Gyozan-chu 山集注釈
一、撰述と名称由来〜注釈

(1)大正蔵巻第八十四巻(No.2713)八二五頁、『魚山私鈔』として正保版(正保三年刊・高野山大学蔵本)が納められている。

(2)智生房長恵(1458〜1524)、武州の出身で高野山明王院忠義の資弟、醍醐清浄光院に住し、また鎌倉二階堂別当に任ぜられる。後、高野山に戻り往生院谷に住す。夙に声明道に精進し、三十九歳にして『魚山集』を撰述するなど南山進流声明の流布伝承に貢献される。永正十五年、無量壽院に入り大永四年十一月二日寂す。壽六十七歳、付弟には頼宣・勢遍・祐賢・空遍等がある。(高野春秋十一)『密教大辞典』(法蔵館・昭和六年)一六○一頁参照

(3)明応五年・永正十一年・十四年の各本共に今は現存しない。

(4)小野方では多く「声明集」、広沢方では多く「法則集」、または「声明集」の名称を用いる。

(5)『新義声明大典』(平間寺・大正六年)付録 新義声明伝来記・内山正如 九頁

(6)曹植(192〜232)十歳にしてすでに文章・詩・芸術に秀で、天人と称されていたという。一般には『洛神賦』が有名。『中国文化史年表』(学研)参照。

(7)この故事は『集古今仏道論衡』四巻、大正蔵第五十二巻(No.2104)三六三頁所載、唐の西明寺道宣撰述に初めて見られる。この史書は唐三代高宗の代、龍朔元年(661)に完成したもので、漢明帝より唐高宗代の約六百年間の仏教故事を拾ったものである。同巻三六五頁下参照。また、唐道世撰述『諸経要集』第四・大正蔵第五十四巻(No.2123)三十二頁下〜三十三頁上、同じく道世撰述『法苑珠林』第三十六・同第五十三巻(No.2122)五七六頁上、宋法雲撰述『翻訳名義集』第四・同第五十四巻(No.2131)一一二三頁下、宋志磐撰述『仏祖統記』第三十五・同第四十九巻(No.2035)三三一頁下、元念常撰述『仏祖歴代通載』第五・同第四十九巻(No.2036)五一五頁下、元覚岸撰述『釈氏稽古略』第一・同第四十九巻(No.2037)七七○頁下にも、同一の記事がある。したがってこの故事は、古来から中国にあってよく知られていた説話と考えられる。

(8)一説には魚山と天台山を同一とするが、円仁はどちらの地も行っていない。『密教辞典』(法蔵館・昭和五十年)六十三頁参照。また、魚山を天台山の子山とする説もあるが、天台山は当時の呉(今の浙江省)にあり、北魏にあるはずの魚山と結び付けるのは無理があるといわれている。『望月仏教大辞典』(世界聖典刊行協会・昭和八年)六二六頁参照。

(9)光静房良忍(1072〜1132)尾張知多郡出身、円仁より数えて九代、自ら目安博士を作り、また大原に来迎院を建立し功績を残す。後には融通念仏宗をなす。『望月仏教大辞典』五○一九頁参照

(10)良忍によって天仁二年(1109)に建立。大原には先の長和年間、既に寂源上人よって勝林院が建てられて声明を伝えており、併せて大原二流と呼ばれる。

(11)魚山目録二巻もしくは一巻。良忍の博士を改良整備したもので、嘉禎四年(1234)の撰述。大正蔵第八十四巻(No.2714)八百四十三頁に所載されている。

(12)「称揚讃佛の砌には、鷲峰の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響を添ふ」(太平記巻第二・南都北嶺行幸)

(13)真言声明はインドより、正所依の両部大経と共に伝承されたとし、これをもって八祖相承の伝としている。なお岩原諦信師は、その一例として『大日経』具縁品・『金剛頂経』等の文を引用している。『南山進流声明教典・解説編』(松本日進堂・昭和十三年)二頁参照

(14)「新義声明伝来記」では、『魚山タイ芥集』の題を仮題とするだけでなく、「顕家声明の招牌なることすでに明了なり。」とし、また「『魚山目録』の名を假用せん。」と著し、天台声明からの流用であることを明確に示している。『新義声明大典』・「新義声明伝来記」八・九頁参照

(15)」は《名詞》サソリ・毒虫の名、《動詞・名詞》毒虫が針で刺す。毒のある針の意味で、「蔕」は《名詞》へた・うてな・小さい棘の意。「蔕芥」は小さな棘とごみ、転じて、僅かなさし障り、小さな故障を指し示す熟語である。『漢和大辞典』(学研・昭和五十五年)一一二七頁・一一六四頁参照

