1、はじめに〜君主の「政治関与」の法的意味〜
象徴天皇制をめぐる問題は多い。その原因は昭和時代がまだ歴史ではないからであろう。特に先の大戦をめぐる論議は現在でも政治の問題である。ただし、歴史を離れて君主制について考えるべき問題は多い。
平成17年の皇室典範改正問題でも、平成4年天皇訪中でも、「陛下の意思」が流布された。昭和48年5月には増原恵吉防衛庁長官は内奏漏洩を理由に辞任している。今上陛下においても、平成13年11月3日の国政報告における内容を田中真紀子外相が漏洩した疑惑で、責任問題が生じた。
事の真否は本論では重要ではない。問題は、象徴としての天皇がまったく政治的意思表示をしていないとの前提の不自然さである。内奏における今上陛下のご発言の漏洩が問題になる事実から、現在においても戦前同様の政治的意思表示をなされているとの慣例に変更はないと推定できる。立憲君主の政治的発言は形式に差はあれ、許容されているのが国際共通理解である。よって、現行憲法典体制においても昭和天皇が帝国憲法体制下と同様の発想で大臣に接していた、などとの指摘は誤認と断定してよかろう。
ただし、これは統治行為ではなく、国務大臣に君主のこの種の発言を遵守する義務はない。たとえ、大臣達に影響力を及ぼしたとしてもそれは「政治関与」とは言えても、決して法的義務が付随する統治行為ではない。日本国憲法学の用語に従えば、実権を伴う国政行為にはなりえない。
では、戦前の昭和天皇が模範とされたという英国型の立憲君主と現在の象徴天皇制はどう違うのであろうか。それを帝国憲法体制に立ち返り、再検討する試みは決して無益ではあるまい。
2、バジョットとダイシーの理論
我が国は少なからず英国を立憲君主国として模範とした。英国憲政理論の蓄積は膨大である。その中でも我が国の憲政理論に影響を与え続けている代表者としてW.バジョットとA.V.ダイシーを挙げるのは至当であろう。
バジョットの『英国憲政論』は初版が1867年である。ジャーナリストであるバジョットの議論は法制論に基づいた政治論であり、同書は法律の条文を一条も引用することなく英国憲政の実態を明らかにし、議院内閣制の理論を構築した。君主制に関しても多数の重要な理論を提示している。特に、君主は「警告する権利」「激励する権利」「相談される権利」を有しており、賢明な君主はこの三つの権利の行使により国政に影響を及ぼせる、と説明した。つまり、憲法律である「君臨すれども統治せず」の運用として「警告権」「激励権」「被諮問権」を整理した。
バジョットの前提は、君主の単なる傀儡化や無力化ではない。それは国民の誰も望まないとすら述べている。内閣が「機能する部分」であるのに対し、君主は国家の「威厳を持った部分」としての機能が求められているとする。権力の行使を前提としながらそれを臣下によって制約されていれば、その君主は単なる傀儡にすぎない。しかし、バジョットが構築し、近現代の立憲国家において受容されている君主像はそのような存在ではない。権力の行使からは極力分離されている。具体的には、君主の権威は内閣の権力と分離されている。権威と権力が最初から分離されている点が、近代立憲君主の特徴である。
君主に残された三つの権利もその範疇である。この三つの権利は、「政治関与」すなわち影響力ではあっても、命令権限には基づかない。英国は「君臨すれども統治せず」の憲法律によって、大日本帝国は憲法典3条、4条、55条などによって代表される帝国憲法体制によって、君主個人の意思による命令権限は制約された。
しかも、帝国憲法体制においては天皇の代行者として元老が存在した。元老不在後は内大臣と重臣が存在した。英国君主にも相談に与る長老政治家がその時々に存在したが、日本の場合はさらに制度化された元老や内大臣が存在した点で、さらに影響力の行使には条件が抑制的であったと解さなければならない。
