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21多治比氏考 | |
1)はじめに
古代豪族について既稿で取り上げてきた各氏と一寸おもむきのことなる新興の氏族についても述べておきたい。その一つとして多治比氏をとりあげたい。
多治比氏(多治、丹治、丹比、丹治比とも記す)は、28宣化天皇の流れ「多治比彦王」を元祖とする皇別氏族である。
26継体天皇以降に臣籍降下した皇族は膨大な数いる。しかし、その多くは歴史の舞台から早々に消滅してしまった。その中で政治の舞台で活躍した最も有名な氏族は「橘氏」である。その他には前稿で記した「高階氏」「清原氏」などである。
天武天皇は、684年八色の姓制度という新制度をもうけて、従来からあった臣・連姓とは異なり、天皇家関係の一族の地位を向上させる制度とした。ここで臣・連の上位に真人・朝臣・宿禰などの姓を造った。真人姓は最高の姓である。
684年に13氏が真人姓を賜った。その筆頭が既述した「息長氏」であった。
「多治比氏(丹比氏とも記す)」もこの13氏の中に入った。
新撰姓氏録の時代には真人姓は48氏になっていた。
「真人姓」を有する皇別氏族は、蘇我氏、紀氏、など古い皇別氏族とは異なる扱いで、飛鳥、奈良、平安時代に中央政界で活躍した氏族である。
多治比氏の本拠地は、一般的には、河内国丹比郡(現在の大阪府羽曳野市・美原町付近)とされているが、諸説ある。多治比嶋及びその子供らが中央で活躍したが、奈良時代末からその子供ら中級官人の多くがが、宮廷から姿を消している。
一方、50桓武天皇妃として「多治比真宗」を輩出し、桓武平氏の祖である「葛原親王」が生まれた。この流れが板東平氏元祖「高望王」へと繋がる。
多治比氏は、丹比君ー多治比真人ー丹(土犀)真人と姓が改められてきた、
866年丹(土犀)貞峯らが上表して自分たちの姓を「多治」に改めるように願っている。
しかし、中級官人としてわずかに宮廷に残っていた多治比氏の血を引く人が「多治」と名のったところで多治比氏を盛り返すことはなかった。
鎌倉時代に関東の地で活躍した武蔵七党と言われた武士集団がある。(後に多くの大名家がここから出た)その中の一つが丹党と言われる一党がある。その出自が多治比氏であるとの説あり。異説も多い。
これにも論究してみたい。
2)多治比氏人物列伝
どの流れを本流とするかは難しい。本稿では桓武平氏の元祖葛原親王の母「多治比真宗」に繋がる流れを本流として記した。
・28宣化天皇(467−539)
省略。
・上殖葉皇子(?ー? )
@父:宣化天皇 母:橘仲皇女<24仁賢
A(かみえはのみこ)別名:恵波王(賀美恵波王)、椀子 丹比公、偉那公祖
子供:十市王
・十市王
@父:上殖葉皇子 母:不明
A子供:多治比彦王
2-1)多治比彦王(???−???)
@父;十市王 母;不明
A28宣化天皇の皇子「上殖葉皇子」の子「十市王」の子とされている。「多治比古王」
B成長後、多治比公の姓を与えられた。(臣籍降下) 従五位上
C王の名は、その誕生の時多治比の花が、産湯の釜に入ったことにちなんで付けられたと。 (後年の作り話?)通常は宣化天皇の領地があった河内国丹比郡からこの名がついたと考えられている。
D 日本書記 天武6年(677)丹比麻呂という人物が出てくる。これと同一人物か?
