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大 津

ねこ:
ある人によると、天皇家および宮内庁は藤ノ木、キトラ、高松、この3つの古墳の被葬者は知っているとか。わたしもそう思います。

としちん:
要するに日本という国は国民にウソの歴史を教えているわけで、それは戦前も戦後も変わらない。
だからこそ、こーいうHPが成り立つわけです(笑)。

 天武の死と大津即位

 『書紀』に、天武の死は686年9月9日とある。この日付には呪術的な意味があり、実際は682年8月に亡くなったことが『書紀』に暗示されている。
 天武の死が4年も引き伸ばされているのは、天武朝と持統朝の間に存在した大津朝を抹消するためである。

 天武の死に関する記述は、政治的なできごとを地震などの自然現象で暗示する讖緯(しんい)的表現や、五行思想の知識がなければ理解できない暗号文のオンパレードである。
 五行思想とは、中国の戦国時代に生まれ、各王朝の変遷を五行の推移に見立てたものである。
 基本は「五行相生」と「五行相克」の二つ。
 「五行相生」は、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じるという、順送りに相手を生み出していく関係。これに王朝の変遷を組み合わせて、堯(火)→舜(土)→禹(金)→殷(水)→周(木)→漢(火)と変遷したという。
 一方、「五行相克」は、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つという、相手を打ち負かす関係で、周は火徳、秦は水徳、漢は土徳をもって、それぞれの王朝を開いたとされる。

   五行相生 木→火→土→金→水(→木) 

   五行相克 水>火>金>木>土(>水)

 天智以降を「五行相生」に当てはめると、天智(金)→大友(水)→天武(木)→大津(火)→高市(土)となる。
 さらに五行は、方位、色、四季、動物に結び付く。

王 朝
五 行
方 位
季 節
動 物
天 智
西
白 虎
大 友
玄 武
天 武
青 竜
大 津
朱 雀
高 市
中 央
 
 

 以上をふまえて、小林惠子氏による『書紀』の謎解きを見ていこう。

天武11年(682年)8月3日 高麗の客を筑紫でもてなされた。
 この夜の昏(いぬ)の時(午後8時)、大星(金星)が東から西の空によぎった。
5日 造法令殿(浄御原令編纂の行われている殿舎か)の内に大きな虹が立った。
11日 灌頂幡(かんじょうのはた)のような形で、火の色をしたものが、空に浮かんで北に流れた。
 これはどの国でも見られた。「越の海(日本海)にはいった」というものもあった。
 この日、白気が東の山に現れ、その大きさは四囲(一丈二尺)であった。
12日 大地震があった。17日、また地震あり。
 この日、平旦(とらのとき、午後4時)に、虹が天の中央に日に向かい合って現れた。
13日 筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が「三本足の雀が現れました」と報告した。(中略)
28日 勅して、日高皇女の病のため、死罪以下の男女、合わせて198人を赦した。
29日 140余人を大官大寺で得度(出家)させた。

 上の『書紀』の記述は、682年8月、大津皇子が天武打倒のクーデターを起こし、天武は越に向かって逃走する途中、日本海から上陸した唐軍に信濃あたりで殺されたことを伝えている。

 「虹」や「地震」はクーデターを意味する讖緯的表現。「大星」は天皇すなわち天武を暗示。
 「灌頂幡のような形で火の色をしたもの」も、逃走中の天武を暗示するもの。山背事件(653年)への蓋蘇文の介入を暗示する「おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さなざまな舞楽とともに空に照り輝き寺の上に垂れかかった」という記述を思い起こさせる。
 「白気が東の山に現れ・・・」は、東で木徳の天武を表し、この場合の白気は喪の色で、すなわち死を意味する。

 筑紫大宰から「三本足の雀が現れました」と報告があるが、翌683年1月、筑紫大宰がその三本足の雀をたてまつり、大極殿で宴会を催し、2月、大津皇子が初めて朝政を執ったとある。
 683年は、『書紀』以外のほとんどの史料では朱雀元年となっている。
 天武の木徳の次は火徳で、火徳の動物は朱雀。つまり朱雀で象徴される火徳の王とは、大津のことである。
 大津は、唐の高宗の後押しを受けて即位し、年号も「朱雀」と改めたのだ。

 日高皇女の病のため140余人が出家したとあるが、「中宮天皇」の章でお話ししたように百人を超える出家者を出すのは天皇クラスの崩御に限られ、事実は天武の冥福を祈る出家者だったと考えられる。

 『書紀』には、684年にも以下のような記述がある。
 この中の日付にも呪術的な意味があり、当時は死者は再生すると信じられていたので、天武は二度と蘇らないよう、呪術的に何度も繰り返し殺されなければならなかったものと想像される。

天武十三年(684年)11月21日 昏時、七つの星が、一緒に東北の方向に流れおちた。
23日 日没時に星が東の方角におちた。大きさは瓮(ほとき。水を入れる容器)くらいであった。
戌の時になると、大空がすっかり乱れて、雨にように隕石がおちてきた。
この月、天の中央にぼんやりと光る星があり、昴と並んで動いていた。月末に至ってなくなった。

