日本の政治・経済・文化の中心として栄えてきた淀川流域。その下流に位置する大阪平野は、川の働きによって長い歳月をかけて造られたものです。
淀川流域の発展の過程においては、幾多もの、人々と水害との戦いの歴史がありました。
■海と湖の底にあった大阪平野(古代)
約7000〜6000年前の縄文時代前期の大阪平野は、海水面の上昇(縄文海進)によって、河内湾と呼ばれた海の底にあり、現在の上町台地は半島のように突き出ていました。縄文時代中期、河内湾は、海面の後退とともに、北東から流れ込む淀川や南東から流れ込む大和川などが運ぶ土砂の堆積により徐々に埋まっていきました。やがて、河内湾は大阪湾と切り離されて河内潟へ、約2000年前以降の弥生時代中期には、淡水化し河内湖となりました。その後も堆積は続き、河内湖の陸地化は進み、長い歳月をかけて沖積平野が形成されたのです。
■川が縦横無尽に流れていた大阪平野(中世)
中世の大阪平野には、いくつもの川が縦横無尽に流れており、淀川は平安時代の頃から、瀬戸内海や西国と京の都を結ぶ交通の大動脈としての役割を担っていました。水利用や舟運に恵まれた大阪は、「水の都」として発展し続けましたが、その一方で、洪水がたびたび発生し、人々は大きな被害に見舞われていました。
このころの淀川には、いたるところに上流から流れてきた土砂が溜まってできた浅瀬があり、船の交通路としては不安定なものでした。このため、流域各地で、多くの住民が力を合わせ、大規模な河川の浚渫(川底に溜まっている土砂をさらうこと)や土地の埋め立てを行いました。また、淀川の水は農作にとっても重要な資源であったため、時には水を求めて村と村が争うこともありました。このように、人々の暮らしと淀川は密接にかかわっていたのです。
時は4世紀。淀川と古川の間の小高くなった土地(旧茨田郡)を度重なる水害から守るため、仁徳天皇によって淀川左岸に築造された堤防が「茨田堤(まんだのつつみ)」です。茨田堤は古事記や日本書記にも記されています。
淀川の治水の歴史は、およそ1600年前につくられたこの茨田堤にはじまり、これは日本で最初に行われた大規模な治水工事とされています。茨田堤の確かな場所についてはいろいろな説がありますが、門真市の堤根神社境内に今もその名残を見ることができます。
■治水と水運の発展に挑んだ河川改修(近世)
近世、大阪平野は、日本の政治・経済・文化の中心の1つであり、淀川はその発展の重要な基盤となっていました。そのため、相次ぐ氾濫や土砂の堆積による船の航行障害など、治水と水運の問題をどう解決させるかが、時の為政者たちの大きな課題でした。
治水と交通の多目的な築堤工事を行った豊臣秀吉
天下を統一した豊臣秀吉は、1594年、伏見城築城の際、宇治川を巨椋池から切り離すなど宇治川の川筋の付け替え工事を行い総延長約12kmの「太閤提」を築きました。これは、宇治川の流れを伏見港へ導き、伏見港の繁栄を図るとともに、巨椋池の洪水を防ぐことを目的としたもので、堤防の上は奈良への街道の役目も果たしました。
また、その頃、秀吉は、連続した堤防がなかった淀川左岸に、枚方から長柄に至る全長約27kmの連続した堤防「文禄堤」を築きました。これにより、河内平野は氾濫から守られるようになりました。堤防の上は、京街道として大阪と京都を結ぶ最短で安定した交通路となり、多くの人が行き交いました。
安治川を開削した河村瑞賢と大和川付け替えを実現させた中甚兵衛
江戸時代中期、大和川は、現在と異なり河内平野を北へ向かって流れ、淀川下流部の大阪城の北で淀川と合流していました。合流付近は、上流からの土砂が大量に溜まり、多数の砂州(島)が形成されていました。砂州の流域に広がる低湿地帯では、度重なる水害に悩まされていました。こうした水害を防ぐため、幕府は、淀川改修に着手します。幕府の命を受けた河村瑞賢は、淀川河口の九条島が水流を妨げていることによって淀川下流の水害が発生していると考え、1684年、九条島を開削、そして曲がりくねった河川を直線的な河道とする約3kmの新しい川、安治川を造りました。
安治川開削の後、1704年、大和川は、河内国今米村の庄屋・中甚兵衛らの長年にわたる幕府への訴えが実り、付け替えが行われました。大和川の付け替え工事は、約8ヶ月の短期間で完了し、これにより淀川から大和川が切り離され大阪平野の洪水被害は減少しました。
豊臣秀吉が築いた太閤堤、その詳細は、江戸後期に洪水で埋没してしまい、不明とされていたのですが、平成20年、京都府宇治市でその一部が発掘されました。
発掘されたのは、太閤堤の一部で、秀吉が行った治水工事の具体像を知ることができる貴重な遺跡となっています。