道教と仙学 第2章

 

 

5、隋・唐・五代の道教の繁栄と国教化

 

 

 隋・唐の時代は、中国の封建社会が最も栄えた時代である。唐朝の時代は、その国力は強大で、思想については開放的だった。その国土は広大で、アジアの経済文化の中心となり、世界の多くの国々と文化や貿易の交流があった。唐代には経済・科学・文化がどんどん発達し、平等な民族政策を採っていた。儒教・道教・仏教の三教は盛んになり、教(拝火教ともいう。ペルシアから伝来したゾロアスター教)・景教(唐代に伝来したキリスト教ネストリウス派)・摩尼教(明教、イランの宗教)・回教(大食国[サラセン]から伝来したイスラム教)といった宗教も中国に伝わり、朝廷の支持のもとで自由に布教した。このような社会環境だったので道教も当然のように盛んになっていった。一方、唐代は中国の歴史の中では珍しく豊かな時代で外国に対しても開放的だったが、中国の封建宗法制という社会伝統は変わらなかった。君権専制社会では政治が最優先され、国家政権は常に科学・文化(哲学や宗教を含む)・芸術の発展に干渉する。政権の支持を失えば、その宗教は社会に布教するための政治的・経済的な条件が獲得できなかった。だから、中国で布教しようとする宗教家は、民衆だけでなく、まず君主に伺いを立てて君主の支持を求めなければならなかった。南北朝の時代の有名な仏教徒の道安などはこのような特徴を見抜いていた。「今凶年に遭い、国主によらなければ、法事を行うことは難しい。また教化の体は、よく広く宣布させるべきである」(《高僧伝》)と彼は言っている。仏教を中国に根付かせ広く流布させるために、道安は弟子たちを派遣し、南北朝の君主が仏教を採用するように説いて回らせた。隋・唐・五代の時代には、道士たちも道教を広めるために君主の支持を得ることに尽力した。その結果、道教は君主の支持を獲得し、国教となることになった。中国の歴史の中では、ある宗教がある政権の支持を得て国教となることは、社会的歴史的に影響力を持つ有力な宗教に発展するための条件である。道教は唐代に国教となったことで、中国の政治・経済・文化の要素の一つになり、歴代の皇帝もその存在を軽視することができなくなった。唐代の道教は、組織と道階制度の規格化、道教経典の整理、道教哲学と教義の深化、科儀や経戒法を授受する手順の完成、さまざまな修練方術の急速な発展、道教文学芸術のレベルの向上などがどんどん進んでいった。これらが著しく進行した隋・唐・五代の時代は道教の歴史において重要な時期である。

 

