2. 「教育による社会的正義の実現」第一章のまとめ
アメリカを代表する教育史学者、ダイアン・ラヴィッチの「教育による社会的正義の実現」を原文で読んでいる。原題は “The Troubled Crusade” (葛藤続きの教育十字軍)。1983年に刊行されたこの本は、なぜか2011年になって和訳されたのだが、タイトルが残念すぎる。「社会主義」に空目してしまったではないか。
日本語版の紹介は以下。
第二次大戦後アメリカの教育は、社会的正義実現の先駆として、地域間、人種間、男女間等、あらゆる差別の撲滅をめざし突き進んだ。そこで生起した様々の対立と矛盾―連邦支援と地方の主体性喪失、人種差別撤廃と白人の郊外脱出、大量進学と教科の多様化及び学問的教科の衰退はじめ、次作『学校改革抗争の100年』でさらに強調される、理想追求と教育の実質、量的拡大と学力形成等、改革が孕む二律背反関係を浮彫りしつつ、The Troubled Crusade「葛藤続きの教育十字軍」35年間の全貌を活写した代表作。
情報量が多いので、各章ごとに要約記事をひとつ書くことにした。今回は第一章の要約である。あいにく訳本を持っていないので、文中の訳はすべて拙訳である。要約といっても長いのはご愛嬌。
ちなみに、ラヴィッチ著の「偉大なるアメリカ公立学校の死と生」は2012年に原文で、”Rein of Error”(未訳)は2014年に原文で読んだ。両著ともアメリカでベストセラーになっている。
第一章 “Postwar Initiatives” (戦後の教育構想)
第二次世界大戦で戦火は免れたアメリカだが、戦後の教育現場は炎上していた。タイムス紙のFine記者が1947年に書いた記事によると、
- 戦時中、軍事産業など高給の仕事を求めて35万人の教師が教職を去った。戦後に残った教師は約90万人。
- その90万人のうち、毎年2割が辞め、新米教師がその穴を埋めた。教師の7人に1人は正式な教員免許を持っておらず、15人に1人は高卒だった。
- それでも教師は7万人ほど足りていなかったので、放っておけば6000校ほどが閉鎖に追い込まれるとされた。
- 教師の給料は週に37ドルで、トラックの運転手や、ごみ収集業者や、飲み屋のおやじより低かった。
早い話が、カネが無かったのである。日本の戦後のように国全体が飢えていた訳ではないが、他の産業に比べて教育現場が困窮していたのだ。
格差の再生産?何それ美味しいの?
ただ、これはあくまで平均で、裕福な学校には貧乏な学校に比べ60倍近いカネが流れこんでいたという。どうして格差が生まれるかというと、アメリカでは地方分権の考えに基づき、学校の財源の殆どはその地域の固定資産税(主に住宅など)で賄われているからだ。戦後当時に再分配の仕組みは無かったので、税収が低い地区の学校は壊滅状態だった。1
また、差別大国アメリカの南部では、すでに奴隷制度は廃止されていたものの、黒人と白人の居住地区や公共施設は分けられていた。2 奴隷時代の名残で、黒人地区の税収は低い。とある南部の小さな学区では、
- 白人教師の年収は約890ドルで、黒人教師の年収は約330ドル。
- 白人の子供は年に8ヶ月学校に通うが、黒人の子供は予算が足りず年に6ヶ月のみしか通えない。
- 白人教師の半分は大卒。黒人教師は3%が大卒。
南部以外にも予算不足で苦しんでいる州は多かったが、アメリカ連邦(中央)政府に教育予算を再分配する権限は無かった。
連邦政府 → $ → 貧困地区?
「しんどい地域の学校に、国の補助金を」という運動は、第一次世界大戦で軍人の識字率の低さが判明したときや、1929年のウォール街大暴落によって全国で教育予算がカットされたときにも起こった。しかし、議会で可決されることはなかった。利害関係が複雑に絡み合っていたからである。
- 南部の白人や保守議員: 補助金が欲しいが、黒人隔離も続けたい。
- 南部の黒人やリベラル議員: 黒人隔離を容認する地区には1セントたりとも補助金を出すな。
- カトリック団体系の議員: カトリック校にも一部でいいから補助金をまわすべきだ。
- 教職員組合系の議員: 補助金を出すのは公立の学校だけで十分。私立のカトリック校には1セントたりとも補助金を出すな。政教分離を忘れたか。
- 小さな連邦政府を目指す議員: 中央政府は地方にあれこれ口出しするべきではない。
- 大きな連邦政府を目指す議員: 補助金は出すべきだが、どこにどうバラまけば票が一番集まるか?