 「七つの星」は北斗七星で、皇帝すなわち天武を象徴し、大和から見た「東北」つまり信濃方向に向かったことを暗示。
 「瓮のように大きな星がおちた」とは、『魏書』にある「甕(かめ)のように大きな星が流れたとき、北燕王の馮弘(ふうこう)が高句麗に亡命した」という話にちなみ、天武が旧高句麗領に逃げ込もうとしたことを意味する。
 「雨にように隕石がおちてきた」はクーデターを意味し、「昴」は唐を象徴する星で、クーデターへの唐の介入を暗示。
 昴(唐)と並んで動いていた「天の中央にぼんやりと光る星」とは、唐と共闘した大津皇子のことであろう。

 大津は唐の宿敵・天武の子ではあるが、天武の殺害に協力的だったこと、母系から天智の血を引いていることから、唐に天皇として認められたようだ。
 高市は天智の長男で、大津よりも年上だったが、壬申の乱のときに天武と父子の契りを結び、吉野軍の総大将だったため、唐にも「天武の子」だと思われていたのだろう。
 草壁は大津よりも年下で、資質も兄に及ばない上、壬申の乱では最初から大海人側にあったため問題外だったようだ。

 大津は、難波京を復活させる一方、大伴安麻呂らに都として適当な場所を視察させた。のちの藤原京はこのときに候補にあがった場所である。
 大津は684年に八色の姓を制定し、685年に新しい位階制(爵位六十階)を作る。大津はこのとき天武の死を公表し、正式に即位したようである。
 同年2月、「大唐の人、百済の人、高麗の人合わせて147人に爵位を賜わった」とあり、クーデターに功労のあった外国人たちへの報償だったと思われる。天武の味方だった「新羅の人」が含まれていない点に注目。

 しかし、大津は富本銭の発行を始めとする性急な政治改革により、徐々に人心が離れ、大伴安麻呂にも見放されていく。
 686年1月4日、難波の大蔵省から火が出て宮室がすべて焼失し、7月には忍壁皇子の宮も焼ける。
 いずれも反・大津派の放火と思われ、忍壁が被害に遭っているところを見ると、彼は大津派だったのだろう。

 大津の処刑

 7月15日、「天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ」という勅が出され、20日、改元して朱鳥(あかみとり)元年とし、もともと天武の宮だった飛鳥浄御原宮に遷都している。
 菟野と草壁の母子を前面に立てた高市皇子が、完全に大津に代わって実権を握ったようである。
 もともと高市は、天武を倒すという共通の目的のために大津と共闘していたにすぎず、あくまでも狙いはトップの座であった。

 『書紀』に、天武の殯宮を飛鳥浄御原宮の南庭に建てた686年9月24日、大津が「皇太子に謀反を起こし」て捕縛され、10月に処刑されたとある。
 これは一般に「大津皇子の乱」と呼ばれ、天武が9月9日に亡くなったあと、草壁が新天皇として即位するのを大津が妨害しようとした事件とされている。
 しかし事実は、このときの天皇はすでに大津だった。
 したがって「謀反」の相手は草壁ではなく、あくまでも682年の天武殺害のことを指している。
 大津に諡がなく、大津朝が歴史から抹殺されているのも、彼が天武殺害に関与していたからなのである。その動機については、次章で考察する。

 天武は682年8月に殺され、信濃(現在の長野市善光寺あたりか)に殯宮が営まれたと思われるが、小林惠子氏の推理では、天武の棺は菟野や高市らによって飛鳥に運ばれ、686年9月24日の祭事の日に南庭の殯宮に置かれた。
 このとき高市は、別の場所に天武の遺骨を隠し、殯宮には空の棺を置き、それを参列者の前で大津が開けるようにしむけて、遺骨を奪った「死者への冒涜の罪」を大津にかぶせたのではないかという。
 この大胆な推理が当たっていれば、死者をもっとも冒涜していたのはほかならぬ高市だったことになるが、誰よりも天武を怨みながら、その殺害には自らの手を汚すことなく、草壁を即位させたい菟野と共闘して大津を合法的に抹殺するという、きわめて冷徹な策士だったことになる。やはり、だてに吉野軍の将ではなかったということだ。

 高松塚古墳

 奈良県明日香村の高松塚古墳は、盗掘を受けた形跡がありながら、副葬品の三種の神器(鏡、玉、剣)が残っていたり、その剣の刀身だけが抜き取られていたり、被葬者の頭骨がないなど、きわめてミステリアスな古墳である。
 高松塚古墳とキトラ古墳は、その構造の類似から同一人物によって築造されたと思われ、その威容は築造者、被葬者ともに最高レベルの権力者だったことをしのばせる。
 すなわち築造者は持統天皇(=高市皇子)である。
 (持統の正体が高市だったことは次章にて論証する。)
 そして高松塚古墳の被葬者は天武、キトラ古墳の被葬者は大津の両天皇であろう。
 以下、小林惠子氏による解説を要約する。