 (1) 隋・唐・五代の道教と政治の関係

 周の武帝宇文は仏教を弾圧し道教を盛んにしようとし、道士の張賓・焦子順はそれを手助けした。周の武帝が死ぬと、張賓と焦子順は、やがて国家が変わり楊堅が天子の位に就くことを予知し、楊堅に符命[天子になるという天の命令]を密かに告げて彼が天子になることを予言した。隋の文帝楊堅は即位すると、道教経典の中の「開皇」を年号として採用し、引き続き道教を盛んにし、楼観派の道士の王延・厳達・焦子順・呂師・孫昂・孟静素・仇岳などのために宮観を建てた。楊堅は幼いとき尼の智仙に育てられたので、自ら「私は仏法から興った」と称していた。だから、隋のはじめには、三教の順位は仏教が先、道教が次、儒教が末と定められた。のちにさらに仏・道・鬼神を信奉し、開皇二十年(600年)には仏像や道像を殷賑にすることを禁じたが、「沙門の仏像を壊し、道士の天尊を壊した者は、悪逆をもってあげつらった」(《隋書・高帝紀》)。隋の煬帝楊広は道士の徐則や上清派茅山の道士王遠知を敬い、金丹仙薬も信じていた。隋末には勢力のある者が次々に起って中原に鹿を追い、道士たちは群雄の中から未来の帝王を予測した。「楊氏が滅び、李氏が興ろうとしている」、「天道は改まり、老君の子孫が世を治めようとしている」といった道教の予言が当時の社会に広まり、社会の動乱をあおりたてた。農民反乱軍の指導者李密・李軌などは自分が予言された帝王であると宣言した。しかし、著名な道士の多くは、予言された帝王は李淵と李世民のことであり、彼らは老君の子孫なので、天子になると道教を盛んにするだろうと言った。道士の張賓・焦子順は隋朝の大勢はすでに去ったと見ると、「天子になるだろう」と李淵に語った。茅山の道士王遠知も李淵に符命を密かに伝え、秦王李世民が「太平天子」になるだろうと予言した。隋の大業十三年(617年)、李淵は晋陽(今の山西省太原の西南)で兵を起こすと、楼観派の指導者の岐暉は財貨や食糧によってその軍隊を助けた。李淵の軍隊が蒲津関に至ると、岐暉は李淵に「必ず四方を平定する」と予言したので、李淵は岐暉の名を「平定」と改めさせた。また、80人余りの道士を関に向かわせて援助させたので、霍山の神が太上老君の命令によって唐軍を助けて勝利を収めさせたという伝説まで作られた。岐平定はもともと通道観の法師の蘇道標の弟子で、三洞経法を受けていた。言い伝えによると、彼は大業七年(611年)に隋の煬帝が遼東へ行った時、「天道は改まろうとしている」と予言していた。著名な医学家でもあった道士の孫思も隋のはじめに「五十年が過ぎると、聖人が現れるだろう」と予言していた。著名な占験派の道士李淳風も、大業十三年(617年)に終南山に老君が現れたと称し、「唐公が天命を受けるだろう」と言った。李唐の建国後、太上老君が唐帝の祖先であると称し、太上老君が羊角山などの地に現れたという政治神話はさらに多くなった。唐朝の王室は公然と老子を「聖祖」として尊び、自ら老子の子孫であると称した。そのようにした理由の一つは、符命という予言を借りて李氏が帝を名乗ることの合理性を論証するためであり、政権を神聖化しようとしたのである。もう一つの理由としては、士族の門弟を重んじる社会環境だったので、老子の名声と人望にあやかり帝王の宗族の社会的地位を吊り上げようとしたのである。唐の高祖は老君が現れた羊角山などの地に宮観や老君廟を建て、道教を育成することに力を貸した。また、親しく楼観に出向き、「朕の遠い祖先が、親しくここに降りて来てきたのに、国家の主である朕が、それを盛んにしないでいられるだろうか」と述べ、楼観を宗聖観と改めさせて米・絹織物・田地を与え、岐平定など功のあった道士たちを封じた。武徳八年(625年)、国内を完全に統一すると、唐の高祖は道教が先、儒教が次、仏教が末という三教の順位を確定して道教を尊ぶ国策を宣布した。武徳九年(626年)の「玄武門の変」では、法琳をはじめとする仏教徒が太子の李建成を支持し、王遠智をはじめとする道教徒が秦王の李世民を支持した。その結果、李世民が建成を殺して帝を称し唐の太宗となった。唐の太宗は貞観十一年(637年)に仏教と道教の優劣を定めるために双方に議論をさせ、引き続き道教を推奨して仏教を抑圧する政策を宣布した。唐の高宗の時には、皇帝が自ら亳州に太上老君廟を謁し、老子を「太上玄元皇帝」に封じた。また、高宗は《道徳経》を上経とすることを命じ、百官や貢挙人にこれを習わせ、道士を皇帝の宗族が管理する宗正寺に従属するようにし、道教にてこ入れした。

 道教は道士や帝王によって朝廷という戦車に結び付けられてしまったので、唐朝の政治とその命運を共にしなければならなかった。北周が仏教と道教を弾圧する政策をとったのとは反対に、隋は仏教と道教を推奨し、仏教・道教の信徒の支持を得た。しかし、仏教は多くの信徒が得度して僧や尼になり、民衆から取り立てる財貨の量も道教とは比べものにならなかった。仏教は大きくなりすぎて必然的に国と利を争い国家を損なった。唐の高祖や太宗が道教を奨励し仏教を抑圧したのは、実は道教の力を借りて仏教の悪性的な発展を制限しようとしたものであり、そうした政策が政治的に必要だったのである。唐のはじめの仏教と道教の争いは非常に激しかった。太史令傳奕は唐の国が開かれた時に《廃省仏僧表》を書き、仏教を弾圧するべきであるという見解を示した。僧の法琳は《弁正論》を著して道教をけなした。僧の智実は道教が上位で仏教が下位に置かれたことに反対し、そのために朝廷に罰せられた。当時の仏教と道教の争いでは、皇帝だけが道教を上位に置き仏教を下位に置くことを主張したのではなく、孔穎達などの儒学者も道教を支持していたので、道教の方が明らかに優勢だった。武則天の周が唐に代わると、唐の宗室の政治的な影響力を弱めるために、老子をけなし、仏教を奨励して道教を抑圧し、自らも弥勒仏の生まれ変わりであると称した。仏教を上位に置き道教を下位に置くことを定めると、仏教は再び度を超えて勢力を増していった。唐の玄宗が政治を執ると、仏教を奨励して道教を抑圧するという李唐王朝を損ないかねない武則天や韋后の政策を改め、再び道教を奨励し仏教を抑圧する政策を採用した。これによって、唐代の道教の発展はピークに達した。安史の乱が起こり唐朝が衰えると道教も衰えていった。このことからも、道教と唐代の政治の関係がよくわかる。

