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鴻池しゅんの『感動日本史』

2009-07-28

[感動日本史] 軽皇子鎌足



 (承前)鎌足神祇伯を固辞したという『日本書紀』の記事は、そのあと、段落を変えずに、こうつづく。

 「(鎌足が勤めを休んでいた)ちょうどその時、軽皇子(かるのみこ=のち孝徳天皇、このころ48歳)も脚の病で朝廷を退いていた。鎌足は以前から皇子と親しかったので、お見舞いに行った。皇子は、鎌足が『意気(こころばえ)高くすぐれ、容止(立ち居振る舞い)犯(おか)しがたきこと』を知っておられたので、鎌足に対してきわめて丁重なおもてなしをされた。帰りぎわに鎌足は、皇子の従者に、望外のおもてなしを受けた感謝の言葉とともに、『皇子が天下の王となられることに、誰が逆らえようか』と言った。それを従者から伝え聞かれた皇子は大変よろこばれた」。

 私はここでも、アレッと、読みとどまってしまう。

 往々にして歴史の本には、こう説明されているからである。

 「鎌足は事を共にする人物を皇族の中に求め、まず軽皇子に当たったが、さほどの人物ではないと見て、中大兄皇子に白羽の矢を立てた」と。

 しかし「書紀」の文章は上記のとおりで、軽皇子の人物が鎌足にとってはもの足らなかったなどと、どこにも書いてない。天皇として不足なしと書かれているのみである。それではどうして、「軽皇子は気に入らなかったので、中大兄皇子にした」などという説が出てきたのだろうか。その理由は、先を読み進むとわかる。

 「書紀」の文章はここまでが第一段落になっていて、次の第二段落は改行して始まる。ここで鎌足の人物像が短く描写される。

 「(鎌足は)人となり忠正にして匡済(きょうさい)のこころあり」(まごころのある正しい人で、乱れを正し救済しようとするこころがあった)。

 「そのため蘇我入鹿が君臣長幼の序を破り、国家を我が物にする野望を抱いていることを憤って、王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」というのである。

 第二段落はまだつづくが、ここで一休みする。アレッと思うからである。

 というのは最初からここまで読んで気づくことは、第二段落がまるでストーリーの冒頭部分のような書き方になっていることである。特に簡潔な人物像の描写が、冒頭部分の雰囲気なのである。

 「書紀」は歴代天皇記の体裁をとっているが、おのおのの天皇の冒頭の書き方には一定のパターンがある。まずその天皇の祖父母・父母などの系図(出自)を書き、つぎにその人物像を簡潔に書くことが多い。

 例えば仁徳天皇は「幼くして聡明叡智にして、貌容(ぼうよう)美麗にまします。壮に及びて(成年に達してからは)、仁寛慈恵(思いやりがあり、情け深い)にまします」。

 それに対して悪名高い武烈天皇は「刑理(刑罰の理非の判定)を好み、法令、明らけく(法令に通じ)」はいいが、「諸悪をいたし一善をもおさめたまわず。およそもろもろの酷刑、親覧したまわずということなし」(悪事ばかりで善いことはひとつもなさらなかった。残酷な刑はすべて自分でご覧になった)とさんざんである。

 というわけで、鎌足の人物描写があることで、物語の始まりのような雰囲気になっている。

 つまり、入鹿暗殺の物語は、もともと第二段落の鎌足人物寸評から始まっていたのに、あとから第一段落を追加したのではないか、と私は思う。「書紀」の編者は、思えば鎌足が反蘇我の態度を示したのは、あの神祇伯を固辞したときが最初だったのかもしれないと、あとで考えついたのだろう。軽皇子との経緯についても同様に、軽皇子即位孝徳天皇)は、早くから鎌足の胸中にあった案だったのではないかと、あとで思いついたのだろう。そしてそれらを冒頭に付け足したのではないか。

 その結果、軽皇子の病気見舞いの話しのあと、「(鎌足は)王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」とつづくことになり、読者はそのふたつの話を一緒くたにしてしまい、つぎつぎと王族に会ったなかに軽皇子もいたが、結局、中大兄皇子に決めたんだな、と誤解してしまったのである。

 鎌足が、軽皇子の人がらを低く評価したなどと読み誤っては、おふたりに対して失礼であろう。(つづく)

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