勿論、バジョットと同時代のビクトリア女王はしばしば政治に容喙した。その事実は女王崩御直後に書簡集が公表され、日本でも著名な国際法学者であった立作太郎博士により翻訳されている。また、吉野作造博士などは「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」において、女王の容喙が歴代大臣を懊悩させた事実を指摘している。
ただし、女王といえども議会の決定を覆すことは出来ないとの前提が存在する。女王の関与は首相や外相など国務大臣や一部の相談役の政治家に限定される。これは、統治機構内部における三つの権利による影響力の行使は許されても、それは決して命令権限に基づく統治行為ではあってはならないとの意味である。たとえ、臣下に対して女王がどれほどの影響力を行使しても、それは警告なり激励なり相談なりを聞いた国務大臣の責任である。決して女王が自由自在に関与していたのではない。
後の英国君主も政治に関与した。特に、1931年の混乱に際して、ジョージ五世が労働党を除名され少数を率いるに過ぎないマクドナルドを首相に選任した行為には、批判が強い。古くはハロルド・ラスキが、最近ではヴァーノン・ボグダナーのような憲政史家が国制違反(日本流に言えば憲法違反)として批判している。ただ、それすらも18世紀の暴君であるジョージ三世のような専断ではない。議会が自ら首相を選任できない状態であったので、英国憲法の伝統に従って国王が調停者として裁定を下しただけである。旧憲法下でも新憲法下でもこのような法が日本には存在しないが、それが英国憲法の伝統である。帝国憲法下の元老の役割を君主自らが果たしたと解すべきである。
明治天皇は首相奏薦に際して元老達の意向を極めて尊重した。自らが望まぬ大隈内閣選定のような事態でも最終的に元老の意見を採用したのは周知の事実である。英国は、戦前日本のような明確な元老制度を有さず、その時々で相談相手を見つけなければならない。よって、英国の君主はその主導権を日本の天皇よりも発揮せざるをえないが、根本的には同じである。
さて、バジョットの議論を法律学の立場から体系化したと言えるのがA.V.ダイシーである。その代表作は1885年が初版の『憲法序説』である。同書は政治論に基づいた法制論であり、英国憲法学における「ダイシー伝統」を創出した。批判者も多いが、その学問的影響力は今日においても否定できない。少なくとも彼の体系化した「議会における国王主権」「法の支配」「憲法習律」の理論は健在である。
英国統治構造の実態を示した「議会における国王(女王)主権」は“King(Queen)in Parliament”の訳語であるが、これは尊厳を代表する君主の存在を前提としている。形式的な統治権は君主に残すが、実際の作用は貴衆両院が行う。行政権は下院に融合されているが、最高裁が上院に属するのが特長的である。法的にも、君主は正義の源泉すなわち法の擁護者であるが、それ故にこそ「法の支配」には従う。
もちろんダイシー自身も「君臨すれども統治せず」の原則通りに振舞おうとした君主の存在は前提としない。現実の君主は常に政治的役割を果たそうとしたし、それが望まれている。だからこそ、国王と行政・立法各部との衝突を回避する法として「憲法習律」を必要とした。つまり、君主が三つの権利などにより何らかの「政治関与」を行おうとしても、それは成文法による命令権限を有さない。不文法においても、強力な「憲法習律」によって国王は強力に拘束されている。「憲法習律」は裁判規範ではなく、政治家に委ねられた行為規範である。単なる政治慣例や慣行とは異なる。つまり、「憲法習律」の違反者は国法そのものと対決させられる点で拘束力を有する。実質的には革命やクーデターでなければ変更はできない。国王の「政治関与」も、そのような拘束をかいくぐってなされた行為であり、そこに自由は存在しない。