 唐の玄宗は道教が儒教や仏教の上位にあるという詔を下し、老子が孔子や釈迦牟尼より上位であると規定し、仏教の発展を制限した。またさらに老子に尊号も送った。彼自身も《道徳経》を注釈し、士族や庶民に習わせた。また全国の州都に玄元皇帝廟を建てて老子像を描き、老子を祭ることを命じた。さらに荘子を南華真人、文子を通玄真人、列子を冲虚真人、庚桑子を洞霊真人に封じ、四子の書をすべて真経と呼ぶように改めた。同時に崇虚館も設けて「四子真経」を研究する課程を開き、貢挙人[州都から中央政府に選抜された人]には老子についても試験し、「道挙」制度を打ち立てた。彼自身も道士から法を受け、司馬承禎・王希夷・張果・李含光・呉などの著名な道士を呼び寄せて面会し、道教を奨励するさまざまな法令を発布した。また、道教経典も系統立てて編集させ、仏教に倣って《一切道蔵》と呼ばれた。これは《道蔵》の編集の始まりとなった。唐の玄宗は道教の文学芸術の発展にも努力し、彼自身も道教音楽を作り、煉丹・斎などの宗教活動を提唱して、道教を大いに発展させた。唐代の公主が出家して女冠になり、朝廷内の賀知章などの大臣が道士になったことは、道士・女冠の社会的な地位がかなり高かったことを物語っている。唐代の道教は老子を祭祀することが中心で、老子による多くの奇跡的な神話が社会に伝わった。これは唐の人々に修道求仙の意識を植え付け、李白・杜甫・白居易などの詩人の詩にもそのことが反映されている。道教は唐代に全盛期を迎えたのである。


唐の玄宗
(《歴代皇帝人物事典》より)

「開元の治」と呼ばれる善政を行い、晩年には楊貴妃を寵愛したことは有名である。
一方で、彼は道教を大いに振興し、自らも《老子》の注釈書を著し、道教音楽を作った。

 唐代後期の皇帝もほとんどが道教を奨励して老子を奉じ、金丹を服用した。唐の僖宗の時には、黄巣の乱のために僖宗は成都へ逃れたが、相変わらず太上老君が青羊宮に現れたという奇談が作られた。特に、会昌四年(844年)から会昌五年(845年)にかけての唐の武帝による仏教の弾圧は重要である。この時には、4600カ所あまりの寺廟が取り壊され、26万人以上の僧や尼が還俗させられ、数千万頃の田地が没収され、15万人の奴婢が没収されて両税戸となった。これによって、仏教は一挙に不振に陥った。

 五代の時期、梁の太祖朱全忠が唐を滅ぼすと老子の地位は低くなったが、後唐の荘宗李存勗が即位すると再び老子と道教が崇められた。後周の世宗柴栄は英明な君主で、即位すると道教を奨励して仏教を弾圧した。彼は2649カ所を残して30336カ所の仏教寺院を廃止し、銅の仏像で銭を鋳造した。魏の太武帝・周の武帝・唐の武宗・周の世宗による歴史上の仏教弾圧を、仏教では「三武一宗の法難」と呼んでいる。確かにこれらの皇帝は道教を好んではいたが、実際にはほとんどが国家の経済的・政治的な理由から仏教を弾圧した。

 五代十国にも、君主に崇められた道士は少なくなかった。たとえば、周の世宗は華山の道士陳搏を敬っていたし、前蜀の王建は道士の杜光庭を重用し、呉王の楊行は密かに道士の聶師道を崇めていた。また、呉越の王の銭鏐は閭丘方遠を訪ね、燕の君主の劉守光は道士の劉海蟾を宰相にした。そのほか、譚峭も五代の時の優れた道士である。

 

 (2) 重要な道派と道教学者

 唐代の道教は二つの流れを受け継いでいた。その一つは魏・晋の神仙道教の伝統を継承したもので、もう一つは魏・晋の天師道の流れが変化したものである。方仙道の伝統を継承する神仙道教の流派には、外丹黄白術に従事する金丹派の道士とさまざまな呼吸法や薬物を服して養生する煉養派の道士がいた。上清派・霊宝派・正一派などの経派の道教は、魏・晋の天師道が神仙道教の影響を受けて変化したものである。経派の道教は、陸修静による整理を経て、唐代にも盛んに伝わり、宋代以後は正一派天師道に統一された。また、かっての楼観派(唐のはじめに楼観から宗聖観に改められた)の道士は終南山を中心として終南山道団を形成し、老子や関尹子を規範として《老子》・《荘子》を習っていた。これは実質的には神仙道教と経派道教の融合したものである。隋・唐の時代には道観が全国の名山や都市のあちこちにあったが、茅山と終南山が特に際立っていた。道教では流派は重視せず、道教内の階級を重んじ、陸修静が統一した経派の伝統を受け継ぎ、道士は出家すると、まず初真戒を受けた。経派の中では正一派が最も下位に置かれ、順番に、三皇派・高玄派(《道徳経》・《老子西昇経》などを授ける)・昇玄派(《昇玄内教経》を授ける)・霊宝派・上清派となっていた。その中の上清派は経道教の中で最も階級の高い流派であり、茅山を本山とし、師弟間の授受も明確で優れた道士を輩出した。この流派は隋・唐・五代の時代には最も影響力のある流派だった。陶弘景からの伝承は次の通りである。

