ネタ切れかと思ったんですが、なんかまだチョコチョコ思いつくので・・・
えっと、レベレージのことです。
山本プロがよく説明されています、レベレージが大事だと、PBA ではみんなやってるそうです。
で、僕なりのレベレージの解釈ですが、それは体でボールを振る、ということです。
うまい人は、主観的には、腕を振りません。(自然に振っている)
物理的には腕を振っているのに、主観的には振る必要がないのは、レベレージができているから、という僕の考えです。
レベレージって何?というのは、結局、リリースにおける、体の土台ができていること、と解釈します。
(じゃあ体の土台は?となると、物理的に安定していて、人の脳が、そのバランスをとるために意識的な神経のコントロールでバランスをとり続ける必要性のない、力学的に安定した状態、というくらいの意味でしょうか??)
体の土台ができているので、ボールは振り子の動き、&無意識に起こしている肩の付け根の回転軸の移動、によって、腕とボールは本来勝手にスイングされるはずです。
いえ、正確には、それは自然にスイングされていて、かつ自分で腕を振っている、という2つの状態が共存している状態なのですが。
でも、当初へたくそなときは、だれでも意図的に腕を振ってボールを投げようとするので、上達の過程で、一時的に腕は自然にスイングされて意識する必要がない、という状態を経るものだと思っています。途中経過として。
最終的には、神経は通いながらも、能動的な腕の振りは存在しない、という、理想のボディースイング&理想の手投げ(これもどっちも同じです、ボディースイングと手投げは極限において一致します)
になります。
この状態を作り上げるために、リリースにおけるレベレージが不可欠と感じます。
前後左右のバランスが完全に保たれた体のリリース状態では、主観的にも腕振りの必要がなくなります。
感覚的には、腕の振りをコントロールすることで、体等で全体のバランスを取るために神経を使う必要がない、ということです。
ボウリングでは、すごく重たいボールを体の片方で投げるため、初心者は無意識に、ボ-ルを振る腕の動きを加減して、投げてる間転ばないようバランスをとり続けています。
それは、地球と月がお互いに引っ張りあいっこしてバランスをとっているような感じです。こうなると、感覚的にも非常に複雑になり、物理的にも実際力学の2体問題風のややこしい感じになるのではないでしょうか?
この複雑な動作を一切排除するために必要なことがレベレージです。
それは物理的に完全なリリースにおけるバランスが保証されているため、投げている人は、腕が勝手にスイングされるのをただ感じているだけでよくなります。
それは、レベレージによって完全に安定した体、という土台が、肩の付け根を通して、腕とボールのスイングの系を、操る、という感覚になります。
つまり人格が深い意味で分離し、右肩の付け根から先は、自分の体ではない、ということになります。
肩から紐がぶら下がっていて、先にボールが着いている、ということです。ただし神経の通った紐ですが。
そういう風に自分の腕を客観的に操れるからこそ、正確なスイングや複雑なテクニックも可能ではないか? と、まあこれは、ゴルフをやってて思ったのですが、ボウリングも多分同じですねー。
一度自分の腕を、道具として、自己から切り離し、そして改めて、集中力によって、その道具である腕と一体化する、それによって、道具である腕を自由自在に操ることができる、当然ボールもですが、そういう風に考えます。
これは、以前に書いた、カリビアントレーニングの基本的な仕組みと同じじゃないでしょうか?
意識と無意識、人はこの2つをばらばらにしか扱えませんが、真の理想は、この2つが同時に成立するところにあります。
カリビアントレーニングは、まさにこの2つの融合した状態を、体に自然に覚えさえるのにもっとも最短距離の練習法じゃないかな?と思います。
つまり、重たいボールで、最も意識的なスイングを練習し、軽いボールで、最も意識する必要のない無意識のスイングを練習する、この2つをかわるがわる行うことで、神経が通いながらも道具として自分の体を操る、という理想状態を実現するように近づく、ということです。
後付の理屈ですが~。
なのでボウリングでも、重たいボールと軽いボールを交代で投げていたら、たぶん自然にレベレージは身につく、と想像します。
それは、腕を振ろう、という自分の人格と、体を使おう、という自分の人格を、一度完璧に切り離してしまい、そこから集中力で、再融合する、という変化になります。再融合すると、非常に理解が深まります。
それは、ボウリングのボールを投げる、ということがどういうことか? というその本質を体で理解できるからです。
レベレージでは、前後と同時に、左右のバランスも大事です。
左右のバランスを維持するには、腰をきる、ひねることがどうしても必要です。
たまにひねりの少ない人もいますが、そういう人は体をくの字に強く曲げて、神経による体のコントロール上、あまり効率がよくないのじゃないか? と僕は思います。
一般的に、インサイドアウトや腕のひねりを通して、リリースで体をひねって左右のバランスをとりに行くのは、だれでもやっていることです。
ただ、それでレベレージを実現している人、となると、意外にいません。
アベ180~190くらいの人でも、まだ腕と体の分離ができてなくて、レベレージのできてない人もいます。
さすがにアベ220くらいの人になると、そういう人は見ません。
それだけのハイアベレージを出すのには、腕を道具として使う前提条件であるレベレージは避けられないから、と思います。
分離ができず、スイングする腕とボールを、自己人格の内部と位置づけている限り、正確なスイングはやはり大変です。無理とはいわないですが~~、でも神経使用の効率が悪すぎます。