バジョットやダイシーの英国君主に関する論考は、単純な傀儡化も、命令権限に基づかない積極的な「政治関与」も拒否する。法的には「君臨すれども統治せず」の範疇であるが、許された三つの権利を行使して政治的影響力の行使は可能である。このような複雑な存在だからこそ、立憲君主はその儀礼的及び政治的役割を果たすことが出来るのである。
3、帝国憲法下での天皇の位置づけ
日本近代史における、帝国憲法下の天皇の位置づけは三流に分けられる。特に従来のまったく対立する二つの見解に対し、伊藤之雄教授が新説を展開してからは立憲君主のあり方をめぐる議論が盛んである。
第一が、天皇を実体的な意味での主権者とみなす見解である。天皇主権説と呼べる。日本の小中高等学校における教科書的理解ではこの見解は主流であろう。歴史学においても根強いし、憲法学などでも基本的にこの理解を継承している。最近でもピューリッツァー賞を受賞したハーバード・ビックスなどが採用している。
その根拠は、四点である。帝国憲法で最も重要である1条から4条で、天皇を主権者と規定していること。特に3条では「神聖ニシテ侵スベカラズ」と現人神とした神権的色彩が強いこと。内閣や衆議院の権限は弱く最終的に権力が天皇に帰属すること。「軍部」が統帥権の独立を濫用して独裁と侵略を推進し、天皇もその指導に関与した事実が存在すること。この説は、以上から天皇を神権的独裁者と解釈する。しかしこの根拠には以下の点からの批判に耐え得ない。
まず、帝国憲法は「統治権」を規定しているが、「主権」には言及していない。わずかに制憲者の一人である伊藤巳代治の英訳が「統治権」を“sovereignty”と訳すが、正文である日本文では「主権」の語は避けられている。違う概念だからである。
憲法典3条の「神聖不可侵」条項は君主無答責を規定するベルギー憲法からの援用であり、神権政治(theocracy)とはまるで異なる概念である。もし戦前日本が神権政治であったとするならば、現在に至るベルギーなどの立憲君主国すべてが同様に宗教原理主義国家でなければならないが、そのような主張は不可能である。本来の「神聖不可侵」の意味は、身体の不可侵と政治上の無答責である。身体の不可侵とは、不敬罪と廃位を禁止し、国法上の罪を問われないことである。
政治上の無答責とは、統治権の行使に際しては臣下が責任を負うことを指す。具体的には、天皇の詔勅といえども、国務大臣の副署が無ければ法令としての効力を有さない。天皇が事実として権力を行使せず、実際は国務大臣その他の機関が行使するからこそ、不可侵でありえるのである。「主権」の所在は問題ではない。
帝国憲法の権力分散に関しては事実である。また内閣総理大臣の罷免権も、内閣官制の厳格すぎる運用により制約されていたのも事実である。この点から、議院内閣制の運用として問題が生じていた点は争いようがない。ただし、それで天皇への権力集中を主張するのは「神聖不可侵」の意味を無視した議論である。大日本帝国憲法が天皇への権力集中を明文化していたとしても、それだけで実権を行使できたとするのは飛躍である。天皇に権力が集中していても、それは行使の抑制が前提とされた権能である。もし天皇が臣下の意思に反して強行すれば憲法体系の否定である。
国務大権から分離した統帥大権が「軍部」によって独走したとの評価も大幅な修正が必要である。まず「軍部」との表現も、陸海軍の総称であるのか、陸軍の全部ないし一部を指すのかが不明である。陸海軍が政治的に一致した例など稀であるし、それぞれ組織内に慢性的対立が内在していた。特に陸軍内の派閥対立の熾烈さは周知の事実である。「軍部」による独裁などは存在しようがなかった。陸軍は軍部大臣現役武官制などを行使して何度も内閣の死命を制したと言われる。