@陶弘景
  ↓
A臧矜
  ↓
B王遠知
  ├────┐
  ↓    ↓
C藩師正   王軌
  ├────┐
  ↓    ↓
D司馬承禎  呉
  ├────┐
  ↓    ↓
E李含光  薜季昌
  ├────┐
  ↓    ↓
F韋景昭   孟湛然
  ↓
G黄洞元
  ↓
H孫智清
  ↓
I呉法通
  ↓
J 劉得常
  ↓
K 王栖霞
  ↓
L成延昭
  ↓
M蒋元吉
  ↓
N万保冲
  ↓
O朱自英
  │

 そのほか、司馬承禎は衡山・天台山の一派にも伝えた。

司馬承禎
 ↓
薜季昌
 ↓
田虚応
 ├─────────┬────┐
 ↓         ↓    ↓
馮惟良       徐霊府   陳寡言
 ├────┐    │    │
 ↓    ↓    ↓    ↓
応夷節  葉蔵質  左元沢   劉介
 │    └────┼────┘
 ↓         ↓
杜光庭       閭丘方遠
           ↓
          聶師道など
           ↓
          王栖霞など

 

 藩師正(585〜682年)は王遠知に師事して崇山に住み、唐の高宗や武則天に敬われた。司馬承禎(647〜735年)は唐の玄宗の時の著名な道士で、字を子微といい、天台山に住んでいた。陳子昂・李白・孟浩然・宋之問・王維・賀知章などと交遊があり、非常に道教の修行を積んでいて、《坐忘論》・《天隠子》・《服気精義論》・《道体論》などを著した。彼の学識は老子・荘子に精通し、また禅法と融合させたが、これは内丹仙学の理論的な準備となった。呉(?〜778年)はもともとは儒生だったが、崇山に入って藩師正に師事し、上清経法を伝えられ、《玄綱論》・《神仙可学論》・《形神可固論》・《心目論》を著した。これらは、仙道の理と養性の術を述べた道教哲学の重要な著作である。李含光(683〜769年)は上清経法を編集し、唐の玄宗に上清経を授け、《仙学伝記》・《周易義略》・《老荘学記》などを著した。

 また、太極左仙公葛玄が《霊宝経》を伝えたことは、葛洪も詳しく記していないが、これが唐代になって盛んに伝わりはじめた。これは、太上老君が葛玄に《霊宝経》と太極祭煉三 七品斎法を授けたと称して閤福地に広まった。閤山霊宝派は唐代になって起こった流派である。昇玄派は霊宝派の支派である。

 張魯の甥の張盛(あるいは張魯の子であるとも言われる)が江西の竜虎山に住んで天師道を伝えてから、魏・晋・南北朝の時代の正一派の経過ははっきりしない(*1)。唐の玄宗の時には太清観の道士張万福が三洞経戒法を整理し、正一法門の符の佩帯・伝授・法の品位を体系だて、経戒の内容と授受の手順も変革して、民衆に大きな影響を与えた。張天師の正一派は符咒術に重きを置き、斎祭煉・消災除病の法を行い、教外の男女も弟子として受け入れたので、民間の経派道教の主要な流派となった。五代の時になると、杜光庭が《道門科範大全》を著し、閭丘方遠が《太平経》を注釈して正一派道教の発展を更に促した。唐代の上清・霊宝・正一の三派の中で、上清派は社会の上層に伝播し、正一派は主に民間に伝播した。