多治比三宅麻呂は、722年に記事あるがこれは違う。
・三宅麿
@父:多治比彦王 母:不明
A707年催鋳銭司(貨幣鋳造責任者)和銅開珎の鋳造。河内鋳銭司、正四位上
東山道巡察使。秩父の銅鋳造。これが武蔵七党元祖説もある。
B722年藤原不比等を非難氏との理由?で伊豆配流。
2-2)多治比嶋(624−701)
@父;多治比彦王 母;不明
A妻:家原音那、兄弟;三宅麻呂、(丹治真人家範 ?) 志摩とも記す。
B682(天武朝)年に初めて史上に現れる。宮廷で活躍し、多治比氏の地歩を築いた。
C「公姓」を改め「真人姓」を授かる。 D690(持統朝)年右大臣となる。太政大臣;高市皇子
E701年42文武朝正二位、左大臣となる。この時藤原不比等は大納言。
2-3)池守(???−730)
@父;嶋 母;不明
A兄弟;水守、広成、広足、県守ら(ここに家範を入れる説あり)
B太宰帥(大伴旅人の前任者)。718年長屋王政権下中納言となる。 大納言;長屋王、阿倍宿奈麻呂、中納言;巨勢祖父、大伴旅人。平城京造営長官。
C721年元正朝の大納言となった。45聖武ー光明子の間に皇子誕生の際光明子宅へ皇太子詣で をした。
D729年「長屋王の変」の時長屋王の門を叩き罪状を問う使いとなった。
この頃弟らがいずれも中納言となった。 従二位。
E奈良時代中期までは、多治比氏の者は、少なくとも一人は「公卿」になる体制が出来た。
・水守(?−711)
@父:嶋 母:不明
A子供:土作
B702年尾張守 、709年近江守従四位下。宮内卿。
・土作(はにし)(???−771)
@父;水守 母;不明
A754年尾張守
B768年治部卿 土佐とも記す。
C770年従四位上参議(1年)
・今麻呂(???−???)
@父;土作 母;不明
A参議を10年間したが、中納言にはなれなかった。
・氏守
@父:土作 母:不明
A妻:六人部美留女 子供:高子
・高子
@父:氏守 母:六人部美留女
A52嵯峨天皇妃
・多治比県守(668−737)
@父;嶋 母;不明
A子供;国人(奈良麻呂の変で連座)女(京家藤原浜成室、子供:継彦)
郎女(大伴旅人正室、子供:家持)
B716年「養老の遣唐使」で遣唐押使に任命された。この時吉備真備、玄ムら渡唐。
C719年武藏守
D729年長屋王の変で活躍。従三位。武蔵守、太宰大弐、持節征夷将軍
E731年参議。民部卿。
F732年山陰道節度使。中納言。 征夷大将軍の始めという説あり。
G734年新羅使「金相点」が大宰府に来着。朝貢ではなく対等の外交関係を要求された
ので、一行を退去させた。正三位。
・国人(?−?)
@父:県守 母:不明
A橘諸兄政権で反藤原勢力であった。
B751年従四位下。出雲守、播磨守、遠江守、太宰少弐
C757年橘奈良麻呂の乱で連座。伊豆に流された。
・宇美
@父:国人 母:不明
A別名:海
B陸奥守、武蔵守、従四位上。
・浜成
@父:国人 母:不明
A子供:縄主
B陸奥守、征夷副使。従五位上
・縄主
@父:浜成 母:不明
・今継
@父:縄主 母:不明
A861年武藏権介 武藏七党丹党の祖ともされている。
・三上
@父:国人 母:不明
A長門守、従五位上。
・多治比郎女
@父:県主 母:不明
A夫:大伴旅人 子供:家持・留女之女郎(藤原南家継縄夫人)
・阿伎良女
@父:嶋 母:不明
A夫:大中臣意美麿 子供:清麻呂
B大中臣氏の嫡男の正妻であり、息子清麻呂の妻も多治比古奈禰(子姉)であり多治比氏と大中臣氏が非常に深い関係であったことが窺える。
4)家主(???−760?)
@父;池守 母;不明
A守家とも記す。子供:長野、兄弟;屋主、犢養、礼麻呂、鷹主ら
B「奈良麻呂の変」で藤原仲麻呂が、多治比氏の力を弱めようと、その多くの構成員を
一味として、連座させ断罪した。弟、犢養、礼麻呂、鷹主、従兄弟 国人(県守の子)
C出羽守、因幡守 従四位下。鋳銭長官。 ・犢養
@父:池守 母:不明
A遠江守、従五位上。
B奈良麻呂の乱で死亡。
・礼麻呂
@父:池守 母:不明
A奈良麻呂の乱で死亡。
・鷹主(???−757?)
@父;池守又は家主 母;不明
A752年大伴古慈斐の家で入唐副使「大伴古麻呂」らを餞の宴に参席、歌を読む。
B757年反藤原仲麻呂一派の密会の際、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、大伴池主らと共に
参加、挙兵を誓う。この計画失敗。以後消息不明。死刑か?
・屋主(???−???)