廣田内閣への干渉、宇垣内閣の流産、米内内閣の倒壊などはその例として挙げられる。しかし、陸軍出身者の林内閣や阿部内閣はさらに短命であった。議会やその他の官庁からの種々の拒否権により、政権基盤はまったく脆弱であった。戦時の東条内閣ですら一人の国務大臣の造反により総辞職に追い込まれた。昭和12年7月7日の盧溝橋事件から昭和20年8月15日の敗戦まで、7人の総理が9代の内閣を組織せざるをえず、諸外国のような一貫した戦争指導などは存在しなかった。この間、天皇は三つの権利を行使はできたが、それだけである。統帥部の決定に対し、御意向を伝えるのが可能であったにすぎない。
そもそも統帥権の独立は帝国憲法の規定ではなく、それ以前からの慣習法である。統帥権も輔弼事項であり、首相・内閣・軍部大臣・統帥部(参謀本部・軍令部)・各軍(関東軍など)の誰がその責任を負い実権を行使するのかに関して、権限争奪の長い歴史がある。これは行政法の問題であって、憲法典の問題ではない。むしろ憲法典は天皇の大権行使を抑制していた。
結論的には、天皇主権説は論理矛盾と事実誤認により破綻しており、成立しない。政治的に為にする議論としては別だが、それは筆者の関心外である。
第二が、天皇は憲法上「神聖不可侵」であったとみなす見解である。伝統的立憲君主説と呼べる。歴史学では通説である。帝国憲法の解釈により誰もが到達できる結論である。
そもそも帝国憲法では国家体制が規定されている他、権利義務における法治主義の理念が存在し、統治機関は権力分立の構成をとっている。この点では英国の「法の支配」と相違は少ない。そのような帝国憲法で最も重要なのは、万世一系の天皇による統治権を規定した1条から4条である。特に3条の天皇無答責条項は帝国憲法の大前提である。また4条では、天皇は「憲法ノ条規ニ依リ」統治権を行使すると規定されている。その天皇の権能は、国務・統帥・司法・儀礼に大別できる。
しかし儀礼権以外には帝国憲法運用の大原則である3条の天皇無答責条項が適用される。国務は55条で国務大臣による、統帥は11条で統帥機関による、司法は57条で司法府による、と規定されている。確かに「統治権を総覧」する天皇が「神聖不可侵」であることは帝国憲法体制を多元的にさせたが、そのような規定がなければ立権主義を維持しえなかったからである。この点では極端な議会中心主義は採用していないが、「君臨すれども統治せず」の原則は英国以上に徹底している。
第三が、天皇は英国君主と同様に「政治関与」を行っていたとみなす伊藤之雄教授の見解である。政治関与型立憲君主説ないし伊藤之雄説と呼べる。伊藤説の前提は、独自の英国憲政論への理解に基づく、天皇主権説と伝統的立憲君主説の双方への批判である。伊藤教授はバジョットなど単なる理想の表明に過ぎず、両説ともに英国憲政論を理解していないと痛烈に批判を加えている。最近では日本近代史の研究者を中心に賛同者が増加しつつある。特に、通説は「神聖不可侵」の天皇を象徴天皇と同様に「政治関与」をしない存在であると誤解しているとして批判する。
伊藤教授の提示した日英両国の憲政にとって重大な論点は、絶対多数党不在議会における首相の選任である。絶対多数党不在議会とは、単独過半数を制する政党が存在しない状態を指す。「未決定の議会」とも「革命に近い状況」とも称される、総選挙による民意が第一党党首つまり内閣総理大臣を決定できない状況である。この場合、国王の関与の比重は最も高まる。国王は通例、賢明と思われる相談者の意見を聞きながら、政界の客観情勢を判断する。これとて選挙民が民意を決定できないとの特殊な状況において、限定的に発揮されるにすぎない。総理大臣が退陣し、与党第一党の後継総裁が未決定の場合も同様である。国王は数人の有力政治家の中から後継総理を選任した。しかも戦後は保守党が党首公選制を導入するなど、君主の介入の余地は極めて少なくなっている。