 楼観派の道教教団は首都長安の近くの終南山にあり、また、李唐王朝が政治的な必要性から祖先と考えていた老子や無上真人尹喜を奉じていたので、非常に栄えた。よく知られているように、隋・唐の道士は《老子》や《荘子》ばかりを講じ、三洞経戒科儀については雑だった。終南山の宗聖観の道教教団は、高玄派に似た経戒を伝えていた。王延や厳達は周・隋の時の著名な道士である。唐代の終南山の楼観の道士には岐暉・巨国珍・田仕文・尹文操などがいた。尹文操は唐の高宗の時の道士で、太上老君の奇談を作ることにも参与し、また《玄元皇帝聖紀》を編集した。唐の玄宗の時、楼観山の谷間で太上老君の玉像が見つかり、めでたいことであるということで、楼観に碑を立ててそのことを記した。楼観終南の道教教団は唐・宋の時代にも存続していたが、金代になると戦禍に遭って焼け崩れてしまった。しかし、元のはじめに全真教の尹志平が祖宮を訪れ、道士の李志柔に楼観を修復することを委託し、全真道に編入された。

 唐代の経道教には洞淵派も伝わっていた。洞淵派は、晋末に馬跡山の道士王簒が《洞淵神咒経》を伝えていて、唐代には韋善俊・葉法善・尹憚などの道士が洞淵派を伝えた。洞淵道士が受ける洞淵三昧法は、上は飛天の魔を避けることができ、中は五気を治めることができ、下は多くの妖怪を絶っことができた。葉法善(616〜720年)は摂養・占卜の術を身につけていて、符の扱いに優れ、祭では鬼神を払いその罪状を暴くことができた。彼は百歳を越える長寿を保ち、朝廷から非常に礼遇された。

 そのほか唐代には北帝派があった。道士の紫陽が天蓬咒を唱えていると、北帝がそれに心を動かされ剣法を授けた。彼は唐の玄宗に重んじられ、教えをその子の徳成に伝えた。のちには延康・黄洞元・瞿童・何元通などがその術を伝えた。北帝派は上清の別派であり、《北帝経》を伝え、邪を避け禍をはらった。

 唐代の道教の経派は優れた人材が多かった。王玄覧は《玄珠録》を著し、李筌は《陰符経》を伝え、《太白陰経》を著した。張志和は《玄真子》を著し、譚峭は《化書》などを著した。これらはどれも道教の歴史に於いて重要な著作である。

 唐代の道教は経派以外にも、神仙道教が積極的に活動していた。金丹派・煉養派・占験派はどれもピークにまで発展した。唐以前の金丹派道教は、《黄帝九鼎神丹経》や《太清金液神丹経》を奉じて薬物には隠語を用いたが、《周易参同契》の陰陽・五行・四象・八卦・竜虎・鉛汞などの術語は用いていなかった。神仙道教は唐代には内丹と外丹が併走し、どちらも《参同契》を丹経の祖とし、その中で用いられていた陰陽八卦竜虎鉛汞の説を取り入れた。唐代には外丹や黄白術も盛んで、それに用いた薬物と作られた金丹の名称が梅彪の《石薬尓雅》に記述されている。唐代の神仙道教の金丹派は《参同契》を重視したが、《参同契》の丹法に対する理解は一様ではなかったので多くの流派に分派した。硫黄と水銀で《参同契》を解釈する道士は硫黄と水銀を反応させて硫化水銀(HgS)を作り、鉛と水銀で《参同契》を解釈する道士は酸化水銀(HgO)と酸化鉛(PbO)の混合物を作った。当時の皇帝に寵愛された柳泌・趙帰真などの道士は、硫黄と水銀に解釈していた。《列仙譚霊》は、「趙帰真は奥深い元機を探り、鉛で水銀を制し、これを見て敬意を払わない者はなかった」と述べている。韓愈の《故太学博士李君墓志銘》には柳泌の丹法について、「その法は鉛を鼎に満たし、中を押して空にし、水銀を詰め、ふたをして4カ所に封をし、焼いて丹砂にした」と述べている。これは《参同契》を字面だけを見て曲解した丹法である。これによって生成した水銀と鉛の酸化物には強い毒性があり、唐の歴代の帝を中毒死させた。唐の太宗李世民の場合、秦の始皇帝や漢の武帝が仙薬を求めたことを虚妄であるとして非難していたが、のちに異国の僧の薬を服用して死んだ。唐の憲宗もはじめは丹薬に懐疑的だったが、のちに柳泌の丹薬を飲んで病気になった。その子の唐の穆宗は柳泌を処刑したが、間もなくまた丹薬を服用した。敬宗や武宗も丹薬を飲み、道士の趙帰真の斎の術を信じたので、天寿を全うしなかった。唐の宣宗は趙帰真を処刑し、「少翁・奕大がまた生まれてきても、惑わされることはない」と言っていたが、結局は丹薬を飲んで中毒死した。唐代の宮庭煉丹師(供奉山人)が作った鉛や水銀による丹薬にはどのような成分が含まれていて、生命を危うくしてまで唐の歴代の皇帝にそれを飲ませたのだろうか。これらの宮庭の金丹の性質を考察すると、だいたいは催淫作用をもつ春薬で、鉛・水銀・ヒ素の酸化物が含まれている。鉛・水銀・ヒ素が人体に入ると慢性中毒を起こし毛細血管が拡張し軽い炎症を起こし、催淫の作用もある。金丹を服した者の多くは、陽物がいきり立ち、女性の扱いがうまくなり、非常に壮健になったようで快く感じる。だから、唐の皇帝は聡明な人が多かったが、金丹を毒薬と気づかずに飲んだのである。まとめてみると、唐代の金丹は3つに大別できる。一つ目は硫化物で、天然の丹砂や人工的に合成した硫化水銀を用いた。これには鎮静健脳の作用があり、硫汞説の一派に属していた。二つ目は鉛・水銀・ヒ素の酸化物で、これは非常に有毒だった。これは鉛汞説の一派に属していた。三つ目は水銀の塩化物で、これも唐代の丹薬の一つだった。道士の陳少微や張果は、丹砂(HgS)を錬成して服用することを述べた著作を世に伝えた。張果は中条山(今の山西省の西南部にある)の道士で、変化不測の法術があった。彼は《陰符経玄解》を著し、また《気訣》・《神仙得道霊薬経》・《丹砂訣》を書いて唐の玄宗に献じた。唐の玄宗は彼に玉真公主を嫁にやろうと思ったが彼は大笑いしてそれを断り、その後、辞して恒山へ帰った。張果老は後世に伝わった八仙の一人である。