@父;池守 母;不明
A子供:乙麻呂、724年従五位下
B京を出発した聖武天皇の関東行幸の際河口行宮より京に帰還。
C746年備前守。
D749年左大舎人頭。 万葉歌人。
・乙麻呂
@父:屋主 母:不明
A従五位下。万葉歌人
・広成(???−739)
@父;嶋 母;不明
A子供;継兄、家継、ら
B732年遣唐使大使 下野守、越前守
C737年「県守」のあと参議、中納言(橘諸兄政権下)従三位式部卿。
・継兄
@父:広成 母:不明
A豊後守、太宰少弐 神祇伯、従四位下。
B786年壱志濃王を山背国班田長官に、継兄を次官に任命。
・家継
@父:広成 母:不明
A子供:貞成・清貞
・貞峰
@父:貞成<家継 母:不明
A866年その時の姓「丹(土犀)」を多治に戻すことを申し出た。
B武藏七党丹党の祖説あり。
・邑刀自
@父:広成? 母:不明
A女官、797年旧長岡京の地5町を賜る。
・豊継(?−785?)
@父:広成? 母:不明
A桓武天皇妃 子供:正六位上長岡朝臣岡成
・広足(???−757?)
@父;嶋 母;不明
A749年(孝謙朝)参議から中納言になった。武蔵守、刑部卿、兵部卿。
B757年「大仏開眼供養会」の行幸の平城宮留守官の記事あり。
左大臣;橘諸兄、右大臣;藤原豊成、大納言;巨勢奈弖麻呂、藤原仲麻呂
中納言;紀麻路、広足
C757年皇太子「道祖王」(聖武が推した)廃太子の諮問を孝謙天皇より受けた。
従三位。
D757年橘奈良麻呂の変で一族に多数の罪人が出た。責任を取り、中納言職を解任された。
2-5)長野(705−789)
@父;家主 母;不明
A子供;真継、真宗(50桓武妃)
B娘「真宗」と50桓武天皇の子が、桓武平氏元祖の一人「葛原親王」であり、この流れ
が、板東平氏「高望王」
C三河国司。伊勢守、近江守。789年従三位参議兵部卿となる。(1年のみ)
・多治比真宗(まむね)(769−813)
@父:長野 母:不明
A夫:50桓武天皇
子供:葛原親王(786−853):桓武平氏祖。
佐味親王(793−825)
賀陽親王(794−871)
大徳親王(798−803)
因幡内親王(?−824)
安濃内親王(?−841)
B785年この頃桓武天皇(50才)に入内
C797年従三位「夫人」となる。
D806年桓武崩御。
<その他多治比氏>
・真継 @父:長野 母:不明 ・多治比古奈禰(?ー792)
@父:不明 母:不明
A夫:大中臣清麻呂 子供:参議諸魚 別名:子姉
・多治比子市 ・浜人
@父:不明 母:不明
A桓武朝東宮主書首、早良親王側近、種継暗殺関与で死刑。
・真浄
@父:不明 母:不明
A長岡京造宮使。
・多治比池子
@父:門成*<? 母:不明 *834年頃武藏守
A淳和天皇妃、子供:同子内親王 848年頃石雄が武藏守となった。
・多治氏女1
@父:不明 母:不明
A文徳天皇妃、子供:源毎有
・多治氏女2
@父:不明 母:不明
A58光孝天皇妃、子供:源緩子
(参考)将門記記載多治氏
多治武信・峯信・経明・峯時・助真・良利など武藏丹党関係の人物。
3)多治比氏関連系図
・多治比氏元祖概略系図
・多治比氏元祖詳細系図(筆者創作系図)
諸々の公知系図の併合。
・(参考系図)武蔵七党丹党系図
@宣化天皇出自説A紀国造氏出自説
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4)多治比氏系図解説・論考
多治比氏は古代豪族には入るが比較的新しい豪族である。しかも臣籍降下した皇別氏族である。歴史上目立った存在でもない。藤原氏勃興の過程で天皇家を支えたアンチ藤原氏族である。後に勢いが出てきた橘氏も新しい皇別氏族であるが、これに近い氏族だったと言える。一般的には教科書には出てこないし、この氏族を扱った専門書・文献などにも乏しい。非常にマイナーな古代豪族だと言える。
元祖は28宣化天皇の子である上殖葉(かみえは)皇子であるとされているが、次ぎの十市王と共にその人物像はよく分からない。臣籍降下した多治比彦王が初代多治比氏とされている。何故多治比なのかについても諸説ある。多治比の花説、河内国丹比郡説、古族丹生・壬生氏らを統治した説など。河内国に何等かの根拠があったことは間違いなさそうである。
