【梅田望夫氏×武田隆氏対談】(中編)
瀕死のベンチャーがたどり着いた
広告に頼らずインターネットでマネタイズする方法
ベストセラー『ウェブ進化論』著者が『ソーシャルメディア進化論』著者に訊く!
インターネットまわりのビジネスをするうえで、必ずついてまわる問題が「マネタイズの難しさ」だ。1996年に学生ベンチャーとして起業した武田隆氏にとっても、最大の悩みはそこにあった。
でも、広告には逃げたくない。「サイトをつくって人を集めて、広告を入れれば収益が上がる」というやり方は何かが違う。「広告モデルは20世紀のマスメディアに最適化されたビジネスモデル。インターネットにはインターネットらしいビジネスモデルがあるはず」と思ったからだ。そこで苦悶の末に、武田氏らがたどりついた答えとは……?
前回からひきつづき、インターネットの黎明期からその進化を見つづけてきた梅田望夫氏との対談の中編をお送りする。
オープンなだけじゃ人はつながれない、京都での気づきが設計の根本に
武田 1996年に誰よりも早く起業した弱小の学生ベンチャーは、1998年に一気に押し寄せたインターネットの潮流にあっけなく飲み込まれていきました。あっという間に、その存在は小さいものになっていきました。どうせ存在がなくなってしまうなら、「せめてインターネットにインターネットらしい何かを残してから解散しよう」と仲間と話し合い、なかば自暴自棄に開発を始めたのが「Beach(ビーチ)」というコミュニケーションツールでした。
大げさにいえば、自分たちの存在(アイデンティティ)を賭けた戦いでした。
1960年生まれ。慶應義塾大学工学部卒業。東京大学大学院情報科学修士。コンサルティング会社「ミューズ・アソシエイツ」をシリコンバレーに設立し、日本のIT起業家に対する支援やマネジメント・コンサルティングを行う。2006年には『ウェブ進化論』でパピルス賞を受賞。「観る将棋ファン」を自認し、将棋の普及に関わる活動にも広く携わる。
梅田 そのシステムが、今、日本最大の企業コミュニティモール(2011年矢野経済研究所調べ)となったわけですね。最初から、企業向けを想定していたのですか?
武田 いえ、最初は無料のプラットフォームとして、コンシューマ向けを想定していました。儲かるか儲からないかというよりは、ただ「部屋を主役にするコミュニケーションツール」を世界に提案しようと思ったんです。それで、マーク・アンドリーセン(世界初のウェブブラウザ「モザイク」の開発者)のようになれればそれでいいと思ったんですね。部屋を主役にするという考え方は、とても日本的なアプローチで、他との差別化にもなるだろうし、世界に広がるインターネットユーザーにも喜んでもらえるんじゃないかと……。
梅田 部屋、ですか……?『ソーシャルメディア進化論』に、参加者が本音を出せる空間づくりの参考として「利休の茶室」を出されていましたが、制作当初から茶室的なイメージがあったんですね。
武田 設計を始めたころ、大学時代からの恩師である武邑光裕先生が京都造形芸術大学に移られて、「日本の伝統芸術とマルチメディアの融合」というテーマで研究をされていたんです。私もその研究に参加させていただき、コミュニティのシステムを設計しながら、月の半分は京都にいました。そのときに、「明るくてオープンなだけじゃ人はつながれない。影や暗さ、秘密というものに心地よさを感じることもあるのだ」と、様々な日本の伝統芸術から教わりました。谷崎潤一郎の世界のような……。
梅田 たしかにそうかもしれません。
武田 京都・山崎には、利休の残した茶室「待庵」があります。茶室の中はかなり暗いんです。光は小さな長方形の窓から、ぼやーっと入ってくるだけ。そして、広さは2畳ほどしかありません。ここに2人で向かい合うとなると、ものすごく密度の濃い秘密の空間が生まれたんだろうなと感じました。そういった空間は、当時のインターネットにはないと思ったんですね。
梅田 当時のインターネットは、むしろ暗闇のないオープンな空間を世界中に広げようとしていたムーブメントでした。茶室というのは、どちらかというとリアルな世界のメタファーですからね。それとは真逆のバーチャル空間を押し広げ、パブリック、オープン、フリーで世界を覆ってみようという試みだった。世界中の他者と出会えるなど、リアル空間ではできなかったことが、オープンであるがゆえにできるようになる。そのことに興奮していた人が大半だったように思います。
武田 とりわけ、黎明期はそうでしたね。
