飛鳥時代。
右大臣。
「臣」姓。
父は蘇我倉麻呂。
「蘇我石川麻呂」「蘇我倉山田麻呂」
「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」と称される。
蘇我氏。
皇極天皇3(644)年、
蘇我氏傍流である倉山田石川麻呂と、
中大兄皇子(後の天智天皇)の関係を強化することによって、
蘇我入鹿の専横に対抗しようと画策する中臣鎌足が接近。
倉山田石川麻呂は鎌足の計画に沿う形で、
自らの長女を中大兄皇子の妻として関係を深めるようとする。
しかし、蘇我身狭によって、倉山田石川麻呂の長女は略奪されてしまう。
この身狭とは、倉山田石川麻呂の異母弟の日向のこととされる。
途方に暮れる倉山田石川麻呂に対して、次女が、身代わりに、
中大兄皇子の妃となることを申し出て、
この婚姻は成功裏に終わる。
この次女こそは、大田皇女、菟野皇女(後の持統天皇)、
そして建皇子の生母となる遠智娘(造媛)である。
皇極天皇4(645)年、
蘇我氏政権の転覆のために
「入鹿暗殺」のクーデター計画を中大兄皇子から打ち明けられる。
その計画の中で、倉山田石川麻呂は皇極天皇の前において、
「三韓の上表文」を読み上げる役を担うこととなる。
運命の6月12日。
大極殿において、皇極天皇、古人大兄皇子、
そして入鹿が出席する席において、倉山田石川麻呂は、
「三韓の上表文」を読み上げる。
しかし一向に、暗殺は実行されず、
上表文も残り少なくなり倉山田石川麻呂は、
冷や汗が噴き出て、上表文を持つ手も震え出して来てしまう。
この倉山田石川麻呂の様子を不審に思った入鹿から、
『何故か掉ひ戦く』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と尋ねられて、咄嗟に、
『天皇に近つけるに恐みに、不覚にして汗流づる』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と倉山田石川麻呂は応えている。
倉山田石川麻呂は計画が失敗に終わったと、そう思った、
次の瞬間、中大兄皇子が入鹿に斬り掛かり、
佐伯子麻呂や稚犬養網田によって、
止めが刺された。
翌日には、入鹿の父の蘇我蝦夷も、自らの屋敷に火を放ち、
ここに蘇我氏本宗家は終焉を迎える。
皇極天皇に代わり、即位した孝徳天皇を中心に「改新政権」が誕生する。
倉山田石川麻呂は、その功績によって右大臣に就任し、
皇太子となった中大兄皇子、左大臣に就いた阿倍内麻呂に次ぐ存在として、
新政権の中枢に参画することとなる。
また娘の乳娘が孝徳天皇の妃となる。
さらに先の遠智娘に続き、時期は未詳ながら、
姪娘も中大兄皇子の妃としている。
倉山田石川麻呂の閨閥は、新政権において、
群を抜いていた。
こうして新政権で重きをなす倉山田石川麻呂に対して、
孝徳天皇の信任も厚く、様々な詔をもって相談されている。
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倉山田石川麻呂も、仏教に傾倒していた孝徳天皇に対して、
神祇を祀るように奏上する等、君臣の間柄は、
極めて良好であった。
だが大化4(648)年、
ひとつの出来事が正史に記されている。
『古き冠を罷む。左右大臣、猶古き冠を着る』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
この前年の大化3(647)年に、
旧来の冠位を廃止し「冠位十三階」が制定されたが、
内麻呂と倉山田石川麻呂は古冠を使用し続けたのである。
大化5(649)年には、この二人を時代に置き去りにするかの如く、
矢継ぎ早に「冠位十九階」が制定される。
同年3月17日、内麻呂が死去。
それから僅か一週間後の3月24日になって、
日向が、倉山田石川麻呂が中大兄皇子の暗殺を目論み、
謀反を計画していると中大兄皇子に密告する。
孝徳天皇は、倉山田石川麻呂のもとに使者を派遣し、
その無実を証明しようと懸命に助命しようと努力するものの、
遂には朝廷軍が倉山田石川麻呂の邸宅を、
完全に包囲する。
倉山田石川麻呂は、
朝廷軍が来る前に屋敷を脱出し、
子供の法師と赤猪を伴い氏寺である山田寺に入る。
3月25日、倉山田石川麻呂は、
子供の興志を始め徹底抗戦を主張する者たちを諭し、
死してなお、天皇に忠節を尽くすことを誓い、
自ら頚をくくり逍遥として死に臨んだ。
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妻や子供たち総勢8人も、
倉山田石川麻呂の後を
静かに追った。
木麻呂や日向らが率いる朝廷軍は、
山田寺の中から倉山田石川麻呂の遺骸を見つけ出すと、
物部二田塩に命じて、その遺骸から頚を斬り取ると言う
仕打ちを加えている。
《関係略図》
