トランスメディア提供アイコン01タグ:多治比嶋

  • 高市皇子の死
    [ 2010-10-07 20:23 ]
  • 臣籍降下
    [ 2010-10-04 20:46 ]
  • 命題の逆は真か?
    [ 2010-05-20 00:11 ]
  • ドラマ
    [ 2010-05-19 00:11 ]
  • 観世音寺鐘
    [ 2010-05-18 20:01 ]
  • 多治比嶋
    [ 2010-05-18 00:11 ]
  • 丹比真人嶋のブログ
    [ 2010-05-15 00:11 ]

トランスメディア提供アイコン01高市皇子の死

 高市皇子の問題。高市自身に慢心が生じたのではないだろうか?
 いや、高市の問題にしても大津の問題にしても親持統、反持統という図式の中で、藤原不比等をクローズアップしたがる向きもあろう。あるいは石上麻呂とか。
 逆に、そのような親持統とされる人間が高市の暗殺を企てたとして、高市と同じく天武の意志を継いで国作りをおこなってきた、多治比真人嶋のような人物の感情や去就は、何らかの史実として記録されはしないだろうか?
 まあ、高市皇子は過労死かもしれないんだけど、、、
 そう考えた時に嶋の臣籍降下は大きく響いてくる。嶋のそれとは比べものにはならないが、高市の慢心は嶋にとってダイレクトに理解できる所があったのではないだろうか?
 後の藤原不比等の栄華を考えた場合。持統朝の段階で、何らかの足がかりをつかんだというのは間違いのないことだろう。しかし、全ての事跡を構造的に不比等に結びつけるのは熟考が必要である。
 多治比真人池守が長屋王の所に説得にいくんだよね。
 高市の死には、様々な可能性が考えられる。しかし、殺害説を採る場合、多治比真人嶋は、案外、藤原不比等を超える、重要な容疑者なのかもしれないと思う。
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by famlkaga | 2010-10-07 20:23 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01臣籍降下

 例えば多治比真人嶋は初出当初から「真人」姓で書かれている。大宰にいた時代はあるいは「志摩王」と名乗っていたのかもしれない。志摩という東海に近しいネーミングはともかく、九州に赴任の「王」と名のつく人はどうも注意が必要である。血縁関係が追えない人も多いし、九州王朝論を称える人までいる。
 まあ、九州王朝論や百済系王族のような可能性はとりあえず置くとして、多治比嶋にとって「志摩王」と名乗ることより「多治比真人嶋」と名乗った方が有利であったのであろう。あるいは、八色の姓の成立以後に、嶋自身が「原日本書紀」にダイレクトに改竄をおこなったのかもしれない。
 臣籍降下によるメリットは、いくつか考えられる。嶋の出自を考えた場合「王」を名乗ることは自身の皇位継承のような問題があったのかもしれない。臣籍を名乗ることで皇位を狙わないことは一目瞭然になる。もっと何世の孫のようなシステムで、大宰時代から「丹比公」であった可能性もゼロではない。しかし、丹比麻呂の初出は「公」姓を名乗っており、大宰時代の嶋の呼称には改竄を認めざるを得ない。
 もう1つのメリットとして、自戒の意味はないだろうか?「世が世なら自分が皇位を継承していたハズ」という考えを戒めるための臣籍降下とは考えられないだろうか? まあ天武自身が天武王朝に対する忠誠を示させるために臣籍降下を迫ったのかもしれない。しかし、この可能性の場合も嶋には臣籍にある戒めを持ったことには変わりがない。
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by famlkaga | 2010-10-04 20:46 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01命題の逆は真か?