といった具合で、議論はいつも平行線になってしまう。しかし、戦後のベビーブームや知的労働者の需要増加に伴い、連邦議会でも「そろそろなんとかしないとヤバい」という空気が漂いはじめていた。
復員兵援護法が通った
膠着を打破したのは高等教育だった。
40年代の大学進学率は16%で、大卒=エリートだった。そんな中、終戦直前に「復員兵援護法 (G.I. Bill)」が成立した。帰還兵約1600万人を対象にしたこの法律には、「元兵士が大学に進学した場合、学費と生活費の大部分を政府が肩代わりする」という条項が盛り込まれていた。学費の他にも、就労サービス・失業保険・住宅ローンの一部肩代わりと、至れり尽くせりの内容である。3
裏にはそれぞれ次のような思惑があった。
- 軍の組合: 賛成。我が国のために命を賭した兵士たちが、社会に復帰できる仕組みを作るのは当然。何としても、この法案を我々に一番有利な形で通したい。
- 国の官僚: 賛成。帰還兵を学校に行かせておけば、数年間は彼らは失業率にカウントされずに済む。失業率を数字のマジックで低く保てる。
- 大学経営者: 賛成。政府のカネでふところが潤う。
- エリート大学教授: 反対! 生徒をそんなに増やしたら大学がゆとり教育になる!
名門・シカゴ大のとある教授は「こんな法律が施行されては、大学は浮浪者の野宿場所になってしまう」というコメントまで残している。だが、彼らの声は政府に届かなかった。
復員兵援護法が招いた結果
政府は「どうせみな疲れ切った兵士ばかりだし、この制度を利用する者は少ないだろう」と高をくくっていたが、終戦後の1946年にいきなり100万人超がこの奨学金制度を利用してしまった。全米の大学生の数はほぼ倍増。それまではエリートの若者しかいなかった大学に、屈強なオッサン達がなだれ込んで来たのである。4
しかも驚いたことに、通常の生徒を元軍人は成績で圧倒したのだ。軍で鍛えられた彼らの勤勉さが地頭に勝ったのである。「奨学金は、学力の高い帰還兵に限定してはどうか」と法施行前に発言したハーバード大の学長は前言を撤回。「復員兵の皆さんはハーバード設立以来、最も優秀な生徒たちだ」と立場を180度変えるありさまだった。まさに机上のなんとやらである。
あまり知られていないが、復員兵援護法は大学全入時代の先駆けとなった。最終的に約220万人が奨学金で大学に行ったが、この規模の奨学金は、当時の世界を見渡しても前代未聞だった。「大学はエリート層だけのもの」という概念を世界ではじめてぶち壊したのが、アメリカの復員兵援護法だったのである。
また、「大学は若者だけのもの」という常識も覆された。「日本とくらべてアメリカはMBA制度が盛んで、社会人キャリアの『踊り場』が用意されているのが羨ましい」と日本のサラリーマンからよく聞くが、その文化の大本はこの復員兵援護法にある。ちなみに先日、オバマ大統領は公立2年制大学の無償化構想を表明したが、スピーチの中で彼も復員兵援護法に触れている。
復員兵援護法の成功に続けと言わんばかりに、大学に進学したいと思う人全員が大学に行けるような制度を作ろうとする運動も起きた。その一環として、当時の大学が陰で行っていた「ヌメルス・クラウズス」制、すなわち黒人やユダヤ人に対する入学制限にも、激しい非難が浴びせられた。
財源をどうするのか、誰も答えられないまま大学全入の議論は下火になったが、教育現場における人種差別に対しては、世論の厳しい目が向けられるようになった。
黒人人権の理想と現実
アメリカにとって大戦の大義名分は「アメリカ式民主主義を世界に」だったが、当時の黒人差別はその理想とは程遠いものだった。北部出身で南部に派遣された黒人兵は南部の差別制度の酷さを目の当たりにした。逆に、南部出身で北部や海外に派遣された黒人兵は、生まれて初めて差別の少ない世界を経験した。
議会にはレイシストや南部の白人代表の議員が多かったため、差別撤廃に向けた法律が通る希望は薄かった。それでも、当時のトルーマン大統領は人権に関する調査会を発足させ、黒人差別の実態を白日の下に晒そうとした。調査会は、「反リンチ法の制定」「南部での投票税の撤廃」「雇用・住宅・病院施設・公共施設などでの差別撤廃」などの提案を盛り込んだ調査結果を次々と提出していく。
しかし、教育に関しては、調査会内で意見が割れた。さきほども少し触れたが、南部には白人専用と黒人専用の学校があり、これらの学校に連邦政府が金銭支援をするかどうかが問題になったのである。
