アウシュビッツ(ポーランド)(上) 大虐殺 なぜ起きたのか
初冬の東欧は、季節外れの陽気に包まれていた。ポーランド南部の小さな街、オシフィエンチム。ドイツ名はアウシュビッツ‐。ナチス・ドイツによる大虐殺(ホロコースト)が行われた強制収容所は現在、国立博物館として一般に公開されている。
「アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)」。収容者を欺いた、ドイツ語の有名なスローガンが書かれた入場門をくぐり、入った展示室の一室。少しピンぼけのモノクロ写真パネルの前に人だかりができていた。全裸の女性たちが白昼、林の中を走っている様子が写っている。胸の前で腕をかき抱き、恥ずかしさと恐怖に震えているようだ。写真の説明文には、こう書かれていた。
「ガス室へと追い立てられるユダヤの女性たち‐アウシュビッツ第2収容所ビルケナウ、1944年」
別の収容者が看守の目を盗んでひそかに撮影したという。斜めに傾いた構図からは、70年前の撮影者の緊張感がじかに伝わってくる。衝撃的な写真に、見学者は必ずと言っていいほど足を止める。
突然、見学者の女性が失神した。覚悟はしていても、心の負担は重い。博物館も入場を「14歳以上が適当」としているほどだ。それでも、2012年には入場者が初めて140万人を超え、10年で約3倍となった。混雑回避のため、博物館公認のガイドなしでは入場できない時間帯もある。今年の入場者は過去最高を更新する見通しという。
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「ヨーロッパの危機感の表れです」。入場者急増の理由について、約260人いる公認ガイドの中でただ一人の日本人である中谷剛さん(48)が、私を含めた日本人見学者に語りかけた。
ヨーロッパに広がる経済不安と蓄積する不満。台頭する極右勢力。移民や難民など社会的弱者への差別や攻撃。現在の社会情勢を、ナチス・ドイツが現れた第2次世界大戦前と重ね合わせる人は多い。
ヨーロッパ各国では「同じ過ちを繰り返してはいけない」と、学校単位でのアウシュビッツ見学が増えているという。加害側であるドイツも例外ではない。
中谷さんが問いかける。「日本人の皆さんも考えてください。なぜ、ドイツのような文化水準の高い国が、ホロコーストを起こしたのかを」
博物館によると、収容所が設置された1940年6月から、ソ連軍によって解放される1945年1月までの約4年半の間に、少なくとも130万人がアウシュビッツに送られ、110万人が命を落とした。1日平均600人以上が殺されたことになる。
「あそこが収容所の所長だったルドルフ・ヘスの家です。妻や子供5人と普通に暮らしていました」。中谷さんが指さした先は、ガス室からわずか300メートルほどしか離れていなかった。戦後、ヘスは収容所の敷地内で公開処刑されるが、最後まで謝罪の言葉を述べなかったという。
「『国家の命令に従っただけだ』と釈明するヘスに罪悪感はなかったと思います。なぜか。その答えを、このアウシュビッツで探してほしい」。中谷さんは、再び問いを重ねた。
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●メモ
日本からポーランドへの直行便はないので、パリやアムステルダムなどヨーロッパの主要都市を経由して、ポーランド南部の古都クラクフへ。クラクフからオシフィエンチム(アウシュビッツ)へはバスで所要約1時間40分から2時間。アウシュビッツとビルケナウの間は無料シャトルバスが走っている。
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【ワードBOX】アウシュビッツ強制収容所
ナチス・ドイツが1940年6月、交通の要衝だったポーランド南部のオシフィエンチムに、占領したポーランドの政治犯を収容するため、旧ポーランド軍の宿舎だった建物などを利用して開設。街はドイツ風の「アウシュビッツ」という名前に改称された。ユダヤ人やソ連軍捕虜、少数民族のロマの人たちを収容するようになると、収容者を労働力に増設を繰り返し、敷地は20万平方メートルに広がった。
41年には約3キロ離れたブジェジンカ村に第2収容所が開設され、「ビルケナウ」と名付けられた。約140万平方メートルという広大な敷地にはガス室と焼却炉を備えた建物が4カ所もあった。42年にも、近郊のモノビッツェ村に第3収容所「モノビッツ」が建設されたが、現在、第3収容所は残っていない。ナチス・ドイツは42年にはアウシュビッツをユダヤ人などの「絶滅収容所」と位置付け、多くの収容者をガス室に送り、殺害した。死亡者の数には諸説あるが、推定で110万人から150万人といわれ、犠牲者の9割がユダヤ人だとされている。戦争末期には記録すらとられずにガス室送りにされた人も多数いたとされ、正確な人数はわかっていない。
第2次世界大戦終結から2年後の47年、ポーランド政府は収容所跡を国立博物館として開放。79年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に指定された。
=2014/12/01 西日本新聞=