 観世音寺鐘のエントリーあれって、ひっくり返した方がわかりやすいか?
 多治比嶋が鍾をつくっていて、大阪・丹比に河内鋳物師がいる。すると、多治比嶋は鋳物師を掌握していた可能性がある。
 九州系とされる梵鐘が2つあって、観世音寺鐘は嶋のつくった鍾かもしれない(年代は精査しないといけないんだけど、、、)で、妙心寺鐘は嶋の行状から、九州の工人が畿内に来てつくったと考えたい。唐草文からも、そういう前後関係を考えてもいいだろう。
 この方が、スマートか? ただ、ひっくり返しただけだけど、なんかロジックって、どっかっで右と左、間違えたくらいのことで「論述できていない!」と言われるようなイメーヂがあって、イメーヂを思いついた順番に並べていって、蓋然性がある程度あれば、論述の順番って、それほど意味のないことではないか?(ロジックの専門家もいるのに暴論だな、、、)

 、、、ふん! やっぱ判りにくいのは蓋然性が弱いからぢゃないか。。。
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by famlkaga | 2010-05-20 00:11 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01ドラマ

「丹比公嶋よ。朕(ワシ)に3つ足の雀を内密に見せたいと?」
 大安殿。調度のことを書くと無知がばれる。
「はい。このことは陛下に先にお話ししておく必要があると思いまして、、、」
「ほほ。嶋よ。3つ足の雀など本当におるのか? 朕をたばかれば、どうなるかは判っておるよの」
「はは。間違いなく、3つ足の雀にて、ございます」
「よし、嶋。その箱を開けて見せてみよ!」
「いえ、この箱には、3つ足の雀はおりませぬ」
「では、どこにおるというのだ?」
「ここに、ございます」
 嶋は右手人差し指で頭をたたいた。
「ほお、朕に聞かせよ」
「筑紫におりますと、この国のあらゆる所、そして、海の向こうの国々のことも、つぶさに見えてまいります。そのように見てゆきますと、この国と言いますのは、、、」
「嶋よ。ヌシの世話ばなしに、朕をつきあわせるのか?」
「いえ、この国こそ、その雀にございます。半島も大陸も、そしてその先には、まだ、あまたの国があります。雀には見えませぬか?」
「この国が雀のように小さいと、朕を侮辱するのか?」
「いえいえ、そうではございませぬ。雀は小さい。それは仕方のないこと。しかし、3つ足の雀というのは、持っていて誇れるものではございませぬか?」
「ほほ。で、3つ足とは?」
「足は要(かなめ)。まず、1つ目の要。これは陛下のおられる帝都。飛鳥の地は山がち。大陸の帝都は碁盤の目をなしており、そして何より広い。差し出がましいことですが、たとえば大和であれば3山の控える藤原の地がよいかもしれません」
「ほほ。遷都か? して、あと2つの足は?」
「大陸との交易、国内の交易を司る水都が2つほど。難波と大宰。私のご先祖が何をなそうとしたのか? それが筑紫にいると手に取るように解るのです」
「ヌシの先祖? 朕に対する嫌みか?」
「いえ、陛下。けしてそのようなことは、、、しかし、筑紫は私に、任せていただければ、陛下のお気にめす水都にしてみせましょう」
「いや、嶋よ。ヌシは、もう筑紫に行く必要はない。朕の近くにおり補佐せよ」
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by famlkaga | 2010-05-19 00:11 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01観世音寺鐘

