「不破道を塞げ」と瀬田観音 日出島哲雄
一 壬申の乱で大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町
熊本県大津(おおづ)町の瀬田は明治時代前期には合志(こうし)郡であった。川向かいの大津町外牧(ほかまき)は阿蘇郡であった。
「神武記」には、神武の子である神八井耳命の子孫として細字で、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君他が記されている。壬申の乱の瀬田の戦いで橋を渡った大分君稚臣は阿蘇君と同族ということになる。
瀬田の戦いの場所を滋賀県とするよりも、熊本県とするほうが納得できる。熊本県の地であったならば、橋を渡る前の地は阿蘇郡になる。阿蘇郡に大分君稚臣がいて不思議ではない。説明は不要である。滋賀県とするなら、説明が必要となる。
外牧神社は阿蘇一の宮の健盤龍神を祀っている。外牧神社の由緒は以下のとおりである。
外牧神社(阿蘇一の宮)の由緒
御祭神 健盤龍神
御祭礼 十一月二十九日
鎮座 寛文十一年(西暦一、六七一年)
古境目の狐石に創建される
遷座 延宝八年(一、六八0年)
現在地の葉山殿に遷宮される
・・・・・中略・・・・・
本神社の下に数百年の昔から冷泉が湧き出ております。
写真は阿蘇一の宮を祀る外牧神社。
写真の境目は外牧神社(阿蘇一の宮)の由緒に書かれている。
写真は狐石と思われる岩。ここに外牧神社(阿蘇一の宮)があったという。
外牧神社の近くに南郷往還という道の入口があり、その説明板がある。説明を紹介しておく。南郷は阿蘇郡の村の一つであった。
南郷往還は大津と南郷を結ぶ重要な道路で、江戸期の南郷の人々は、年貢米を馬の背に上大津のお倉まで運んでいました。鶴口(大津)から吐(はけ)(大津)の東、吹田(ふけだ)、大林を経て代官橋を渡った道はここから山道に通じています。
ここには、地域の鎮守として江戸前期寛文一一年(一六七一)に勧請された外牧阿蘇神社や、阿蘇郡布田(ふた)手永の外牧代官として地域の民政を務めた国武氏の屋敷があった外牧村の中心街でした。代官屋敷の跡は、現在東福寺の境内となっています。
江戸期の往還は、ここからさらに山道を東に登り、山向山(きたむきやま)山頂近くの北側を横切りながら長陽(南郷)へと通じていました。昔ところどころに石畳が残っていたそうです。まさに、この入口は、大津白川の平地から阿蘇外輪山に分け入る場所として、阿蘇の神々が守る里と山の境界に位置していました。
写真は南郷往還。大分君稚臣が通ったかもしれない。
二 瀬田観音は智尊がいた寺で弘文天皇の内裏の西殿
古田武彦氏は『壬申大乱』を二00一年一0月に出版された。その中で、東国入りの馬の行程に疑問を持たれ、壬申の乱が九州で勃発したという説を出された。この時、古田氏は熊本県大津町に瀬田があることを御存知なかった。
「不破道を塞げ─壬申の乱は九州─」を『古田史学論集 第十一集古代に真実を求めて』(二00八年三月三十一日、明石書店)に私は発表した。
この中で、大分君稚臣が橋を渡った瀬田が熊本県大津町であることを示した。他にも、関ケ原の関所が不破関とは呼ばれていなかったこと、不破乃世伎が雷山神籠石に今でもあること、弘文天皇(大友皇子)の最後の地である山前が鞠智城のふもとにあること、天武天皇が二人の人物の合成であることを示した。
「不破道を塞げ 二瀬田観音と内裏攻め」(第十二集、二00九年三月三十一日)では熊本県大津町の瀬田観音を取り上げた。
この中で、瀬田観音は壬申の乱の前からあった寺であり、瀬田を守っていた将である智尊は僧と思われることを述べた。智尊が守っていた瀬田には寺があって当然である。それが瀬田観音なのである。さらに、瀬田観音が弘文天皇(大友皇子)の内裏の西殿であったことを示した。
「不破道を塞げ 三天子宮が祀るは、瀬田観音にいた多利思北孤」(第十三集、二0一0年三月三十一日)では、瀬田観音に日出づる処の天子であった多利思北孤がいたことを示している。九州王朝の天子が瀬田観音堂にいたことがあるのである。
写真は九州産交バスの瀬田観音前バス停。
瀬田観音前のバス停から東へ1分ほど歩くと、瀬田観音堂がある。
写真は瀬田観音堂。弘文天皇の内裏の西殿であった。
写真は瀬田観音堂の裏の白川の流れ。
三 東に天帝の星を祀る瀬田神社、西に天子宮が二つ
瀬田観音堂から東に10分ほど歩くと、瀬田神社がある。この神社は妙見宮を祀っているという。妙見とは北斗七星、すなわち天帝の星である。