「多治比嶋」の時代が一つの画期であった。未だ藤原不比等が実権を握る手前で右大臣・左大臣として持統・文武朝を支えた。歴史学者はこの時代については通常、藤原不比等に総ての焦点を当てた解説しかしてないが、実は地味ではあったが多治比氏を世に出した「嶋」の活躍があったのである。一方嶋の弟と思われる三宅麿の存在も忘れてはならない。初代の「催鋳銭司」の長官となった人物である。有名な「和銅開珎」の製造責任者である。いまでは日本の最初の鋳造銅銭は「富本銭」となっているが、普及した貨幣としての和銅開珎の価値は変わらない。河内国で鋳造されたのである。銅の鉱石産地である秩父にまで赴いている。この辺りが後の武蔵七党の丹党の元祖が多治比氏であるとする説の出所かもしれない。系図に示した「家範」と三宅麿は同一人物の可能性もある。後述する。
嶋の子供の池守・県守・広成・広足らはいずれも参議以上の高官として活躍した。しかし、池守の子供の時代757年に「橘奈良麻呂の変」が起こった。多治比氏の多くは橘氏側につき藤原氏勢力に破れた。これによって多くの人材が処刑・流罪にあって中央から遠ざけられた。以後豪族多治比氏の勢力は徐々にではあるが殺がれていくことになる。藤原氏にとっては邪魔な存在であったことには違いない。
多治比氏と大伴氏の関係は非常に密なものがあったと思われる。県守の娘「多治比郎女」は大伴氏嫡流であり万葉歌人として有名な「旅人」の室となり、「家持」を産んでいる。大伴氏は古代豪族の雄である。天武朝には復権をはかり参議以上の高官を出していた。
また嶋の娘「阿伎良女」は中臣氏嫡流の「意美麿」の室となり大中臣氏元祖となった「清麿」を産んだ。また清麿の室に多治比氏の出身(どこかは不明)古奈禰(子姉)が嫁ぎ「諸魚」を産んでいる。この大中臣氏は中臣氏の本流で藤原氏はこの時代、別の氏族として扱われていた。
即ち多治比氏は、天武朝以降古代豪族として活躍していた中臣氏・大伴氏とも非常に強いパイプを持っていたのである。
藤原式家らの暗躍により天武系の血脈が途絶え、天智系の49光仁天皇が即位、さらに
782年にその子50桓武天皇が即位し784年には長岡京に都を遷した。これは天武系王朝に組みしていた大伴・佐伯・多治比氏らにとっては好ましいことではなかった。
785年長岡京造営責任者の「藤原式家種継」暗殺事件が起こった。これに関与して大伴氏・佐伯氏・多治比氏の者が処刑・処罰を受けた。これに関しては現在では上述のような背景があったことは事実であるが、上記氏族の大多数がそれに同意参画したというのではなく、早良親王近臣の者に限られていたとするべきで、多くの大伴・佐伯・多治比氏の面々は関与しなかったとする説が主流である。いずれにせよこの頃の記事に登場する多治比氏の面々はいずれも官位は低い。
種継暗殺事件の首謀者とされた大伴継人は「奈良麻呂の変」の首謀者大伴古麻呂(遣唐使として鑑真和尚を日本に連れてきた人物として有名)の子供である。奈良麻呂の変を境に多治比氏は凋落していくのであるが、大伴氏も2代に渡って藤原氏とぶつかったのである。大伴氏全体ではないにしろ大きなダメッジがあったことはいなめない。
桓武天皇妃となり桓武平氏の元祖と言われる「葛原親王」を初め多数の親王を産んだ「多治比真宗」は、桓武天皇に寵愛された妃の一人とされている。この縁が関係したと思われるが真宗の父「長野」は従三位参議兵部卿となって当時の多治比氏の中では破格の昇進をした。しかし、政治的な実権はなかったとされる。これ以降多治比氏が歴史上の表舞台に登場することはない。
筆者系図ではさらにもう一人桓武妃「多治比豊継」(広成女)として記してある人物がいる。これに関しては謎があるようである。@豊継は男名である。よって豊継女の誤記である。A父広成は739年には没している。この時の子供だとしても桓武天皇即位直後782年に妃になったとしても43才である。子供として「長岡岡成」を産んでいる。これはおかしい。よって豊継は男でその娘が桓武妃となり岡成を産んだとするのが妥当。
B長岡岡成の産まれた年は773年から781年の間であるとされている。773年なら平城天皇より1年早い産まれである。即ち桓武天皇の記録上の第1子となる。勿論結婚は
それ以前、772年とすると豊継が33才前後の可能性があり、子供は、産める。また桓武は当時未だ光仁天皇の皇太子にもなっていなかった。(桓武35才前後)