 神仙道教の煉養派は、主にさまざまな呼吸法を修練した。唐代にも現代のいわゆる「気功熱」のようなものがあり、当時すでに内丹術も生まれていた。さまざまな流派の呼吸法が存在し(《雲笈七籤》の中の諸家の呼吸法は、ほとんどが唐代の書である)、導引・行気・服気・存思・按摩・房中術を組み合わせて生を養って寿命を延ばそうとした。煉養派の道士は行気・導引のほか、医術にも通じた者が多かった。有名な医薬学家の孫思(541〜682年)は養生長寿の術に精通し、《千金要方》・《千金翼方》・《摂養枕中方》・《福禄論》・《保生銘》・《存神煉気銘》などを著したが、一方で《老子》・《荘子》も注釈した。彼は後世に「薬王」として尊ばれ、その影響は非常に大きい。唐末五代の時代には、道教に内丹派が起こり、鍾離権・呂洞賓・陳搏・劉操・施肩吾・彭暁などの著名な道士が内丹仙学を伝えた(これについては仙学の章で詳しく述べる)。


「薬王」と呼ばれた医薬学家の孫思
(《中国道教気功養生大全》より)

彼は若い時から老荘をはじめ諸家の説に通じていたが、仏典も好んで読んだという。彼の著した医書は後世の医学に大きな影響を与えた。

   
「睡仙」と呼ばれた陳搏
(《中国道教気功養生大全》より)

彼は北宋の太宗などにも厚く信頼され「希夷先生」の号を賜ったりしたが、官位に就くことはなかった。《周易》を研究し、《無極図》などを作り、宋代の理学に多大な影響を与えた。また、彼は睡功を極め、眠り出したら百日以上も眠りつづけたといわれる。

 唐代の神仙道教の占験派は、漢・魏の術数学の伝統を継承し大きく発展した。李淳風は太史令だったが、天文・歴算・陰陽の学に精通し、時候の吉凶を占うと、まるで割り符が合致するようによく当たった。彼は《乙巳占》を世に伝えた。歴史書によると、袁天は相術に精通し、隋・唐の時に名を知られ、当たらないことは言わなかった。李虚中は人間の生まれた年月の干支によってその人の貴賎寿夭を推し量ったが、百のうち一つもはずれることはなく、韓愈もそのことを《墓志銘》に記している。五代の時代の徐子平は四柱推命術によって推断演繹したが、これは宋・明以降の朝野の文人が多く習ったので、算命術の正統派になった。唐代の道教の術数の書は、後世に対する影響が非常に大きい。国家政治の命運を予言した讖書《推背図》は李淳風・袁天の名を借りた著作である。しかし、それはどうか疑わしい。

 

 (3) 隋・唐・五代の道教の特徴

 唐代に中国の国教となった道教は、国家の上部構造に溶け込んで国家機関の有機的成分となった。隋・唐の道教は経戒法の伝授制度・科律・斎儀式が整い、教会式宮観道教の特質を備えた。「重玄」哲学の流行は道教の哲学を向上させ、道教経典の編集と道教の文学芸術の発展は道教の宗教性を向上させた。また、南北朝から唐代にかけて、貴族の女子が出家・入道するようになったことは注目すべき社会現象である。中唐の時の楊貴妃は入道して太真と号し、宮廷の女性が道士になる気風を作った。中唐の世の朝廷や在野の学者が女道士と詩を読むことが文学作品の題材になり、唐代の道教にロマンチックな雰囲気を醸し出した。

