雷山神籠石の防人と不破乃世伎			日出島哲雄
 天平勝寳七歳(七五五)二月九日に提出された『万葉集』の不破乃世伎の歌を調べる前に、雷山神籠石へ行く道を紹介しよう。
 前原市大字三坂から雷山千如寺の方向に登っていくと、途中に藤坂橋というバス停がある。この近くから、林道が始まっている。この林道から脇道が出ている。これを進むと、不動滝という滝がある。ここから険しい山道が始まる。この山道を登っていくと、雷山神籠石の北の水門に着くのである。ここでは、博多湾が良く見える。



福岡県前原市三坂と雷山−−−−−雷山神籠石の説明図−−−−−−土塁の作り方の説明図。



右の道が雷山神籠石への道−−−雷山神籠石に行く道の続き−−−雷山神籠石に行く道の続き



雷山神籠石への道標−−−−−−−雷山神籠石が見えてきた−−−神籠石の北水門に到着
 三坂から雷山神籠石まで歩いて登ったことがある人が、次に示す『万葉集』巻二十の四三七二番の歌を見たら、どう思うであろうか。
	阿志加良能	美佐可多麻波理
	可閇理美須	阿例波久江由久
	阿良志 母	多志夜波婆可流
母	多志夜波婆可流
	不破乃世 久江
	久江 和波由久
和波由久
	牟麻能都米	都久志能佐 尓
尓
	知麻利為 阿例波伊波
	阿例波伊波 牟
牟
	母呂
 波	佐
波	佐 久等麻
久等麻 須
須
	可閇利久麻 尓
尓
	 右一首倭文部可良麻呂
 分かりやすくするために、岩波文庫版(『万葉集』一九二七年)の漢字と仮名が混じった文を添えておく。
	足柄の		み坂たまはり
	顧みず		吾は越え行く
	荒男も		立しやはばかる
	不破の 越えて吾は行く
	越えて吾は行く
	馬の蹄		筑紫の崎に
	留りゐて	吾は齋はむ
	諸は		幸くと申す
	歸り來までに
	  右の一首は倭文部可良麻呂
 倭文は、『日本書紀』の天武十三年十二月の条に、「倭文連(倭文、此云之頭於利。)」と記されている。()内は細字二行。
 「筑紫の崎に」と詠まれているから、当然この歌は筑紫の国で詠まれている。雷山を良く知っている人が、この歌を見れば、「み坂」とは前原市大字三坂であると思うであろう。ここは筑紫の国の中であるし、海に近い。「筑紫の崎に」合致する所である。
 前原市大字三坂は、雷山の登山口であり、雷山神籠石への登山口でもある。三坂の交差点からは、雷山神籠石の北の水門の所が見えている。三坂は、雷山神籠石を守る防人が住む所として、納得できる場所である。
 「筑紫の崎に 留りゐて 吾は齋はむ 諸は 幸くと申す 歸り來までに」から、作者である倭文部可良 呂は防人であることが分かる。
呂は防人であることが分かる。
 「足柄の み坂たまはり」は、『令義解』の軍防令の防人の条の「給空閑地」という規定に合致する。『令義解』とは、『養老律令』の令の平安時代に作られた解説書である。
 軍防令には、「 防人在防。十日放一日休暇。」と記されていて、防人は十日に一日休む。倭文部可良
防人在防。十日放一日休暇。」と記されていて、防人は十日に一日休む。倭文部可良 呂は、九日間毎日三坂から雷山神籠石に通勤していたのであろうか、それとも雷山神籠石に出勤すると九日間いたのであろうか。それは分からない。倭文部可良
呂は、九日間毎日三坂から雷山神籠石に通勤していたのであろうか、それとも雷山神籠石に出勤すると九日間いたのであろうか。それは分からない。倭文部可良 呂は、三坂から雷山神籠石にむかっている時か、雷山神籠石から三坂に向かっている時に、この歌を詠んだと思われる。
呂は、三坂から雷山神籠石にむかっている時か、雷山神籠石から三坂に向かっている時に、この歌を詠んだと思われる。
 以上のことから、この歌の作者である倭文部可良 呂は、雷山神籠石を守る防人であることが分かる。
呂は、雷山神籠石を守る防人であることが分かる。
 筑紫に足柄があるのかと疑問に思う人には『万葉集』の次の歌を紹介しておく。
	造筑紫觀世音寺別 沙弥満誓歌一首
沙弥満誓歌一首
三九一  鳥総立 足柄山 船木伐 樹
 船木伐 樹 伐帰都 安多良船材
伐帰都 安多良船材
 『万葉集』の防人の歌は提出された8世紀に作られていると主張する人もいるであろう。雷山神籠石は七世紀かそれ以前に作られていたと考えられている。八世紀に雷山神籠石が使われていたとは思えないから、この歌は雷山神籠石と無関係と主張する人もいるだろう。
 しかし 『万葉集』には訓読みが出てくる歌が多い。防人の歌のほとんどは、訓読みは出てこず、万葉仮名のみである。
 『万葉集』の中で、訓読みが出てくる七世紀の歌より、訓読みが出てこない防人の歌が新しいとは思えない。万葉集の中で防人達の歌が最も古いはずである。倭文部可良麻呂の歌は提出された八世紀よりも古い歌であり、さらに7世紀以前の古い歌なのである。倭文部可良 呂は雷山神籠石を守っていた防人と考えるべきである。
呂は雷山神籠石を守っていた防人と考えるべきである。
 不破関は関ケ原だと思う人は関ケ原は不破関でないを参照してください。
 さて、不破乃世 の正体を探ってみよう。
の正体を探ってみよう。
 倭文部可良 呂の歌によれば、不破乃世
呂の歌によれば、不破乃世 は雷山神籠石に関係していた物であった。これを解明するためには、三坂から雷山神籠石まで登ってみる必要がある。
は雷山神籠石に関係していた物であった。これを解明するためには、三坂から雷山神籠石まで登ってみる必要がある。
 わたしは、藤坂橋から雷山神籠石まで登ってみることにした。三坂と藤坂橋まではバスで行き、藤坂橋からは歩いた。この間、関所を置けるような場所はない。その時、不破乃世 とは雷山神籠石の水門であることに気づいた。
とは雷山神籠石の水門であることに気づいた。
 倭文部可良麻呂は、雷山神籠石の水門を不破乃世 と呼ぶことにより、難攻不落の雷山神籠石を称賛しているのである。
と呼ぶことにより、難攻不落の雷山神籠石を称賛しているのである。
 それならば、雷山神籠石の水門を不破乃世 と呼び始めたのは、この歌の作者である倭文部可良麻呂である。倭文部可良麻呂の文才に感嘆する。不破は難攻不落の城を意味することになる。
と呼び始めたのは、この歌の作者である倭文部可良麻呂である。倭文部可良麻呂の文才に感嘆する。不破は難攻不落の城を意味することになる。
山背の筒城は雷山神籠石も雷山神籠石についての研究です。
関ケ原は不破関でない、大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)、天武天皇は二人いた、「不破道を塞げ」と瀬田観音も読まれてください。
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