瀬田観音堂から西に40分ほど歩くと、大津町吹田の公民館がある。その東にある祠は天子宮である。ここから西に歩くと、白川沿いに鳥居が見える。吹田の天子宮は、この鳥居がある所から遷宮したという。
鳥居が見える所から西に橋が見える。この橋を目指して行くと、大津町森の天子宮がある。
天子宮について詳しくは荒金卓也氏の『九州古代王朝の謎』(海鳥社、2002年11月1日)を参照。
写真は天帝の星を祀る瀬田神社。
写真は吹田の天子宮跡の鳥居。
写真は森の天子宮。
四 「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視する東国入りはトンデモ説
第一節で紹介した南郷往還の説明には「年貢米を馬の背に上大津のお倉まで運んでいました。」という記述がある。年貢米を運んだ馬に人が乗った記述はない。
「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を思い出した。これは古田武彦氏が『壬申大乱』で引用されている三森堯司氏の論文「馬から見た壬申の乱ー騎兵の体験から『壬申紀』への疑問ー」の中の言葉である。古田氏がこれを引用されている箇所は次のとおりである。
・・・・大海人本隊が吉野を出発してまもなく、「伊勢の駄(におひうま)五十匹」に会い、これに「乗馬」して山中を行軍した、という件だ。
これにつき、三森氏は言われる。
「大海人本隊は、徒歩と馬で一六0キロを丸二昼夜ちょっとで、三重郡家までの徹宵行軍であった。しかも田部隊のほとりで、湯沐の米を運ぶ伊勢の駄(におひうま)五十匹に遇って、積んでいる米を捨てて徒歩のもの全員が乗馬したというから、女官達十人有余は騎乗したことになる。婦人の乗馬についてはここではふれないが、何んでもかんでも馬があれば乗れると考えている。騎乗するには、鞍・銜・面繫・毛綱という準備が必要であり、駄馬が乗馬になることはぜったいにない。」
三森氏は、この著名な挿話に対し、正面からその真実性(リアリティ)をキッパリと否定されたのである。
「毛綱」は「手綱」だと思われる。この後には、壬申の乱の行軍の真実性(リアリティ)を否定する記述が続く。壬申の乱の東国入りは、「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視するトンデモ説なのである。
古田武彦氏の九州王朝説をよく学んだ人は「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を守っている。しかし、古田氏の説の支持者と称しているけど『壬申大乱』をまともに読んでいない人たちの中に、これを破る人たちが出てきた。
彼らは東国入りを九州に持ち込む説を唱えている。これらを私は「東国九州持ち込み論」と読んでいる。壬申の乱九州説では決してない。壬申の乱で大分君稚臣が橋を渡った瀬田は熊本県大津町であることで、壬申の乱は九州の事件だったと分かるのである。東国入りを九州に持ち込むのは有害無益である。トンデモ説の一つである
「東国九州持ち込み説」を私は二つ知っている。一つは瀬田を無視して、近江の戦いを近畿とする。結局、壬申の乱近畿説の一つである。
もう一つは、瀬田を熊本県大津町とする。しかし、これは豊後を東国にするためだけである。上に述べた瀬田観音、智尊、天子宮、南郷往還等を隠している。これらは豊後東国論に都合が悪いのである。
どちらの説も「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」を無視している。これらが出てきたのは九州王朝説の危機である。
豊後東国説を久留米大学公開講座で大矢野栄次教授が2009年からしつこく繰り返しいる。ただし、大矢野栄次教授は豊後東国説とはいわない。豊後東国説というと人が来ないからである。壬申の乱九州説と思わせて人を集めてから、パワーポイントを使って嘘八百の豊後東国説を覚え込ませている。
九州王朝説の支持者たちは、東国を九州に持ち込むのを九州王朝説の危機だと思っていない。それゆえ、私はとても心配している。九州王朝説を守るために本頁を作成した。
付録 『古田史学論集 古代に真実を求めて』(明石書店)に発表している論文の目次
「不破道を塞げ──壬申の乱は九州」(第十一集、二00八年三月三十一日)
一 関ケ原は不破関でない
二 雷山神籠石の防人と不破乃世伎
三 大友皇子と鞠智城
四 天武天皇は二人いた
「不破道を塞げ二瀬田観音と内裏攻め」(第十二集、二00九年三月三十一日)
一 天子宮から瀬田観音へ
二 瀬田の対岸に阿蘇神社
三 瀬田観音は内裏の西殿