 ああ、それは弘法大師だよ~~、『大遣唐使展』でも、同じタイプの大師像が展示されていたよ、、、って、言いたいんだけど、そこは自粛。コミュニティーができてるところへの書き込みって、注意しないとね。知恵袋ぢゃないんだもんね。うんうん。
 さて、多治比嶋が筑紫大宰時代(六八二)に大きな鍾(かね)を鋳ているんだけど、まあ鍾は杯とか容器とか別の銅器を指すこともあるんだけど、鍾の「ショウ」という音が鐘と音通だから、つり鐘(梵鐘)の意味として使うみたい。
 筑紫の、この時代の梵鐘として有名なのが観世音寺鐘である。これとよく似たつくりの梵鐘が京都の妙心寺鐘で「戊戌年(六九八)四月十三日壬寅、糟屋評を収める造(みやつこ)の舂米連廣国(つきしねのむらじひろくに)が鍾を鑄た」という銘文が刻まれています。
 飛鳥資料館の図録『古代の梵鐘』によると、九州の工人がつくった梵鐘は「嶋のつくらせた鍾」「観世音寺鐘」「妙心寺鐘」の最低でも3つあるという説明のされ方をしている。しかし、本当に、そうなのだろうか? まあ筑紫大宰は副都という意味合いがあるので、先端技術を必要とするものがいくつあってもいいわけだが、3つの内、2つだけが残るというのが、なんか違和感が残る。
 観世音寺鐘と妙心寺鐘の唐草文を比較すると、観世音寺鐘の方が稚拙で、妙心寺鐘は奈良・岡寺の軒平瓦を思わせる葡萄唐草文だ。観世音寺鐘の方が古いと考えていいだろう。同工人かどうかは、ひとまず置かなければならないものの、妙心寺鐘も筑紫の工人であることは注目していいだろう。
 ここで、多治比嶋の行状を考えたい。妙心寺鐘がつくられた時、彼は畿内にいるのだ。嶋は筑紫の鋳物師を掌握していたのではないだろうか? 観世音寺鐘も嶋の監督の下につくられたのではないだろうか?
 もっと、逆に観世音寺鐘に対する嶋の活躍が伝説的に『日本書紀』に反映されたとは考えられないだろうか?
 こう考えた時に、1つ興味深い事例を思い出す。それは大阪の河内鋳物師の存在である。旧美原町周辺、つまり、河内の丹比と呼ばれる地域に彼らが存在したことは、偶然ではないもしれない。。。
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by famlkaga | 2010-05-18 20:01 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01多治比嶋

丹比真人嶋(たじひのまひとしま)(丹比嶋真人・右大臣丹比真人・多治比真人嶋・名は志麻・志摩とも)
宣化天皇の玄孫。多治比王の子。(続紀)
天武十一(六八二)四 筑紫大宰、大鍾(かね)をたてまつる。
 同十二(六八三)一 筑紫大宰、三足の雀をたてまつる。封、一百戸を増す。
 同十三(六八四)十 八色の姓により、丹比公、他13氏に真人の姓をたまう。
持統三(六八九)閏八 直広壱、
 同四(六九〇)一 公卿百寮拝朝、賀騰極奏、
        七 正広参、右大臣、
 同五(六九一)一 封を増す。三百戸、前通、五百戸。
 同十(六九六)十 輿と杖を賜る。資人(つかいびと)百二十人を賜る。(紀)
文武四(七○○)一 霊寿の杖と輿、および供人を賜る。(続紀)
        八 左大臣(補任)
大宝元(七〇一)三 正二位、
        七 薨じる。(続紀)年七十八(補任)

 一応、目についたものだけ拾ってみた。『公卿補任(くぎょうぶにん)』が手元にないので、引用は孫引き。『日本書紀』は岩波文庫。『続日本紀』は講談社学術文庫。初出の筑紫大宰の頃から姓が丹比真人と表記されている。続紀では多治比真人となる。直広弐は従四位下相当、直広壱は正四位下相当、正広参は従二位相当、正広弐は正二位相当になるのか?
 天武六(六七七)十と持統元(六八七)に丹比麻呂の名が見えるんだけど、丹比麻呂が多治比王であるとする記事に行き着かない。持統七(六九三)六に丹比池守の名が見える。げっ! 池守も『万葉集事典』に載ってないのか、、、
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by famlkaga | 2010-05-18 00:11 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)

トランスメディア提供アイコン01丹比真人嶋のブログ

 おお!
丹比真人嶋のブログ
 発見!
「真人」が入っているのが渋い。嶋って、ノーマークではないけど、対中央工作員だからね、、、

 研究、健闘を祈る! 嶋はお任せしよう。。。
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by famlkaga | 2010-05-15 00:11 | 小子部連鉏鉤 | Trackback | Comments(0)