梅田 そして、その感覚で覆い尽くされそうになったころに、アンチテーゼとしてクローズドなSNSが興隆しました。グーグル的なオープンな世界が現実に広がってきてみると、人間そんなにオープンな世界ではいられないぞ、と多くの人たちが気づき、フェイスブックを代表とするSNSの流れが大きくなっていったんです。それが2005~2007年くらいのことです。ここでやっと、コミュニティという概念が一般のものになってくる。
だけど、なぜ武田さんは1998年という早い段階で、コミュニティが来ると予測できたのでしょうか。
情報の大海に溺れてしまわないように、Beachをつくろう
エイベック研究所代表取締役。日本大学芸術学部にてメディア美学者武邑光裕氏に師事。1996年、学生ベンチャーとして起業。クライアント企業各社との数年に及ぶ共同実験を経て、ソーシャルメディアをマーケティングに活用する「企業コミュニティ」の理論と手法を独自開発。その理論の中核には「心あたたまる関係と経済効果の融合」がある。システムの完成に合わせ、2000年同研究所を株式会社化。その後、自らの足で2000社の企業を回る。花王、カゴメ、ベネッセなど業界トップの会社から評価を得て、累計300社のマーケティングを支援。ソーシャルメディア構築市場トップシェア(矢野経済研究所調べ)。2011年7月に出版した著書『ソーシャルメディア進化論』は第6刷のロングセラーとなっている。JFN(FM)系列ラジオ番組「マーケの達人」の司会進行役を務める。1974年生まれ。海浜幕張出身。
武田 私が学生だった1994年に、アップルの68系Macintosh「Quadra 840AV」を手に入れ、最初にアクセスしたのがパソコン通信だったことが大きいと思います。カナダのSoftArc社が、Macintosh用に「First Class」というパソコン通信用のソフトウェアを提供していたんです。First Class は、Macintoshのフォルダアイコンのイメージを大切にして設計されていた。その感覚が、茶室の感覚とピッタリ合ったんです。
First Classにアクセスしているのは、当時学生だった自分から見ればずいぶんと大人な人々でした。今まで出会ったことがなかったようなプロのデザイナーやプログラマーといった方々と出逢い、会話を交わすことができた。あの興奮や感動がずっと残っていたんですね。
梅田 パソコン通信はインターネットとは違い、ある種閉鎖的で、コントロールされた空間でした。
武田 その時から、この先おそらく、インターネットのオープンプラットフォームがどんどん広がっていくと、人間の脳の処理を超えてしまうだろうと感じていました。まだ世界中に数えるくらいしかウェブサイトが存在しなかったころは、世界のインターネットのすべてが把握できていると思えた時期がありました。
梅田 当時のインターネットを知る多くの方がそう言いますね。もちろん私も記憶しています。
武田 その後、幾何級数的にウェブサイトや参加者が増えていくと、またたく間に自分の手から離れていく感覚も経験しました。世界がひとつに感じられたまとまりは薄れ、我が事化も薄くなる。このまま情報の大海の中に溺れてしまうのではないか……という懸念が生まれたんです。
だから、押し寄せる情報の波に対して、落ち着いて自分の心地よいリズムでサーフできるような浜辺が必要になると思ったんです。
梅田 ああ、それでコミュニケーションツールの名前が「Beach」なんですね。しかし、1998年に大きな志を持ってつくり始めたソフトウェアの開発が今も続いているなんて、武田さんは気が長いですね(笑)。数年経つと、また違うものをつくる人も多いですよ。特に、インターネットの世界ではね。
武田 続けているうちに、引っ込みがつかなくなってきたんだと思います(笑)。株主にもコミットして資金を調達していましたし……。
梅田 ところで、最初はコンシューマ向けを目指したシステムが、なぜ企業のオンラインコミュニティとして花開いたのでしょうか。
武田 開発を始めたものの、予算が足りなくて、当初計画していたものの1割も作れませんでした。今もまだ4割程度ですが(笑)。当時は、ウェブ制作で稼いだお金を開発費に回していたのですが、それではとうてい足りないし、両方やっているとチームも疲弊していく。企画会議もウェブサイト制作の作業を終えた夜中の0時から3時までという日が続きました。これでは長くは続かないと思っていたころ、日本オラクルを立ち上げたメンバーが設立した、サンブリッジというベンチャーキャピタルと出会いました。彼らが、このシステムはおもしろいと言ってくれたんです。
梅田 「部屋を主役にするコミュニケーションツール」というコンセプトが?