- 賛成派: 南部の学校、とくに黒人学校は貧困にあえいでいる。黒人の地位を向上させるには教育しかない。連邦政府が人権を守りたいなら、黒人学校にカネを出すべきだ。ただ、黒人学校だけを支援するのでは、白人票が取れず、この案は絵に描いた餅になってしまう。なので、白人学校にもカネをばらまく必要がある。
- 反対派: 白人学校と黒人学校それぞれにカネを出してしまうと、学校施設を肌の色で分けるという差別を連邦政府が容認することになる。それでは差別は無くならない。よって、連邦政府は南部の白人学校にも黒人学校にもカネを出すべきではない。
結局、トルーマン大統領の時代に答えは出なかった。連邦政府の救いの手は黒人学校には差し伸べられなかったのだ。差別が解決に向かうのは、戦後から約10年後のブラウン判決が出てからのことである。
そして連邦政府の教育支援もまた、カネのばらまき方が決まらないまま先送りにされていった。
カトリック校に対する支援の是非
連邦政府から補助金を出すにあたって、差別問題に加えて宗教問題のハードルもあった。さきほども少し触れたカトリック校の話である。
カトリック教徒の子が通うカトリック校はすべてが私立で、当時の全学校の1割弱を占めていた。5 1940年までは、カトリック団体は他の宗教団体と同じく、政府の資金に頼ることは政府の支配に屈することで、カトリック教の壊滅につながると考えていた。「われわれの学校に連邦政府のカネを入れることなど、もってのほか」だと彼らは考えていた。
しかし戦後、連邦政府による給食費支援や、さきほどの復員兵援護法といった「カトリック教徒も含む、幅広い生徒」に向けた補助が活発になると、カトリック団体も考えを改めるようになる。結果、カトリック団体は「学校側ではなく、生徒側に対する連邦政府の支援ならば賛成。一般の子が受けられる支援は、カトリックの子も受けられるべきだ」と主張するようになった。
そんな1947年のとある日に事件は起きた。ニュージャージー州では、子供のスクールバス費用が税金によって無償化されていたが、この制度はカトリック校に向かうスクールバスにも適用されていた。それを知ったとある納税者が、税金をカトリック学生に使うのは政教分離をうたう合衆国憲法に反しているとして、教育委員会を相手に訴訟を起こしたのである。
結果、最高裁では5対4で「カトリック学生の交通費に税金を使うのは憲法違反ではない」という判決が出た。カトリック側の主張が通ったのである。これはアメリカを揺るがせた。当時の全米人口の約7割を占めるプロテスタントは「カトリック教徒がアメリカを乗っ取ろうとしている」という批判を繰り返し、カトリック側は「一般の子が受けられる支援をカトリックの子が受けられないのは差別にあたる」と反論した。
ちょうど当時、連邦政府による教育補助金について検討していた議会も揉めに揉めた。とある議員は「私立校に通う子には補助金を1セントたりとも渡すべきでない。たとえ、宗教以外の教科書や交通手段に使うためだとしても」という旨の法案を提出し、カトリック団体から猛烈な批判を浴びた。事態は炎上し続け、カトリック教に対して懐疑的だったエレノア・ルーズベルト(ルーズベルト元大統領の夫人)とスペルマン枢機卿(カトリック教の最高顧問)といった有名人がお互いを個人的に罵倒し合い、そのことはアメリカ中に知れ渡った。
この宗教問題であまりにも世論が割れたため、戦後約20年間は「連邦政府による教育補助金に関する法案がまとまることはないだろう」という空気が議会に流れた。復員兵援護法など、受給者が限定される場合は合意が得られても、対象が幅広くなったとたんに議論が行き止まってしまうのである。
日本との比較と、第一章のまとめ
日本において、戦後の教育改革の中心は「民営化」と「教育内容の見直し」だった。マッカーサー率いるGHQは教育委員会の設置によって民営化を促し、「教え子を戦場に送る」原因のひとつになった国定教科書への反省から、教科書検定制度を導入した。
それに対してアメリカでは、戦後の教育改革の中心は「カネ」だった。教育予算の格差が浮き彫りになり、連邦政府の補助金への期待が膨らんだ。復員兵援護法といった、支持を得やすい補助金制度はすんなり決まり、一定の成功を得た。しかし、一般の子供向けへの補助金は、南部の学校やカトリック校をめぐる問題で意見が統一されず、アメリカのお家芸である「決められない政治」の典型となってしまった。
ちなみに、アメリカの戦後はカネについての議論が多かったが、カリキュラムについての議論も少なからずあった。第二章ではそれについて見ていくことにする。