長丁場は無理でしょう。脳が疲れすぎて。
女子の選手で多い、腕をフォローでぶらんぶらんさせるのは、このレベレージを、腕の動き側から再現する、という試みですが、あまり僕は賛成しません。
導入部としては別にいいですが、いつまでも腕ぶらんぶらんのフォローをやっていては、本当のレベレージにたどり着けません。(とできていない僕が言います・・)
レベレージの意味が体で分かったら、もうボールを投げてから腕をぶらぶらさせる必要はありませんし。それは、レベレージ導入のきっかけだと思っています。
必要ないどころか、多分スイングの邪魔になると思います。ロケットを打ち上げたら、発射台は撤去しなくちゃ~。
つまり人格の分離と再統合、という自己同一化自他同一化の過程を経て終了できたなら、腕をぶらぶら振るのは必要ない、と思います。
後は、それは、飾り、みたいなものでしょうか。
日本では昔から、こういうのは「体を使うのが上手」とシンプルにいってきたのですが、特に野球などで。
でも、そういう把握では、あまりにアバウトすぎる、ということでしょうかねー。
昔、ロッテの伊良部投手を評して、プロの解説者が、「今の手投げの感じがなくなれば、もっとすばらしいピッチャーになるんですが~~」といわれてたのを思い出します。ずいぶん昔の話ですが。
そのころから物理的動作に興味があったのでそういう目でフォームをチェックしてたのですが、そのときの伊良部投手のフォームのどこが手投げなのか,僕にはぴんと来ませんでした。
力学的には理想に近い、と思ってたからです。
でも今そのビデオを見ると、そういう意味で解説者の人は指摘したのではないと、わかります。
それは感覚的に、投球する右腕を、上の説明を使えば、客観と主観が両立する状態でスイングしてないじゃないか? という意味の、感覚、あるいは神経と人格のコントロールの上での指摘でした。
人格単位では切り離しながらも、全神経を、その切り離した投球腕に投入していてそれによって改めて再度右腕と体は一体化する、ということ。つまり、一度切った上で、統合を行う、という、ある種のアイデンティティー自己同一化の作業、に相当します。
それは、人間関係においては、雨降って地固まる、とか、喧嘩するほど仲がいい、とたとえて言われるところの心理そのものです。
また別の例では、アメリカにいってきて帰ってこられた方が、改めて日本の良さを再認識した、というのがあります。
それは、一度日本と自分が切り離されて、日本を客観的に見ることができたからこそ、そのよさを(悪さも)再認識し、それによって、今度は心の底から日本のよさを感じ取ることができる、ということです。
良さも悪さも、その特徴も、主観のみのときより、そこに客観性や把握が組み合わさったときのほうが、そのものが持つ本来のすばらしさをより深く理解することができる、というのはあらゆるところでみられます。
客観性がなければ、主観性は、このように深まりません。
また逆に、主観性がなければ、本当に客観的に対象を観察することはできません。
なぜなら、客観と主観は、2つそろって始めて、真実や事実、現実を構成する、作り上げているからです。
つまり、右腕を操る僕の人格と、体を操る僕の人格は、一度離婚して、再び再婚できたからこそ、すばらしく仲がよく、調和と自立を持って連携して動いている、といえます~~馬鹿言ってます。
依存しあって分かれられない2人と、相手を人格として敬いながらもいつも相手のことを思いやるカップルとでは、外から見たら似ていても、全く似て非なるものですが(僕が言うか・・・)
これと同じで、体と右腕の関係も同じで、腕と体がもたれあっている、依存しあっている間は初心者です。
でも、体と腕が尊敬しあい、それぞれが独立しながらも支えあえているなら、それはすばらしい関係です。体の使い方として理想的です。それを、自己同一化、自他同一化、アイデンティティーなどといいます。
さらにほかの例ーーお酒は飲んでも飲まれるな、という標語は、まさにこの受動的と能動的の境目の、絶妙なバランスを表現している? と思います。
赤ちゃんのおしゃぶりーーこれは、おしゃぶり、という外部を、内部に取り込む感覚が、やはりアイデンティティーです。
蚊に刺されたところを書くと痒くなくなるーーという現象も、アイデンティティーの一種です。
などなど、日常生活でその例はあふれかえっています。
これは、多分、アイデンティティー、自己同一化の概念の拡張になってます。
体をうまく使って投げる、というのは、僕の感覚的には、「心の深くで、腕をスイングすることを承認する」というイメージです。「右腕よ! スイングしてもかまわないよ~」という感覚です。無意識を感じ取りに行けば、という話ですが。
これは、僕自身の現在のフォームにも当てはまっていて、悪い意味での手投げを卒業できてません。
そう問題にはしてないんですが、でもそのうちには直したいなーと思ってます。
体力的な問題もあって、この本格的な卒業は多分だいぶ後です。
インサイドアウトをまた試みようと思ってるので、それによって、いまよりは手投げ感覚を減らせるんじゃないかなー?と想像してますが、やってみないとわからないです。
取らぬ狸の皮算用では、インサイドアウトは、関節可動の限界や、ひねりによる筋肉の生理的限界そのものをスイング基準として使うことで、正確なバックスイングを再現する、と考えています。
それはただまっすぐにスイングするときは、まっすぐ引けてるかな~~?という観察が必ずいるのですが、その腕のスイング軌道に対する神経を使う必要がいらない分、インサイドアウトは有利だなーと思います。
もっとも、「まっすぐ引くんだ!」という神経すり減らしの代用になりえる、物理的限界の感覚であれば、何でも使えるので、インサイドアウトだけがスイングとは思いませんが。そのあたりは無限の組み合わせ、という感じですねー。
というか次いつ投げにいけるかな?