(岡成を親王にもせず787年に長岡朝臣として臣籍降下させている。何か謎めいたものを筆者は感じる。)773年に山部親王は立太子している。37才の時である。この前後に後の桓武后となる藤原乙牟漏と結婚している。それまで山部王の時代には妃は一人もいなかったのであろうか。普通はあり得ないことである。通常20才前後で最初の妃を迎え
子供も何人かあってもおかしくない。ところが桓武の場合何故か立太子以後から結婚が始まり、安殿親王が最初の子供と記録上そうなっている。それ以降は天皇になってからの子供だけである。上記岡成のみ微妙な扱いになっている。その母が多治比豊継又はその娘ということである。豊継の兄弟である「継兄」が786年山背国班田次官(長官:壱志濃王)に任命されたという記事があり、姉妹と思われる邑刀自が宮中女官として活躍の記事もある。この邑刀自に対し797年旧長岡京の地5町が与えられたという記事が残されている。
邑刀自と桓武妃豊継が同一人物とは考えられないであろうか。
桓武天皇の研究は現在も色々されている。この辺りの謎の解明も期待したい。
さてその後も天皇の妃は継続的に多治比氏からも出されており58光孝天皇(830−887)妃まで記録が残っている。但し系譜は不明である。
866年に多治比嶋ー広成ー家継ー丹(土犀)貞成ー多治貞峰と系譜にある貞峰から上表文の形で丹(土犀)姓とされていた一族の姓を多治に戻すよう願っている記事が残されている。以後この流れは多治姓となった。
筆者の系図で参考までにと考え「額田女王」の出自系図を「姓氏類別大観」の系図を参考にして挿入した。一般的には額田女王の父鏡王の出自は謎とされている。この系図に従えば多治比氏と同じ28宣化天皇からの流れとなっている。火焔皇子・阿方王共に歴史上影の薄い人物なので筆者はこれについての論評は避けたい。
次ぎに多治比氏と武藏七党丹党との関係について概観してみたい。
武藏七党とは、平安末期から鎌倉時代 にかけて武藏国一円で活躍した武士集団である。これを母体としてやがて大名になる一族も多数輩出した。一般的には、猪俣党、私市党、児玉党、丹党、西党、村山党、横山党の7つの血脈を異にする武士集団である。本件についてはまた別の機会に詳しく記したい。本稿ではこの中の丹党という武藏国秩父郡近辺で活躍した氏族に的を絞って多治比真人氏との関係を述べることとする。
丹党は、その出自に関して謎の多い氏族と言われている。源平合戦の武者であり、長岡京市にある浄土宗西山派本山「光明寺」の開祖とされている「熊谷直実」も丹党に属したとされる。
血族的には桓武平氏であるが養子関係が複雑に絡んでそうなるのである。
丹党の出自については一般的には大きく分けて、参考系図に示したように、28宣化天皇出自の多治比真人氏の裔とする説と紀国造氏系天野氏の裔とするものとがある。
多治比系の中でも@県守流「多治今継」が元祖とする説
A広成流貞成・貞峰を元祖とする説
B参考系図のように嶋の兄弟家範(通常の系図にはない)を元祖とする説
など多数ある。
一方武藏丹党共通元祖である「武信」なる人物(武藏国押領使従五位下で877年頃武藏国秩父郡の開墾をした。)の父を家信とし、家信を紀州天野丹生直の出とする説がある。いずれが真なのかは筆者は分からない。以前は多治比氏裔説が主であったようだが、現在では紀国造氏説も相当強くなっているようである。
但し、多治比氏が「県守」の時719年から武藏守として多くの子孫が秩父付近に関与していたのは記録上事実である。861年「多治今継」が武藏権介にもなっている。
一方707年に嶋の弟である「三宅麿」が銅銭の鋳造に秩父の銅を用いるべく、秩父に下ったという記録もある。参考系図に三宅麿の兄弟の形で「家範」なる人物が武藏丹党系図に登場してくる。この人物は他の多治比氏系図には無い人物である。よって三宅麿と家範なる人物を同一人物として見る説も出現するのである。
また、935年平将門の乱辺りから「将門記」などに丹党の片鱗が残されているようなので「今継」の流れを引く者がこれに関与したとしてもおかしくはない。
また三宅麿時代からの多治比氏の流れが秩父辺りにあったとする説も捨てがたい。