蘇我馬子━━━━┳蝦夷━━入鹿 ┗倉麻呂━倉山田石川麻呂┳興志 ┣法師 ┣赤猪 ┣女子 ┣遠智娘(造媛) ┃│ ┃└────────────┐ ┃ │ ┣姪娘 │ ┃│ │ ┃└───────────┐│ ┃ ││ ┗乳娘 ││ │ ││ └───────────┼┼┐ │││ ┌───────────┘││ ┌────┐ │ ││ │ │ │ ││ │ │ ┝━━━━━┳阿閇皇女 ││ │ │ │ ┗御名部皇女 ││ 押坂彦人大兄皇子┳舒明天皇 │ │ ││ ┃ ┝━━━━┳中大兄皇子 ││ ┃ │ ┃│ ││ ┃ │ ┃┝━━━━━┳大田皇女 ││ ┃ │ ┃│ ┣菟野皇女 ││ ┃ │ ┃│ ┗建皇子 ││ ┃ │ ┃│ ││ ┃ │ ┃└────────────┘│ ┃ │ ┃ │ ┃ │ ┣大海人皇子 │ ┃ │ ┗間人皇女 │ ┃ │ │ ┗茅渟王━┳皇極天皇 │ ┗孝徳天皇 │ │ │ └───────────────────┘
蘇我倉山田石川麻呂は、
剛毅果敢にして他の豪族たちからの人望も厚い人物であった。
このために中臣鎌足は、倉山田石川麻呂を、
どうしても改新派の一員に加えることの必要を痛感していたと言われる。
また中大兄皇子との婚姻も、
倉山田石川麻呂が皇室と婚姻関係を結んだと言うこと以上に、
中大兄皇子の朝堂内での存在感を高めることに
大いに貢献したものと見られる。
つまり倉山田石川麻呂と言う人物がいなくては、
『大化改新(乙巳の変)』そのものが、
成功し得なかったのである。
しかし改新政権による改革が推進されると、
旧豪族の権益は「公地公民」制の前に失われ、
天皇を中心とする中央集権体制が急速に形作られる。
この状況に、倉山田石川麻呂は、とまどい悩むこととなる。
そして多くの旧豪族たちも倉山田石川麻呂に不満を訴えることで、
倉山田石川麻呂の周辺には、自然と反改新派が、
結集することになったと考えられる。
蘇我日向の密告を契機にして、謀反の疑いがかけられても
あくまでも「直接天皇と会って話がしたい」と述べたという話が残されているが、
その言葉を倉山田石川麻呂が体制という中での「機関としての右大臣」でなく
「豪族としての右大臣」として発した言葉であると受け取れば、
倉山田石川麻呂の気持ちがより理解できる。
倉山田石川麻呂には名門蘇我氏のプライドがあった。
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だが朝廷軍を相手に徹底抗戦を主張し、
小墾田宮の焼き討ちを立案した興志らを前にして、
『夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふることを構へむ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と語りかけ、倉山田石川麻呂は、
朝敵となることを諌めている。
そして、
『願はくは我、生生世世に、君を怨みじ』
(『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 岩波書店)
と最期のその刹那まで天皇に忠節を誓って、
自ら命を絶っている。
倉山田石川麻呂は豪族としての立場よりも、
最終的には右大臣の立場を、
重んじたのである。
倉山田石川麻呂が自害に追い込まれてから後、
中大兄皇子は、倉山田石川麻呂の財産を没収したが、
その没収した財産の全てに「中大兄皇子のもの」と書かれてあった。
このことは朝堂内外に大きな反響を呼び起こすこととなり、
中大兄皇子は、自らに向けられた声無き不満の声を前にして、
蘇我日向を筑紫帥として中央から遠ざけることで、
事件の幕引きを図らねばならなかった。
こうして『大化改新(乙巳の変)』は、
蘇我入鹿の専制を打倒するために蘇我本宗家を粛清した上で、
さらにその後に樹立された改新政権でも、倉山田石川麻呂を粛清すると言う
二段階の粛清によって、ようやく完成されるのである。
倉山田石川麻呂は古代日本が、
律令制へと大きく動き始めた時代にあって、
その時代の歯車を大きく前へ押し動かしながらも、
その歯車によって押し潰されてしまったかのような存在であった。
また正史は倉山田石川麻呂を「忠臣」として描いているが、
それは後の皇統が倉山田石川麻呂の血縁に
連なることと無縁では無いと思われる。
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このように倉山田石川麻呂は、
日本古代史において、その方向性に大きな影響を与えたと言う点で、
極めて重要な人物であったと言える。
そして倉山田石川麻呂の血を継ぐ者たちは、その後の律令国家で、
大きな役割を果たすこととなる。
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