 1、隋・唐の道教の主な特徴は、完全な教会式の宮観道教になったことである。《一切道経音義妙門由起》によると、唐代の道教の道士には7つの階層があった。一つ目の天真道士は、自然と体を合して内外が清浄である。二つ目の神仙道士は、変化は不測で凡人の世界を超えている。三つ目の幽逸道士は、光を含み輝きを隠し、世の中のかかわりあいに捕らわれない。四つ目の山居道士は、ひっそり隠れ住んで仁や智が自ずと安らいでいる。五つ目の出家道士は、諸々の愛欲を捨て、ごみごみしたところから脱している。六つ目の在家道士は、世俗に没入しながら自己を顕示せず、道と徳を抱いている。七つ目の祭酒道士は、凡人の下にへりくだりながら人々を救う。《三洞奉道科誡》では幽逸道士と山居道士を一つにまとめて六階としている。実際のところ、本当に優れた古代の道士は、ほとんどが世俗を超越し、姓を隠し名を埋めた隠者である。彼らは権力や地位に捕らわれず、また不可思議なことを行って人を惑わせることもないので、歴史にはっきり現れることはない。道教の伝記は奇談を誇張し、道士を神仙と混同し、年月もはっきりせず、真偽の論争もないので、かえって道教の史実をあやふやにしている。古来、深い山や野や林に隠れ住んだ優れた道士は幾千人か知れないが、不幸にも世の人々はそれを知ることができない。逆に、ささいな術によって帝王に謁し後世に恥を残す者は、道教の歴史でははっきりしていて、その事跡も人と神を混同している。これは、道教の古い伝記の大きな弊害である。隋・唐の時代には、中国は一つの国家に統一されていたので、宗教も次第に一つに統一されていった。陸修静が融合した経道派の伝統を受け継いだ唐代の道教は、各流派の間に壁はなかったが、道階という厳格な階級制度があった。それぞれの流派の中でも伝授する経戒法の品位によって道階の順位や職務の名称を区分した。経道教の各流派にも順位に違いがあったが、全国の流派と道士の順位は統一されていった。道教の初学者は、男は生弟子と呼ばれ、女は南生弟子と呼ばれた(君・南岳魏夫人という意味がもとになっていて、上清家法に属する)。既婚者の夫は清真弟子になり、妻は清信弟子になった。初真戒を授かった者は、太上初真弟子と言い、白簡道士と呼ばれた。それから正一盟威法と経戒を受けると、正一盟威弟子になり、人のために上章斎を行うことができた。それぞれの流派によって、授かる経戒法の品位が異なるので道階の高さも違っていた。たとえば正一派には弟子・真人・法師の道階があった。正一派からさらに洞神法を受けると,太上洞神法師と称した。洞神経戒をきちんと修めると高玄法を授けられ、太上紫虚高玄弟子・高玄法師と称して《道徳経》や《老子西昇経》を修習した。高玄部から昇玄法を授かると霊宝昇玄内教弟子と呼ばれた。昇玄部からさらに太上霊宝洞玄弟子・無上洞玄法師へと階級を昇る。その後さらに洞真法師・三洞法師・大洞法師とどんどん昇っていくと、道教で最高の法師の地位に到達した。洞淵道士は三昧法師と称し、洞淵三昧法を行った。北帝太玄道士は上清北帝太玄弟子と称し、北帝を授かった。隋・唐の各派の道士は修行の程度が違うと職務の名称も異なり、弟子・真人・法師・威儀師・律師・煉師などの呼び方があった。そのほか、隋朝が設けた玄都観では道教の教義を整理して《玄門大義》を編集し、唐の玄宗は《一切道経》を編集させた。これらは道教の歴史上で重要な業績である。