丹党の丹を丹生氏の丹とするか丹治氏(多治比氏)の丹にするかである。一方では、丹治というのは元々丹生氏を治めたと言う意味で多治比氏は元々そういう立場であったので武藏を治めていた多治比氏の配下に丹生氏出身の者がいた、その流れが丹党を名乗るようになったのである、という説を主張している人もいる。これも捨てがたい。
将門記に記載のある「多治経明」なる武将と多治武信との関係は参考系図に示したが武信の879年当時の記事とも系図的には整合性はあるように思える。
この頃多治氏は落ちぶれたとはいえ天皇妃(58光孝天皇妃)を出しているのであるから、貴族(五位以上)の扱いであったと推定出来る。地方に行けば当然「貴なる氏族」であり土着の豪族が中央とのパイプ役として多治氏の裔を利用したとも考えられる。武信も経明もそれらの一人だったかも知れない。血脈と名跡の問題が婚姻関係を通じて複雑に絡んでいるのかも知れない。ところで、多治比氏本体は長岡京時代には参議「長野」が存在したが、それ以後歴史上からは消滅したのである。皇別氏族の主流は「橘氏」となり、やがて平氏と源氏の時代に変遷していくのである。「橘奈良麻呂の変」こそ皇別氏族「橘氏・多治比氏」及び古代豪族「大伴氏」と「藤原氏」の天下分け目の決戦だったと言えないだろうか。
「大伴氏」もほぼ時を同じくして長岡京時代以降、実質的に排除された。
但しこの時代(平城京末期ー長岡京ー平安京初期)は、総ての古代豪族と言われる氏族が
中央政界から藤原氏によって駆逐される時代であり、その最後に大伴氏や多治比氏がいたと考える方が正しい見方であろう。藤原氏内部でも色々な変遷を経て藤原北家全盛時代に入っていくのである。
5)まとめ(筆者の主張)
@多治比氏は28宣化天皇の曾孫「多治比彦王」を元祖とする皇別氏族である。
A2代目「嶋」が天武天皇から文武天皇まで活躍、藤原不比等が台頭するまでに左大臣まで昇った。
B嶋の子供の時代までは多治比氏は天皇家を全面的に支援する新興皇別氏族の雄として参議・中納言クラスに常任する氏族となった。
C大伴氏・中臣氏の嫡家にも婚姻を通じ強いパイプを持った。
D757年の「橘奈良麻呂の変」で橘側に多くの一族が味方して、藤原氏と完全に対立し多くの処罰者を出した。これにより、著しく政治的地位を低下させた。
E785年の藤原種継暗殺事件にも一族の者が関与。さらにその地位は低下した。
F桓武天皇妃となった「真宗」が後の桓武平氏の祖となった「葛原親王」らを産み、その父「長野」は参議の地位が与えられた。しかし、これは一族としての実力が向上したわけではなかった。これ以降多治比氏が歴史の表舞台に登場することはない。
G桓武天皇の立太子前の夫人・子供らの状況が資料的にまるでない。謎である。当時の常識から見て、35才前後 夫人も一人もなく、子供も一人もないなんておかしい。
立太子後桓武は夫人の数30名以上子供の数30名以上と言われている。歴史的に意図的に隠してしまったことがあるのではなかろうか。
H桓武妃の一人「多治比豊継」及びその子供「長岡朝臣岡成」の本当の姿が謎。豊継の姉妹と思われる邑刀自の記録が残されている。同一人物の可能性はないだろうか。
今後の研究成果を期待したい。 I鎌倉時代以降の日本の武家社会に影響を与えた武藏七党の一つ「丹党」はその出自が多治比氏にあるという説が、古くからある。最近では紀国造氏系天野氏出自説も有力視されている。この謎は未だ解き明かされていない。ただ言えることは、「嶋」の時代から平安中期頃まで多治比氏の者が武藏国秩父郡辺りに色々関与してきたことは間違いない。筆者は血脈又は名跡において多治比氏出身の者が丹党という武士集団に絡んでいたと推定している。系図の確実性はどうであれ立証不可能であろう。
6)参考文献
・「藤原不比等」 高島正人 吉川弘文館(1997年)
・「額田王の謎」 梅澤恵美子 PHP研究所(2003年)
・「持統天皇」 直木孝次郎 吉川弘文館(1994年)
・「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)
・「長岡京」 中山修一 京都新聞社(1984年)
など
(8/25/06脱稿)
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