考古資料室>魏書東夷伝にみる諸民族の記録>濊伝

 濊は、南は辰韓と、北は高句麗と沃祖とに〔境界を〕接していて、東は大海に臨んでいる。今の朝鮮の東が、みな濊の地である。〔濊の〕戸数は二万戸である。昔、箕子が朝鮮に行き、八条の教えを作り、〔これを〕以て人々を教え導いた。〔教えをうけた人々は〕門戸を閉じることをせず、また盗みをしなくなった。
 箕子の後、四十余代目の朝鮮侯準は、勝手に王を称した。〔前209年、陳〕勝らが蜂起して天下が秦に叛いた時、燕〔国〕や斉〔国〕や趙〔国〕の人々は〔混乱を〕避けて、朝鮮に移住してきた。その数は一万人にも達した。燕人の衛満もまた、まげを魋結形に結い、東夷の〔人々の〕服を着て、やって来て王になった。
 〔前〕漢の武帝が朝鮮を伐ち滅ぼし、その地域を分けて四郡を開設した(前108)。この後から、胡〔族〕と漢〔族〕がしだいに区別されるようになった。
 〔濊には〕大君長はいない。〔前〕漢時代以来、官〔職名〕には侯・邑君・三老があって、下戸を統治している。濊族の老人たちは、古くより、自分たち〔の伝承〕として「高句麗と同種である」と言っている。人々の性格は、慎み深く率直で、欲深いところが少ない。恥を知る心があり、〔困難な時でも高〕句麗に〔援助を〕請うようなことはしない。言語やおきてや習俗は、だいたい〔高〕句麗と同じである。〔しかし〕衣服には異なるところがある。男女の衣服は、みな円い襟をつけていて、男子の場合は〔襟の両端に〕銀花を繋いでいる。〔銀花の〕大きさは数寸で、飾にしている。単単大山領より西は楽浪〔郡〕に統属し、領より東の七県は〔東部〕都尉を廃止し、濊〔属〕の渠帥(指導者)を封じて侯とした。今の不耐濊は、皆この子孫である。〔後〕漢時代の末には、〔中国に〕替えて〔高〕句麗に臣属した。
 濊の習俗では、山や川を尊重していて、山や川には〔特別な〕個所があり、妄りに立ち入ることができない。同姓の人々の間では結婚をしない。忌みさけることが多く、病気になったり、死者がでたりすると、ただちに旧宅を捨てて、更めて新居を作るのである。麻布〔を織り〕、桑を植えて蚕を飼い、緜を作っている。星宿の動きをうらない暁り、予めその年が豊作であるか凶作であるかを判断する。珠玉を宝物とはしない。常に十月を節として天を祭り、昼も夜も飲食し歌舞する。これを名付けて舞天といっている。また虎を祭り、虎を神として〔崇めている〕。ある村が他の村を侵略したときは、ただちに罰として〔侵略した村の〕捕虜と牛馬を取り上げる。これを責禍と称している。人を殺した場合は、死をもって罪を償う。盗みをする者が少ない。矛は三丈の長さに作り、あるときには数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。楽浪の檀弓〔として有名な弓〕はこの地から産出するのである。海からは班魚の皮を産出する。産物は豊かで、斑文のある豹や果下馬を産出する。〔後〕漢の桓帝の時代(149-168)に、濊が果下馬などを献上したことがあった。
 〔魏の〕正始六年(245)、楽浪〔郡〕太守(長官)の劉茂と帯方〔郡〕太守の弓遵とは、領東の濊が〔高〕句麗に臣属したので、軍隊を派遣して、〔叛いた〕濊を伐った。その結果、不耐侯らは村をあげて降服してきた。
 その八年(247)、〔不耐侯の遣わした使者が〕魏の朝廷に朝貢したので、〔斉王芳は〕詔して、改めて不耐濊王に任命した。〔不耐濊王は〕一般の濊人とともに住んでいる。〔その使者は〕季節ごとに楽浪〔郡〕と帯方〔郡〕に来て朝謁する。二郡は、戦争するとき〔濊〕から貢物を取り、使役を供給させている。〔二郡が〕濊の人々に対する態度は、〔二郡の〕民に対するのと同じようである。

凡例 〔 〕:訳者が補った語句 ( ):訳者による注

* これらはすべて、井上秀雄ほか訳注1974『東アジア民族史1-正史東夷伝』平凡社より引用したものです。脚注は省略しています。詳細は原書をご参照ください。

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