(16)原本『聾瞽指帰』の用例については確認していない。

(17)『弘法大師著作全集』(山喜房・昭和四十八年)第三巻 三四頁参照

(18)『弘法大師著作全集』 第三巻 二六四頁参照

二、現存する寫本について〜注釈

(19)『密教大辞典』三一四頁参照

(20)岩原諦信師は、同時に別種書写の金剛三昧院蔵寫本を揚げているが、その詳細が付記されていないため、これが別に存在するのか、また天文四年の寫本なのか、資料が乏しいため判別ができない。『南山進流声明教典・解説編』四七頁参照

(21)
順良房朝意(1518〜1599)大和添上郡の出身、高野山の学僧で木食上人とも称される。光台院内真善院に住し、長惠の弟子二階堂勢遍にしたがって声明を受ける。この他、『秘蔵記五音八家秘曲』・『朝意口伝書』・『講勤集』等の著作がある。慶長四年十月十九日、八十二歳で入寂。『密教大辞典』一六○一頁参照

(22)この二本の存否は不詳であるが、明応版とは長惠の原本を指すものか。また、『密教大辞典』によれば、天文版は天文十年開版の暁善による声明集を指すものと見ている。『密教大辞典』三一四頁参照

、江戸期の刊行本について〜注釈



(23)『密教大辞典』三一四頁参照

(24)前年の正保二年に、すでに刊行されていたともいわれるが、現存のものは確認されていない。『南山進流声明教典・解説編』四八頁参照

(25)頼正(〜1673)智山の学僧。専音房とも仙音房ともいう。薩摩出身で智積院第三臈席につく。京都六波羅蜜寺第十世、江州神照寺・無量寿院・因幡堂薬王院にも住す。後、薩摩に帰錫して延宝元年八月二十七日寂す。

(26)『新義声明大典』「新義声明伝来記」六頁参照

(27)『南山進流声明教典・解説編』四九頁参照

(27a)眞源(1689〜1758)南山聲明家。摂津丹生の生まれで、高野山一乗院に住し、宝蓮院阿潤・日光院英仙に事相を学ぶ。理峰・飲光と交友し、享保十六年に郷里に福王寺を再興、寛延元年(1748)遍照光院快雄の寂後、成蓮院に住し、密教聖典の開版に尽力、特に聲明の普及を念願して聲明集・悉曇蔵などの校訂に寄与、密宗聲明系譜・乞戒声明事・後七日拝見記などの著作がある。宝暦八年六月十九日寂。
『密教辞典』四○六頁参照

(28)蘊善(生寂年不詳)。高野山声明家で清雅堂と号し、天台大原流にも通じていた。浄雲院・西蓮院・報恩院を歴住す。声明の開版流布に努め、この他、『修正會法則』・『釈迦念仏』・『音律開合』等を刊行した。また大原伽陀私譜等の著作も現存する。『密教大辞典』一三四頁参照

(29)『南山進流声明教典・解説編』五○頁参照

(30)『密教大辞典』三一四頁参照

(31)智山の正徳版の巻頭に付された文に対し、南山の寛保版は批判を加えるなど、双方の間に隔たりがあったことが窺われる。詳しくは、『新義声明大典』「新義声明伝来記」七頁・八頁参照

明治以後の沿革〜注釈

(32)葦原寂照(1833〜1913)岡山県出身、事教に通じ、嘉永五年には南山進流三箇の秘韻を伝承する。岡山東雲院寺住を初めに性徳院、大阪太融寺、醍醐金剛王院・報恩院、高雄神護寺を歴住し、明治三十八年には真言宗各派聨合大学林事相声明阿闍梨、事相・声明の達匠といれ、多くの著作がある。大正二年二月十九日、八十一歳で寂す。追贈大僧正。『密教大辞典』一○四八頁参照

(33)宮野宥智編(松本日進堂・昭和五年)

(34)瑜伽教如(1847〜1928)新潟県北蒲原郡乙村出身、晋詮・音詮両師に従って声明を極め新義声明を中興する。初め乙宝寺住職、明治三十二年智山能化、翌年智山派独立最初の管長に就任する。昭和十二年二十日、八十二歳で大報恩寺(千本釈迦堂)に寂すまで、声明の教化につくす。『密教大辞典』三○五頁参照
(35)内山正如編(平間寺出版部・大正六年)

(36)『密教大辞典』三一四頁参照

(37)『南山進流声明教典・解説編』五○頁参照

(38)  同 五一頁参照

(39)隆英房寛光(1736〜1822以後)讃岐多度の出身。高野山に登り事相に通じ、普門院廉峰に師事して声明の秘曲を皆伝しその印可を蒙る。寛政十一年高野山東南院の寺住となる。近世声明の達匠で徒三千といいその著作も多く、『魚山私鈔略解』四巻(三巻、二巻ともいわれている。)、そして寛政元年撰述の『魚山集仮譜』一巻があり後の南山進流仮譜の規範となったといわれる。つまり後の葦原寂照はこの仮譜を訂したといわれ、現在の進流仮譜の原点は寛光に遡るとされることによる。『密教大辞典』三一四頁・三九二頁参照

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