このような役割は戦前日本では元老が代行した。特に大正末期から昭和初期における憲政の常道を擁護したのは西園寺公望元老である。彼は何度も絶対多数党不在議会において、適切に後継総理を奏薦した。二度の加藤高明内閣、第一次若槻内閣、田中内閣の奏薦がそれに当たる。政変に際しての後継総理選定において、天皇を含めた宮中の意思が西園寺の意思に優先した事例は無い。英国に比して、帝国憲法下の日本の君主の首相選定における役割はさらに限定的であった。もちろん、総理大臣以下文武官の任免は憲法10条において天皇大権とされたが、実際は元老制度が「神聖不可侵」条項を補完した。しばしば元老は非民主性の象徴のように指弾されるが、ある意味では英国以上に立憲主義を徹底していたと言える。
いずれにせよ、帝国憲法体制下の天皇は英国型の立憲君主であり、元老などの存在はさらに徹底させた。英国君主は三つの権利の行使により極めて限定的に「政治関与」を行ったが、日本の天皇はさらに制約が大きかった。
4、昭和天皇の「政治関与」の法制的検討
昭和天皇が立憲君主の枠外の行動をとられた例として、2.26事件での鎮圧命令と終戦の聖断をあげられる。それは田中義一内閣総辞職の際の行動を反省されたからとの理由である。政府の決定への拒否権行使は憲法体制の破壊であり、その理由から開戦の決定を裁可した。これらの歴史的事実はいわゆる天皇の戦争責任論などもあり、論争は尽きない。しかし、そのほとんどが法制的には説明が容易な事例である。一般には法制論は定着しているとは思われないので、改めて検討するのは無意義ではなかろう。
第一の事例は、昭和四年の田中内閣総辞職である。昭和3年6月4日に関東軍が独断で満洲軍閥張作霖を爆殺したが、西園寺元老が真相公開と責任者の厳重処罰を求めたのに対して、副総理格の小川平吉鉄道大臣以下与党政友会や白川義則陸軍大臣以下の陸軍は反対し、田中首相はその処理に懊悩する。最終的には、昭和4年6月28日に満洲某重大事件の処理を巡り天皇から直接叱責された田中首相は恐懼し、退陣に至った。
議論の出発点は、宮中側近による天皇の政治利用であり、最大の争点はこの時の天皇ご自身の意志と関与の度合とされる。これはそもそも君主大権の発動ではなく「警告」にすぎなかった、と流布されている。「警告」には法的拘束力はない。当時から小川鉄相などは輔弼責任を果たす為に再び説明申しあげるべきだと主張した。ただ、政治的形勢の不利は明白であり、田中は退陣を選択した。
この時、田中が辞表を提出しなければならない法的根拠は存在しない。法的拘束力が存在しない以上、天皇のお言葉は「警告権」の範疇であり、宮中側近の言動が天皇のご意志によろうがよるまいがそれは彼らの私的政治行動にすぎない。つまり政治的な契機はどうであれ、法的には首相が自ら辞めると決意したから退陣したとしか言えない。
第二の事例は、昭和11年の2.26事件である。この時、陸軍の一部部隊は政府高官と宮中の重臣を殺害した。岡田啓介首相も一時暗殺説が流れていた。陸軍首脳も、同部隊の扱いを決めかねていた。しかし、本庄繁侍従武官長や川島義之陸相の上奏に対して、即座に暴徒鎮圧を命じられた。陸軍首脳は鎮圧を逡巡するが、度重なる天皇の厳命により反乱軍鎮圧を遂行した。
同事件では岡田首相遭難により政府機能は麻痺していた。だからこそ、天皇は自らの意思を厳命できた。天皇個人の強い意思により影響力を行使できたとは言える。ただし、陸軍首脳がその厳命遂行を遅延させたように、命令権限に基づいていたかは疑問である。
第三の事例は昭和20年の敗戦の聖断である。同年8月9日、日本民族が地上に生存できるか否か、極限の状況であった。同日23時30分、宮中防空壕では御前会議が行われた。議題は連合国の降伏要求であるポツダム宣言をどのような形で受諾するか否かであった。参加者は、鈴木貫太郎首相・平沼騏一郎枢密院議長・米内光政海相・東郷茂徳外相・阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令総長の七人であった。9日11時の最高戦争指導会議でも、14時半から22時の閣議でも合意は形成されなかったが、実は御前会議の前に政府と統帥部の合意が形成されていないのが既に異例である。