 石室内部に描かれている壁画は以下の通り。

 北壁・・・玄武
 西壁・・・白虎、月、婦人の人物図、男子の人物図
 東壁・・・青竜、太陽、婦人の人物図、男子の人物図
 天井・・・星宿図

 壁にはそれぞれ方位を表わす動物が描かれているが、南壁の朱雀だけ描かれていない。
 北壁に描かれた玄武(亀と蛇が合体した中国の想像上の動物)は、右のように意図的に破壊されている。
 また、東壁に描かれている青竜や、太陽の図も激しく損傷している。

 なお、参考のために五行の一覧表を再掲しておく。

王 朝
五 行
方 位
季 節
動 物
天 智
西
白 虎
大 友
玄 武
天 武
青 竜
大 津
朱 雀
高 市
中 央
 
 


「日本の古墳・古代遺跡」(西東社)より

 東西の壁に描かれている婦人像は、婦人の上着の色がそれぞれ五行に対応している。
 しかし人物はそれぞれ4人ずつで、いずれも黒(水徳)が抜けている。
 右下図のように黒を補ってみると、西壁は五行相生、東壁は五行相克の順序で、人物が三角形を描くように並んでいることがわかる。

 天井には古代の天体図(星宿)が描かれ、二十八宿(星座)が正確に描かれているが、北斗七星だけが剥落している。
 三種の神器(鏡、玉、剣)が副葬されているのは、被葬者の位が天皇だった証拠。また剣の刀身、北壁の玄武、東壁の太陽、星宿図の北斗七星などはいずれも皇帝のシンボルだが、それらがことごとく破壊されているところに、天皇だった人物に対してその地位を否定する意図が感じられる。
 なお、意図的に破壊されている「玄武」も、皇帝を象徴する動物だと言われている。



五行相生を現す表わす西壁(左)と、五行相克を表わす東壁

 天皇でなかった人ならわざわざ否定する必要はない。天皇の象徴を丹念に描いたうえで、それを壊すという屈折した作業がなされている以上、実際は被葬者が天皇だったとしか考えられない。
 さらに遺骨から首を抜いているのは死者の蘇りを禁じるためであり、4人ひと組の人物像を4組描いているのは「4×4(死×死)」、つまり永遠の死の中に死ねという強烈な呪いである。

 遺骨の状態や、剣の刀身が抜かれている状況から「盗掘を受けた」と判断されているわけだが、棺が入っている状態の石室にはほとんど人間が入りこむスペースはなく、その中で剣の刀身だけを抜くなどの作業はきわめて困難であり、金目のものが取られていないことからも、これは盗掘を受けたのではなく、最初から首を抜かれた遺骨や、最初から刀身のない剣が埋葬されたと考えられる。
 小林説では「高市は天武の遺骨を隠し、大津にその罪を着せて処刑した」とされているが、高松塚古墳の首のない遺骨こそ、そのとき高市が隠してあった天武の遺骨ではなかろうか。
 つまり高松塚古墳は、高市が、天武の蘇りを禁じるための呪いの墳だったのである。

 木徳の天武を表わす青竜や太陽の図が傷付けられているのに対し、高市の父・天智を表わす西壁はあまり損傷していない。
 また、西壁の婦人像は五行相生の順に並んでいるが、天武を象徴する東壁の婦人像は五行相克の順である。

 その婦人像だが、西壁(写真右上)では白と赤の女性が、東壁(写真右下)では黄色と青の女性が背中合わせ(対立関係)になっている。
 壬申の乱において、近江軍の副将・田辺小隅は敵味方の区別をするため、兵たちの合言葉に「金(かね)」と言わせたが、これは近江京を作った天智の金徳に由来し、また吉野軍の大海人の木徳に剋つための合言葉だった(金は木に剋つ)。
 つまり西壁の白と赤の女性の対立は、近江軍の金徳の白と、吉野軍のチームカラーの赤で、壬申の乱を象徴している。
 一方、東壁の黄色と青の対立は、そのまま土徳の高市と木徳の天武の対立と解釈していいだろう。

 もっとも激しく破壊されている玄武は、皇帝の象徴であると同時に、水徳をも意味し、また人物像から黒を削除しているところにも水徳を否定する意志が込められている。
 さらに、南壁に描かれるべき朱雀が描かれていないのは、火徳の否定をも意味している。
 高市の呪いの相手は天武だけにとどまらず、壬申の乱で殺した大友(水徳)、謀反の罪で殺した大津(火徳)の蘇りもまた禁止しているようである。

 キトラ古墳には、高松塚古墳に描かれていない朱雀が鮮明に描かれている。
 高市が大津に強力な呪いをかけるために築造されたと考えられる。

 このように、高松塚古墳とキトラ古墳は、高市による、天武系抹殺のモニュメントだったのである。
 高市は、天智系の血統を維持させようとしたという意味で「持統」と諡されたのだ。