沖縄県名護市辺野古の海がまた、大荒れの様相だ。 米軍普天間飛行場(宜…[続きを読む]
横綱白鵬が大相撲初場所で大きな足跡を刻んだ。 11月の九州場所で昭和…
横綱白鵬が大相撲初場所で大きな足跡を刻んだ。
11月の九州場所で昭和の大横綱、大鵬が持っていた32度の最多優勝記録に並び、2場所連続優勝で記録を塗り替えた。
その偉業をたたえたい。
モンゴル相撲の英雄だった父の血を引く少年が来日したのは、2000年のことだ。
175センチで体重70キロに満たない、やせっぽちの15歳だった。部屋から声がかからず、帰国前日になってようやく宮城野部屋への入門が決まった。
前人未到の33度目の優勝は、01年春場所の初土俵から13年10カ月、06年夏場所の初優勝から8年8カ月の歳月をかけて積み上げた。
相手の力を柔らかく吸収するような相撲は、「角界の父」と慕った大鵬に通じる。柏戸、栃ノ海、佐田の山、北の富士ら多彩な横綱と土俵をにぎわせた大鵬に比べ、白鵬は好敵手がおらず、大相撲の存続が危ぶまれた苦しい時期を孤独に支えた。
同郷の朝青龍が暴力騒ぎで引退したのは10年。ライバル時代は2年ほどで終わる。その後、ひとり横綱の間に、角界では野球賭博事件、八百長問題など不祥事が相次いだ。
双葉山の69連勝の大記録にあと六つと迫ったのは、野球賭博事件の年だ。横綱昇進後の休場はなく、まさに勝ち続けることで大相撲を守ってきた。その精神力は並大抵ではないだろう。
横綱はその時代を映す存在ともいう。その意味で白鵬が抱えてきた苦悩にも目を向けたい。
大相撲はプロスポーツであると同時に、伝統や格式を重んじ、国技とも呼ばれる。海外出身力士を迎え入れる国際化と、昇進するほど日本の精神性が求められる独特の世界。白鵬はそのはざまに身を置いてきた。
東日本大震災から3カ月後に被災地を慰問した際、土俵入りに手を合わせて拝む人々を「生涯、忘れられない」と語っている。横綱としてどうあるべきかを見つめ直す機会だった。
13年九州場所で稀勢の里に敗れた時は、「万歳」コールが館内に広がった。「自分がやってきたことは何だったのか」。師匠の宮城野親方にそう漏らしたという。
優勝を重ねて聞こえてくるのは「日本人力士がふがいない」という言葉だった。横綱としての品格を常に問われながら、同時に日本人でない自分を意識させられてきた。
大相撲の国際化は止めようもない。伝統を守りつつ、国技としてのあり方を問う。大記録をそんなきっかけにしたい。
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