武田 それもあったかもしれませんが、とにかく日本オリジナルのプロダクトで勝負するIT企業が日本にもいる、ということを評価してくださっていたように思います。あと、こいつらは絶対逃げないな、と(笑)。そこで出資の話が持ち上がるのですが、われわれにはビジネスモデルがない。とりあえず開発して、コンシューマに開放しようと思っていただけだったので……。
梅田 インターネットサービスの開発は、ビジネスモデルがなくても始まるものですよね。とはいえ、ベンチャーキャピタルはそれでは出資できないと言ったでしょう。
茶室が企業とインターネットを結びつける鍵だった
武田 そうなんです。そこで、コミュニティに広告を入れたらいいと言われました。でも、それはどうしても嫌でした。当時の私たちは、インターネットがどんどんつまらなくなっているのは、旧来のメディアの役割をインターネットが担わされているからだ、と考えていました。つまり、広告モデルというのは、20世紀のマスメディアに最適化されたビジネスモデルだと考えたわけです。逆に、インターネットにはインターネットらしいビジネスモデルがあるはずだ、と。
梅田 当時はみんな、とりあえずサイトをつくって人を集めて広告を入れれば収益が上がると言っていましたね。でも、結果としてそんなに簡単にはうまくいかなかったから、ITバブルがはじけた。
武田 そこまで見越していたわけではなかったのですが、学生ながら怖い思いをして起業したのは、インターネットを誰よりも愛しているという自負があったからでした。なので半分はやけくそでしたが、とことんインターネットらしくいこうと思ったのです。それで、どうにか広告を使わずに収益化できないかとサンブリッジと議論を重ねるうちに、糸口が見つかりました。それは、インターネットの本質は「双方向」なのだから、ビジネスモデルも双方向にすればいい、というものでした。
ウェブ制作事業を通して、企業の就職サイトなどをつくっていると、その企業の方にインタビューをするわけです。そうすると、社員の方が会社にすごく誇りを持っていることが伝わってくる。でもその誇りや想いは、就活生に届くころにはだいぶ薄くなってしまいます。広告も販促ツールも、その熱さやリアリティは十分に届けられない。企業と顧客が双方向でコミュニケーションできて、今よりも想いが伝わったら、企業も喜んでくれるのではないかと考えたんです。
梅田 そこで企業向け、という方向に転換したんですね。
武田 具体的な手法までは考えきれていませんでしたが、コンセプトだけはできました。ビジネスモデルは「双方向」で行く。オンラインコミュニティを介して、企業と顧客が双方向に関係を構築する。今の流行の言葉でいえば「エンゲージメント」ですね。このアイデアで、サンブリッジが投資に応じてくれました。
梅田 そのときは、広告は入れたくない、ユーザー課金もできない、でもそれでは資金調達ができない、という流れで偶然生まれたコンセプトだった。でも振り返ると、茶室のメタファーが企業とインターネットを結びつける鍵になったんですね。
武田 そうなんです。
梅田 企業はインターネットというオープン空間の大海に放り出されても、うまく泳げない。そういう意味で、茶室のメタファーが企業のコミュニティにぴったり合ったんですね。
武田 顧客と「エンゲージ」するには、双方向で、落ち着いて、心を開いて、フラットな目線で、長期間特別な関係を育むための空間が必要だと考えました。インターネット上に作られた茶室的なオンラインコミュニティならそれが可能なはずだ、と。
梅田 そこから企業コミュニティ一筋で10年以上なんですね。いやあ、良い意味でもう一度言いますが、武田さんは本当に気が長い(笑)。
※この対談の後編は、10月15日(火)に配信予定です。
【編集部からのお知らせ】
大好評ロングセラー!武田隆著『ソーシャルメディア進化論』
◆内容紹介
当コラムの筆者、武田隆氏(エイベック研究所 代表取締役)の『ソーシャルメディア進化論』は発売以来ご高評をいただいております。
本書は、花王、ベネッセ、カゴメ、レナウン、ユーキャンはじめ約300社の支援実績を誇るソーシャルメディア・マーケティングの第一人者である武田隆氏が、12年の歳月をかけて確立させた日本発・世界初のマーケティング手法を初公開した話題作です。
「ソーシャルメディアとは何なのか?」
「ソーシャルメディアで本当に消費者との関係は築けるのか?」
「その関係を収益化することはできるのか?」
――これらの疑問を解決し、ソーシャルメディアの現在と未来の姿を描き出した本書に、ぜひご注目ください。
※こちらから、本書の終章「希望ある世界」の一部を試し読みいただけます(クリックするとPDFが開きます)。
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序 章 冒険に旅立つ前に
第1章 見える人と見えない人
第2章 インターネット・クラシックへの旅
第3章 ソーシャルメディアの地図
第4章 企業コミュニティへの招待
第5章 つながることが価値になる・前編
第6章 つながることが価値になる・後編
終 章 希望ある世界