阿南陸相が「国体の護持」の他に「在外軍隊の自主的撤兵」「戦争犯罪人の日本政府による処理」「保障占領の拒否」の四条件受諾案を主張し、東郷外相は「国体護持」の一条件だけに限るべきとした。四条件受諾案に対しては梅津参謀総長と豊田軍令総長が賛成したのに対し、一条件受諾案には平沼枢相と米内海相が賛成した。結果、三対三の可否同数となった。鈴木首相はあえて聖断を仰ぐという極めて異例の行動をとった。つまり、鈴木首相は自らの一票によって決着をつけなかった。これに対し天皇からは「外相案を採らる」との聖断を下された。
御前会議までに既に政府機能が麻痺し、鈴木首相が聖断を乞うたからこそ、天皇は初めて法的に強制力のある命令を発することが出来たのである。聖断とは政府機能が麻痺した中で、国家体制を維持する為の究極の決断であった。議会と裁判所は聖断に関与していないが、現実には影響力が存在しなかった。聖断に最も抵抗する可能性があったのが陸軍の一部過激派であった。現に玉音放送の録音盤を奪取しようと皇居に軍人が乱入する事件が発生したが、これは単なる犯罪である。法的に拘束力のある聖断は、麻痺した政府機能を回復させ、秩序ある降伏受諾をもたらした。予想された混乱は発生しなかった。
ここで、なぜ終戦の聖断ができたのに、開戦に際してはできなかったのかとの素朴な疑問が発せられよう。これへの法制論からの回答は容易である。開戦に際しての状況は、2.26事件や終戦とは、政府機能の存否においてまったく異なる。天皇大権と称される命令権限の全てが国務大臣の輔弼責任によって制約され、政府機能が顕在である限り天皇個人の行為の関与は儀礼的である。ただし、「警告する権利」「激励する権利」「相談を受ける権利」は認められていた。昭和天皇はあらゆる場でこの三つの権利を駆使され、平和愛好の御意思を示された。ただし、この三つの権利には軍を含む政府の決定を覆す命令権限は含まれない。
つまり、政治家・官僚・軍人達が聖意に沿う行動を採るよう求める強制力も無いし、彼らには服従の義務は無い。天皇は彼らに個人的影響力を及ぼすことはできたが、それまでであった。あらゆる手段を講じて日米開戦絶対不可避の原則を固守すべきであったとするのは今日的視点にすぎない。同時代人には未来は予測できない。対米戦敗北が必至であると証明できない以上、憲法秩序を破壊し、内乱の危険を冒すのは冒険であったと解するのが妥当である。天皇に責任を問うのは不可能である。
なお、高名な皇室評論家である河原敏明氏などは、天皇の「政治関与」は無数であったと指摘する(『天皇裕仁の昭和史』281〜284頁)。上記四例のほかに、小磯内閣での謬斌工作の拒否・張鼓峰事件での専守防衛命令・真崎参謀次長への無数の消極的拒否・5.15事件に際しての後継総理の条件・阿部内閣での陸軍大臣人選への介入をあげる。
以上に関しても法制的には、回答は容易である。判断の根拠は命令権限の有無である。どの事例においても天皇のお言葉には法的強制力は存在しない。国務大臣以下の政治家や軍人を中心とした官僚が、お言葉に従う行動を採ったか否かは、全て臣下の裁量次第である。謬斌工作の拒否は「警告権」の、張鼓峰事件での専守防衛は「警告権」ないし「激励権」の、真崎次長への裁可遅延は「警告権」の、五.一五事件であげた「ファッショに近き者は不可」云々の条件は「警告権」ないし「被諮問権」の、阿部内閣陸相人選は「警告権」ないし「被諮問権」の発動とそれぞれ解せられる。天皇の「政治関与」をどれだけ挙げようが、いずれも命令権限が存在しないので、責任は全て臣下にある。天皇の影響力をどれだけ臣下がその発言を実行したかによって測れても、責任は決して存在しない。