 2、隋・唐・五代の時代には、道教哲学は発展・深化した。この時代は、人材が豊富だったが、朝廷にはそれを受け入れる力がなかった。しかし一方で、道教は非常に盛んだったので、后妃や公主は出家・入道し、宦官や王公は観に住み、身分の高い人は山林に隠居し、才能のある人は仙道を修行することが当時の風潮だった。唐末・五代は動乱が続いたので、才能のある人で世を避ける者はさらに多くなった。このことは道教の理論の発展を促すことになった。唐朝は老子を尊んでいたので多くの学士が《老子》・《荘子》を注釈したが、道士で《老子》を注釈したのはわずかに三十家ほどだった。これは唐代の道教哲学を老荘に回帰させていった。唐代の道教は老子を崇めてばかりいたが、やはり元始天尊が至上神だった。道士たちは経典や文献の修習と経戒の伝承を特に重視し、戒を尊び修行すれば福が得られると考えていた。この時代のこのような観念は、方術によって長生を求める魏・晋の道士とは異なっている。道士たちが講じた経典は主に《老子》で、《荘子》・《霊宝経》・《昇玄内教経》などは二の次だった。「重玄」哲学の起こりは、当時の道教哲学が発展・深化したしるしである。《老子》を「重玄」によってはじめて注釈したのは、魏の隠者孫登である。それ以後、梁の道士の孟智周・臧矜、陳の道士の諸柔、隋の道士の劉進喜、唐の道士の成玄英・蔡子晃・黄玄頤・李栄・車玄弼・張恵超・黎元興・杜光庭・王玄覧などが重玄の意味合いをはっきりさせた。そのなかで王玄覧(626〜697年)の《玄珠録》、成玄英の《老子》・《荘子》の注釈、李栄の《道徳真経注》、杜光庭(849〜933年)の《道徳真経広聖義》は、比較的よく知られている。唐の玄宗の《御注道徳真経》も「重玄」説を採用している。このほか、唐代に書かれた《太上老君説常清静妙経》・《太上老君内観経》・《太上老君了心経》・《洞玄霊宝定観経》なども明らかに「重玄」を主旨としている。《玄門大義》釈太玄部は、「太玄は、重玄を主旨とし、老君が説いたのである」と説明している。隋・唐の道士は、太玄部道経(主に老荘の道家の書籍である)は「重玄」が主旨であると考えていた。いわゆる「重玄」の重は「重複」の意味である。重玄家は《老子》の中の「玄のまた玄」という句を、当時の仏教学の「双遣法」(たとえば鳩摩羅什の伝えた三論宗の「中道法」)と結び付けて解釈し、《荘子》の「無為」・「忘心」の意味を仏教でいう妄執を除くという意味に取り、「玄」を滞りを除くことと解釈した。このようにして「重玄」哲学は深化していった。葛洪は老子の「道」を「玄」に拡大解釈したが、玄学家はさらにそれを有を取り払い無に帰すという貴無論・崇有論によって解釈した。仏教家(大乗の空を主旨とする般若学の中観学派)の鳩摩羅什・僧肇・梁の武帝蕭衍は玄学家の考え方を一歩進めて《老子》を解釈して、有のおいて滞らず、無において滞らず、有と無の両方を取り除くことを述べた。「重玄」家はさらに一歩進め、仏教家の有でも無でもないということも「滞りのない滞り」であって一つの玄にすぎず、「滞りのない滞り」さえ取り払ってしまわなければ「玄のまた玄」ではないと考えた。有と無を取り払い(玄学)、有でも無でもないことを取り払い(仏教家)、有無によって滞らず、有でも無でもないことによって滞らず、原因と結果のどちらも取り除き、本体と跡形をすべて忘れ、取り払ってまた取り払い、忘れてさらに忘れる。こうして、ようやく重玄の境地に入るのである。「重玄」哲学は本体論・認識論・弁証思惟・修持理論にも適用され、かなり細緻だったので、後世の心性論哲学や内丹学を完成させる理論的な基礎ともなった。それは、道教哲学を新しい段階まで発展させた。

 3、この時代には道教音楽・舞踏・建築・彫塑・文学芸術が全面的に発展した。南北朝の時代には、道観の建設に伴って、道像を彫塑して奉じるようになった。隋・唐の時代には、宮観建築芸術の発展に伴って、道教の彫塑・絵画芸術も盛んになった。唐の玄宗は全国の道観に老子像を造ることを命じ、敦煌の道教の壁画は今に至るまで伝わっている。唐の玄宗の作った道教音楽《霓裳羽衣曲》などは非常に高い芸術性を備えていた。唐代には道士や仙人を題材にした伝奇小説が書かれ、詩人は仙を求め道を慕って詩を編み、道教文学というジャンルが成立した。道教の文学芸術が盛んになったことは道教の宗教性を少なからず向上させ、中国伝統の思想文化を道教の精神と融合させた。

 

 

 

*1 《神仙感遇伝》には、梁の武帝の時に「陶貞白は張天師道によく通じていて、玄壇を三百カ所に立てた」と記載してある。《文献通考》にも「天宝六年(748年)以後、漢の天師の子孫が真の教えを受け継ぎ、天師を太師とした」と記載してある。このことから見ると、《漢天師世家》の記載では確認できないが、張陵の後裔がずっと天師道を伝承していたのは事実のようである。また五代の孫夷は《三洞修道儀序》の中で、「天師の後裔は、世に伝わっているのは一人であり信州竜虎山の張家である」(《道蔵》第五十三冊)と述べている。唐代の竜虎山に一つの道教流派があったことは、間違いない。

 

 

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