鈴鹿川の支流御幣(おんべ)川(山本町辺りの枝川を鍋川(南辺川)ともいう)が作つた椿扇状地の奥に鎮座する。 社伝によれば垂仁天皇27年八月倭姫命の御神託により磯津(鈴鹿川)の川上高山短山の麓、土公神陵の前方御船(舟)磐座の辺りに『道別大神の社』として社殿を造営し奉斎されたと伝えられている。 サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握しており、当社創建以来、代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。 中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。) 天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが戦争の為に列格は中断した。 当社は北勢の猿田彦大神を奉じる海部族が、その川上の山本に、この大神を氏神として奉斎したと推定される。 本社の背後にある海抜450mほどの椿が岳を神南備として祭祀したとも、背後にある入道ケ岳(海扱906m)には、その中腹に数多くの磐座が存し、それらを古代信仰の祭祀遺跡であるともいう。 境内中央近くに「御船磐座」があり、柵と注連縄で覆われた清浄な神域の中に、多数の配石が置かれている。その中の「巨木の根元に玉石が敷き詰められた四角形の聖域」に、3つの小ぶりな石が置かれている、これが、椿大神社の祀る3神を宿した磐座だとされている。 |
由緒 伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古時代、只今の神社の背後にそそり立つ高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然のやしろとして、(神代の神跡いわくら現在)高山生活を営まれたクニツカミ猿田彦大神を主神とし、相殿に皇孫瓊々杵尊、栲幡千々姫命を祀り、配祀に天之宇受女命・木花咲耶姫命を祀る。神話に伝わる天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、北伊勢道別の里なる地祗本陣を旅立ち給ひて天の八衢に「道別の大神」として出迎え、風ぼう雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峯に御先導申し上げた事で肇国の礎を成したこの大神を、後に人皇第11代垂仁天皇の27年秋(西暦紀元前3年)倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに、「道別大神の社」として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ現在に及び、昭和の始め内務省神社局の調査により、全国二千余社の猿田彦大神をまつる本宮であることが明かとなり、「地祗猿田彦大本宮」と尊称されております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
椿大神社 社殿創始は神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。 天孫(てんそん)「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」が降臨の際、猿田彦大神は、天の八衢に「道別(ちわき)の神 」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎(いしずえ)を成したこの大神を、後に倭姫命(やまとひめのみこと)の御神託により、磯津(いそづ)(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(ちわき)の大神の社(おおかみのやしろ)」として奉斎することになったのは、天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)の幽契(ゆうけい、すなはち霊通による約束)であって、日本の国家肇国の発祥を物語る重要な意味があります。 この北伊勢高山短山の麓に地祇・猿田彦大神を主神として祀る椿大神社があり、南方はるか二十四里の所に天神を祀る伊勢の神宮がありますのは誠に神慮によるものと言うべきでしょう。 昭和初期、内務省神社局の調査によって、全国二千五百社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮であることが再確認され、「猿田彦大本宮」(地祇大本宮)と尊称するようになりました。 HP |
椿大神社 伊勢平野を見おろす鈴鹿山系の中央部に位置する高山入道ヶ嶽(906メートル。奥宮有)・短山椿ヶ嶽(450メートル)の麓に鎮座し、鈴鹿側支流の御幣川が形成する扇状地の根元に鎮座し、鬱蒼たる杉木立のなかに鎮座している。 神代より高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽山中で営まれていた猿田彦祭祀であったが、垂仁天皇の皇女である倭姫命の神託によって猿田彦神陵前方の「御船磐座(みふねのいわくら)」に伊勢開拓神であるサルダヒコ神を主神としてニニギ尊・タクハタチチヒメ命を相殿に祀った社殿を造営したことにはじまるという。 サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握していたが、垂仁天皇の代(垂仁天皇27年)に伊勢の皇大神宮鎮座にあたって、奉仕したのがサルダヒコ神の末裔とされる大田命(伊勢の猿田彦神社)であり、以来伊勢神宮と密接な関係にあった。 当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。(行満神主の頃に獅子舞が創始され、当社の獅子舞は日本最古とされている。) 仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。) その後も神威を発揚していたが戦国期の天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。 昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいる。 |
椿大神社 御舟石坐御由緒 此の御神跡を御舟石坐と申し伝え、中央三個の石を天降石と古来より称す。神座を依って明らかにす。 中央奥は主神道祖猿田彦大神、左は皇孫瓊々杵尊、右は栲幡千千姫命。 往古国津神が磯津の浜より溯って御舟をここにつながれ給い、高山短山(たかやまひきやま)のいほりに安住なし給うと申し伝う。日本国土の神社の淵源を物語る貴重な御神跡で有ります。 (内務省神社局考証課長宮地博士調査考証) 謡曲うづめ(室町時代作) 宮路久しき神垣や神垣や、尽くせぬ春ぞ長閑(のど)けきそもそも是を勢州一の宮椿大明神と仕え申し神職とて候(中略)有りし昔の岩戸の舞をふみ轟ろかし給いにし鈿女御前のあらたかさに手向を捧ぐるばかりなり。 よし誰とても同じ心本社は猿田彦の大神天の八街よりさきはらいし皇孫尊を中津国にむかえ給うも神代の御事(中略) 往昔あふれる椿が岳と影向ならせ給いし時御船を爰につながれしは春立つ今日にあされり(中略) 伊勢之国一之宮椿大神やしろ 猿田彦大本営 HP |