現在皇室に関し色々な雑音が聞こえてくる。西尾幹二氏はWILLの中で「雅子さん問題にご聖断を!」と叫んでいる。一体どうしたらいいのだろうか。
さて、ここのところ暇があれば秀吉時代の研究をしているが、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇と戦国時代に三代の皇位継承がなされている。
最終的に徳川に政権がもたらされるが、この後水尾天皇の中宮に秀忠の娘、徳川和子が嫁ぐ、そして産んだ子が即位する、明正天皇である。wiki「元和6年(1620年)11月28日に後水尾天皇の女御として入内する。このときは二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』にはその様子が描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。」
なんと女帝の誕生である。徳川は皇室を乗っ取ったのか?
偶然とは言うものの、中宮の名前は和子と書いて「まさこ」と呼ぶ。面白いね。
さて、この女帝が結婚し出来た子供が皇位を継げば、徳川が皇室を乗っ取ったと言えるが、次の皇位は後光明天皇で、明正天皇の腹ちがいの皇子である。この一時的な女帝に何の意味があるのかを考えなければならない。
春日局という家光の乳母がいるが、彼女が単なる乳母と考えては歴史が面白くない。彼女は実は高貴な出自であるとの証拠がある。と言うのは、幕府はさることで朝廷(後水尾)を激怒させたことがある、そこで幕府は春日局をご機嫌伺いの使者として朝廷に送ったのである。
「将軍の乳母を武家伝奏・三条西実条(さんじょうにし・さねえだ)の妹に仕立て上げ、「春日局」と名乗って参内し、天盃まで賜るのは6年10月。積年の非礼は忍びがたく、同月、後水尾天皇は女一宮、御年7歳に内親王を宣下し、翌月、突如、退位されます。御三十三。東福門院を母とする明正天皇、9世紀ぶりの女帝がこうして即位されます。」と説明されている。怒った挙句、和子の子供に皇位を譲るか?・・・はともかくとして、参内し天盃を賜るのは単なる乳母では絶対にありえないことで、彼女がそれなりの「お種」を持っていたと考えるのが普通ではないのか。実は彼女が家光の生母であったとする説があり、もしそうであるなら皇室の血をひく家光が将軍になり、朝廷と幕府は固い絆を築けるのである。まさかと言わないでほしい、真実の歴史など国民には知らせる必要はないのだから。
その絆の証明として明正天皇が即位するのだ。いずれにしても徳川家と皇室の関係はこのころに盤石なものになったのである。もちろん現在もだ。
異論は多いと思うが、知られている歴史とは大半はいかさまであり、それを信じたい人は信じればいいのである。私はこの世の中を読み解くためにあえて皆さんとは違う妄想をするだけで、違っていればそれでいいではないか。
ただ、愛子さん問題で、愛子さんが即位する条件としてこの和子さんは参考になる。
っていうことは、雅子さんは徳川なのか?
ですから、徳川はあり得ない。ウソは混乱を招きます。
昔から皇室の婚礼家系は藤原家と決まっている。だから養女として小和田家が育てた可能性はある。国民には知らせる必要はないでしょう。
歳を重ねる毎に異論はなくなりつつあります。
自分の人生を振り返ると、幼い時代の友人関係
ですら、きまずいことは蓋をして話が変わっててることがありましたからね(笑)。
親類関係、仕事関係、事実のすり替えも実体験
してますし、まして国単位の歴史なぞそれは
もう、想像するだけでぞっとするほど書き換え
られてんでしょうね。上海では血縁が存在しない親子も多いそうですが、これも蓋をしてと(笑)。女は怖いです、生まれながらの女帝です(笑)
横田早紀江さんって高貴な顔ですよね。