四 山前が定まらない近畿説と定まる九州説
「不破道を塞げ三天子宮が祀るは、瀬田観音にいた多利思北孤」(第十三集、二0一0年四月)
一 瀬田の北西から西に竹林、筱浪(ささなみ)か
一・一 鉄器環濠集落、西弥護免遺跡
一・二 竹林多く近くに旧名苦竹、小竹(筱)もある
一・三 苦竹(にがたけ)村と塔迫(とうのさこ)村
二 竹は弓矢の材料
三 更に西の龍田(たつだ)町弓削にも竹森、こちらが筱浪か
三・一 弓削廃寺と法皇大明神社・法皇宮
四 天子宮の祭神が掘った井手が瀬田から延びる
四・一 観世音寺と瀬田観音
四・二 天子または法皇の時代にさかのぼる壬申の乱の原因
「不破道を塞げ四高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ」(第十四集、二0一一年四月)
一 「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」で残るは「發美濃師三千人、得塞不破道」
一・一 不破駅は東山道、東海道からの直通駅路はない
一・二 「駄馬が乗馬になることはぜったいにない」で、東海道から不破に行く話は消える
一・三 残るは「發美濃師三千人、得塞不破道」
二 美濃師三千人は高良山神籠石の正規軍隊、近くに御井駅
二・一 師は二千五百人、軍は一万二千五百人、五百人は旅
二・二 「差發諸軍、急塞不破道」の著者と「發美濃師三千人、得塞不破道」の著者は別人
二・三 高良山神籠石がある水縄(耳納)山地は師三千人がいた「みの」または「みのう」といえる
二・四 高良山神籠石の近くに御井駅
三 不破乃世伎は筑紫の比菩駅の近くの雷山神籠石の水門
三・一 「ふわのせき」と読めるのは『万葉集』四三七二番の「不破乃世伎」だけ
三・二 水門が不破乃世伎と呼ばれた雷山神籠石
三・三 雷山神籠石の近くに比菩駅
三・四 不破乃世伎の歌は百済が亡びる前
四 不破乃世伎と瀬田観音を結ぶ駅路が不破道、間に美濃師三千人
四・一 不破道は天子宮を結ぶ駅路でもあった
四・二 不破は高良山神籠石と雷山神籠石の間にある基肄城
四・三 大分君稚臣は同族阿蘇君の本拠地から瀬田に渡った
四・四 弘文天皇が天智天皇の子という『日本書紀』の記述は信用できない
四・五 不破道を塞いで有効なのは弘文天皇が葛野駅から御井駅に向かう時だけ
「不破道を塞げ五古人は白村江の勇将の主君、吉野山・瀬田・山前は妙見を祀る」(第十五集、二○一二年)
一 白村江の朴市田来津(えちのたくつ)の主君は古人皇子、筑紫君薩夜麻か
一・一 朴市田来津(えちのたくつ)の主君は筑紫君薩夜麻、古田説
一・二 古人皇子は朴市田来津の主君
一・三 古人大兄皇子の女倭姫王の筑紫君薩夜麻の女説
二 薩夜麻の三十一回の吉野行きと古人の吉野山入り
二・一 「持統紀」の三十一回の吉野行きは薩夜麻の可能性大
二・二 出家を願い吉野に入る古人大兄
二・三 古人皇子の謀反と吉野山入り
三 吉野山・瀬田・山前・八代は妙見を祀る
三・一 球磨駅と肥後国府の近くの吉野山古墳群
三・二 近くにエクアドルのヴァルディビア土器と類似した縄文土器の阿高遺跡
三・三 球磨駅の二つ先の片野駅の近くに八代の妙見宮
三・四 吉野山古墳群に妙見神社と益城軍団
三・五 益城軍団の地は天神原
三・六 瀬田観音堂の東に妙見を祀る瀬田神社
三・七 山崎古墳の番地に妙見宮と天満宮
三・八 吉野山・瀬田・山前の妙見宮は八代のより古い
四 八代の妙見は浦島太郎が行った所から来た、そこはエクアドル
四・一 八代の妙見は亀蛇に駕して来た、浦島太郎に似ている
四・二 八代の妙見は浦島太郎が行った所から来た、浦島太郎はエクアドルに行った
四・三 八代の妙見はエクアドルから来た船に祀られていたことになる
四・四 古人皇子の吉野山入りはエクアドル航海船に妙見を分祀するためだったことになる
四・五 三十一回の吉野行きはエクアドルへの避難のためだったことになる
現在は九州王朝の中心地域に壊されたと思われる妙見の跡が四つあることに注目している。そのうち二つには行った。残りの二つの妙見の跡には行けないでいる。これらが壊された時期が壬申の乱の時であるかどうかを調べる必要がある。一年ではできそうもない。
関ケ原は不破関でない、雷山神籠石の防人と不破乃世伎、大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)、天武天皇は二人いたも読まれてください。
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