2.26事件や終戦に際して特長的なのは、政府機能が麻痺した際にも憲法体系が機能していた点である。帝国憲法は、政府機能つまり憲法典体系が麻痺しても、憲法体系を機能させる装置が存在していた。大日本帝国憲法の大原則は天皇神聖不可侵であるが、同時に天皇は統治権を総攬している。よって、政府機能の麻痺により前者の維持が不可能であっても、その瞬間に後者の機能の発動により政府機能を回復する方向に作用する。2.26事件でも終戦でも、速やかに政府機能も憲法秩序も回復した。それは天皇の統治権と神聖不可侵を帝国憲法が中心原則としていたからこそ可能であったと結論付けられる。
帝国憲法が、政府機能つまり憲法典体系が麻痺した状態を想定していた点こそ、再評価されるべきであろう。
5、おわりに〜課題と視座〜
帝国憲法下における天皇は立憲君主としての影響力は大きかったが、命令権限を有しない点では象徴天皇と同じである。英国君主よりも帝国憲法下の天皇は制約が大きかったのは、立憲主義の徹底と元老などの制度が理由である。象徴天皇制はさらに強力に拘束を強めた。戦後憲法学では天皇の役割を極小化する傾向が主流である。再検討が必要であろう。
特に、憲法典として現行日本国憲法は、政府機能の存在のみを前提としている点で異常と言える。有事すなわち憲法典の主体である政府の機能が麻痺した時にどうするのかを考慮するのが憲法の義務であろう。
主要参考文献
W.バジョット『英国の国家構造』(深瀬基寛訳、清水弘文堂書房、一九六七年)
A.V.ダイシー『憲法序説』(伊藤正己他訳、学陽書房、一九八三年)
立作太郎謹撰『東宮職蔵版 ヴィクトリア女王書簡集に現れたるイギリス王室の政治上及び外交上の活動』(内閣印刷局内朝陽会、一九二五年)
玉井茂『英国の議会政治』(南郊社、一九三五年)
ハロルド・J・ラスキ『イギリスの議会政治』(前田英昭訳、日本評論社、一九九〇年)
元山健、キース・D・ユーイング『イギリス憲法概説』(法律文化社、一九九九年)
ヴァーノン・ボグダナー『英国の立憲君主政』(小室輝久他訳、木鐸社、二〇〇三年)
伊藤博文『憲法義解』(宮沢俊義校注、岩波書店、一九四〇年)
吉野作造「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』大正五年一月号)
佐々木惣一『日本憲法要論』(金刺芳流堂、一九三〇年)
清水澄『逐条帝国憲法講義』(松華堂書店、一九三二年)
美濃部達吉『憲法撮要』(有斐閣、一九三二年)
鳥海靖『日本近代史講義―明治立憲制の形成とその理念』(東京大学出版会、一九八八年)
大石眞『日本憲法史〔第2版〕』(有斐閣、二〇〇五年)
滝井一博『ドイツ国家学と明治国制』(ミネルヴァ書房、一九九九年)
滝井一博『文明史の中の明治憲法』(講談社、二〇〇三年)
百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』(吉川弘文舘、一九九〇年)
永井和『近代日本の軍部と政治』(思文閣出版、一九九三年)
三谷太一郎「政党内閣の条件」(中村隆英編『近代日本研究入門 [増補版]』東京大学出版会、一九八三年)所収
三谷太一郎『近代日本の戦争と政治』(岩波書店、一九九七年)
河原敏明『天皇裕仁の昭和史』(文芸春秋、一九八三年)
升味準之輔『昭和天皇とその時代』(山川出版社、一九九八年)
ハーバート・ビックス『昭和天皇』上下(吉田裕監修、岡部牧夫他訳、講談社、二〇〇二年)
君塚直隆『イギリス二大政党制への道―後継首相決定と「長老政治家」』(有斐閣、一九九八年)
伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文―内政と外交 1889〜1898―』(吉川弘文館、一九九九年)
伊藤之雄『立憲国家と日露戦争 外交と内政 1898〜1995』(木鐸社、一九九九年)
伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』(名古屋大学出版会、二〇〇五年)
伊藤之雄他編『環太平洋の国際秩序の模索と日本』(山川出版社、一九九九年)
伊藤之雄他編『二〇世紀日本の天皇と君主制』(吉川弘文館、二〇〇四年)