてい)」とあだ名をつけられたほどだ。言葉がまったく通じないアフリカで食事を振る舞われ、思いを通わせた。「よく『同じ釜の飯を食った』と言いますが、それは人間の連帯感の表れなんです」
石毛さんは「人は共食をする動物」とも言う。食事を共にすることと性の結びつきが、家族の絆を作り上げてきたからだ。
しかし、超高齢社会の今、少子化が加速し、単身世帯は増え続けている(2010年で32%、1世帯あたりの人数は2.42人)。私たちはいや応なしに「孤食」の環境に生きているのだ。
これからのかたちは
仲間と共に新しい「だんらん」
総菜などの「中食(なかしょく)」市場規模は、2012年で約5兆円(富士経済推計)。安くておいしい外食産業も成熟し、私たちはたくさんの選択肢の中から、好きな食のあり方を選べるようになった。
家庭での調理に頼らず食欲を満たす環境の充実はデータでも裏付けられる。1975年以降の外食率と食の外部化率の変遷を見ると、外食率は1997年の37.8%をピークに、ほぼ横ばいで推移している一方、外食と「中食」を合わせた「外部化率」は、2007年に45.2%とピークに。私たちは食費の半分近くを、家庭の外で作られたものに消費している。
自炊しなくてもおいしい食事にありつける時代。そんな環境にあっても、石毛さんは「家族で食卓を囲むという喜びがすたれることはない。なぜなら、人類は家族に代わる集団単位を見つけられていないから」と力を込める。「料理を作る楽しみは、食べてくれる誰かがいる楽しみ。食べてもらい、批評してもらうことが、作る者の生きがいにつながる」
少子・高齢化、晩婚化、孤食……その先にある「だんらん」とは、どんなものだろう。石毛さんは「家族がいなくても、気の合う近所の人や同じ趣味の仲間が集まって食卓を共にする、新しい共食」を提案する。
サークルやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを介して知り合った友人、寮やシェアハウスの住人、独り暮らしのお年寄り同士など、見回せば「血縁」に限らない絆は意外に豊かだ。食卓を囲んで、おいしい食事と気の置けないひとときを共有する喜び。そんな新しいだんらんの形が見えてくる。
進む食の「外部」化
出典:食の安全安心財団、日本フードサービス協会「外食率と食の外部化率の推移データ」、総務省統計局
「外食率」は、家計の飲食料費に占める外食費の割合。「食の外部化率」とは、家計の飲料費用に占める「広義の外食」費を指し、外食費に総菜などの中食(なかしょく)購入費を加えた金額の占める割合。この中食には、コンビニで売られている総菜類は含まれない。1975年以前は同一条件でのデータがないためグラフ化できなかった。
「おいしい=楽しい」は いつの時代でも「孤独のグルメ」久住昌之さんに聞く
久住昌之さんと「孤独のグルメ」
「孤独のグルメ」主人公・井之頭五郎役の松重豊さん
食をめぐる環境は質・量ともに豊かになった。その一方で「共に食べる」という文化は、社会的な変化につれて変わりつつある。主人公の中年男性が街を歩き、独りで食事をする光景を描いたロングセラー漫画「孤独のグルメ」の原作者、久住昌之さん(56)は「食は誰にも身近なもの。食べることや、おいしそうに食べる様子を見て楽しい気持ちになる感性は、いつの時代も誰でも共通だ」と語る。【聞き手・元村有希子/写真・喜屋武真之介】
- 「食」にまつわる、小さい頃の思い出を教えてください。
中学生とか高校生まで、外食なんかあまりしなかったですよね。たまに親戚の人が来た時におすしを取るぐらい。母は専業主婦で、食事も母が作ってました。お新香はいつも漬けていました。そこにナスが入るようになると夏が近い、冬になると大根や白菜、というふうに、ぬか漬けで季節を感じていました。
おやつの思い出は、正月に余った餅を家で揚げて作ったあられとか。遊んでると、母や近所のおばさんがちりがみとか新聞紙に包んでくれたのを覚えてますね。それを庭で食べたり。近所の店にお使いにいったついでに、5円とか10円、お駄賃もらって、笛ガムとか、オレンジの丸いガムが箱に四つ入ったのを買ったり。当たり外れのついたやつ。
小学校は給食で、1年生の時だけは脱脂粉乳でした。まずくていやでしたね。ちょうど僕の世代は、在学中にトイレが水洗になったり、だるまストーブがなくなったり、校舎が木造から鉄筋に建て替わったり、そういう世代です。
給食ではアジフライが苦手でね。魚臭くて冷えてて、まずかった。パンは残していいけどおかずは全部食べる、という決まりだったので、泣く泣く食べた思い出があります。好きなのはカレーシチューと、「クジラのノルウェー煮」。サイコロみたいに切ってある鯨肉がトマト味で煮込んである。今食ったらおいしいかどうかわかんないけどね。しかしノルウェー煮なんて聞いたことないですね、あれ以来(笑い)。
中学から高校卒業まで6年間は弁当でした。弁当を持って来ない日は学校でパンを注文する仕組み。僕は弁当が好きでしたね。母親が寝坊した日の弁当はすごい手抜きで、前の晩のさつまいもの天ぷら2枚とご飯、それだけ。それでも「これ、どうやって食べようかな」と考えるのが好きだったんですね。しょうゆを、天ぷらの1個にいっぱいかけて、すぐには食べない。裏返してご飯に押し付けて、しょうゆ味がしみるまで待つとかね。誰かが自分のために作ってくれた弁当が好き。ふたを開けて「そうきたか!」っていう。だから自分で買う弁当は温かくても好きじゃない。出て来ちゃったものをおいしく食べる工夫をするのが好きで、これは漫画を描く時も同じですね。
- 「孤独のグルメ」の主人公、井之頭五郎は「頼みすぎちゃったな」とよく言ってますね。ドラマでの食事シーン、五郎役の松重豊さんは本当に食べていらっしゃるのですか。
僕は少食だから、いっぱい食べられるのはあこがれなんですよ。でもドラマは...
参考文献
- 「現代日本における家庭と食卓 ― 銘々膳からチャブ台へ」 石毛直道・井上忠司編 国立民族学博物館研究報告別冊16号 1991年
- 「食卓文明論 ― チャブ台はどこへ消えた?」 石毛直道著 中公叢書 2005年
- 「写真で見る食品年表」 日本食糧新聞社 2010年
- 「vesta」第91号 味の素食の文化センター 2013年
- 「日本食生活史年表」 西東秋男編 楽游書房 1983年
- 「家電製品にみる暮らしの戦後史」 久保道正編 ミリオン書房 1991年
- 編集
- 平野美紀、平野啓輔、元村有希子、高添博之、編集編成局校閲グループ
- デザイン
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