日本史の誕生

―通説を疑う―
まえがき
 古代史の真相を探る時、仮説を立てて検証作業を試みた。その仮説が正しければ、今まで
何となく説明が難しかった事柄が無理なく説明できると思う。日本国誕生までの仮説とは次の
ようなものである。
(1).統一日本国の誕生は白村江の敗戦・壬申の乱を経て完成した。
(2).白村江の敗戦により、筑紫に唐の占領軍本部・都督府が置かれた。
(3).壬申の乱はこの占領軍の介入によって起こされ、傀儡国家が生れた。
(4).朝鮮半島から唐軍が駆逐された後も亡命唐軍の合流により、筑紫都督府の影響力は強 
  化された。
(5).筑紫都督府の出先機関が、河内と吉野に置かれた。
(6).752年の東大寺大仏開眼式は独立記念式典だった。中国仏教の末法入りが552年で、
  公伝年より200年で仏教を国教とする律令国家の完成。
(7).主役は河内出身の持統天皇、藤原不比等、橘三千代、それに加え持統と姉弟の藤原定
  慧である。
(8).筑紫都督府の唐軍はその後、本国からの補充は途絶え、次第に高齢化、日本貴族化し
  た。
(9).定慧は唐の総理大臣格・劉仁軌の代理人であった。
(補).平城京は東大寺大仏の水銀鍍金による公害により廃都となった。

「日本史」の出来るまで(連載:-1. 十川 昌久)
 2月11日は建国記念日である。何故、この日がそうなのか。神武天皇が橿原の宮で即位をし
た日だから。出所は日本書紀によっている。
 2000年は皇紀2660年であった。戦前ならイベントが目白押しであろう。戦後は長い間、神武
から崇神までの天皇10代は架空=欠史時代としていた。しかし、何故、紀元前660年が神武即
位なのか。
 戦後が1945.8.15から始まるように、663年の白村江の敗戦から日本史は始まるのです。そ
れまでは日本列島にはいろいろな国が並存していました。一番有名なのは倭国です。倭の五
王とか「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。」などで中国
の正史にも記録されています。
 倭の五王・武の上表文は格調が高く有名です。少し長いが引用します。478年、南朝宋順帝
に、「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)は躬
(み)に甲冑(かっちゅう)を環(まと)いて、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧(やす)らかに処
(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人の五十五国を征(せい)し、西は衆夷(しゅうい)の六十六国
を服(ふく)し、渡りて海北(かいほく)の九十五国を平(たい)らぐ。王道(おうどう)は融泰(ゆうたい)
にして、土(ど)を廓(ひろ)め畿(くに)を遐(はる)かにし、累葉朝宗(るいようちょうそう)して、歳(と
し)にあやまらず。」との名文です。又、自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕
韓・七国諸軍事・安東大将軍倭国王と称した。都督とはいわば幕府の公方さまです。武王は
502年に南朝梁の武帝からも征東将軍の号を受けています。
 この梁の時代を記した「梁書」という、中国の正史があります。梁書には倭国とともに「文身
国」「扶桑国」「大漢国」「女国」などが記述されています。中でも扶桑国にはもう仏教が布教し
ています。日本書紀では仏教公伝552年です。元興寺縁起では538年です。中国の正史には
502年の倭王武から600年の遣隋使まで日本列島の国家記録はありません。600年の遣隋使
も教科書では聖徳太子となっていますが、多利思北狐と名乗り、妻がいて、後宮に女が六・七
百人いる。と記されています。当時は日本書紀では推古女帝の時代です。日本書紀という「大
本営発表」に騙されてはいけません。冷静に史実を見つめる必要があるのです。
 話は戻ります。後漢の時代鄭玄(じょうげん)(128−200)の歴史理論によると、文明は1320年
を1サイクルとして循環するとしています。神武即位・前660年から1320年後は661年百済滅亡
の翌年です。鄭玄の革命年「辛酉」にあたるのです。辛酉年は「天命が改まる年」で、辛酉の3
年後の「甲子」年は革令で「制度が革まる年」です。この甲子年は664年で白村江の敗戦の翌
年にあたるのです。そうです、「白村江の敗戦」が天皇即位の起点の年とされたのです。
                                 一続く−
「日本史」の出来るまで(連載:-2. 十川 昌久)
 前回は辛酉革命の話をしました。鄭玄の讖緯説という歴史理論から辛酉年の1月1日が太陽
暦2月11日に相当するのです。讖緯説は経書(四書五経、儒教の聖典)に対する、後漢時代に
成立した予言を中心とした緯書に記された歴史理論です。その中に易緯・辛酉革命理論があ
るのです。国家の運命を予言するなどの理由で隋・唐時代には弾圧されました。
 ところで日本書紀の暦は、雄略天皇以降は元嘉暦(げんかれき)に基づいているが、安康天
皇以前は儀鳳暦で編年されています。暦では新しい方の儀鳳暦が古い時代を記述し、古い元
嘉暦が新しい時代を記述しています。元嘉麿は南朝・宋の元嘉22年(445)に施行された暦で
す。一方の儀鳳暦は唐では麟徳2年(665)に施行されたので鱗徳暦と呼ばれ、日本には儀鳳年
間に入ってきたので儀鳳暦と呼ばれています。
 森博達氏の「日本書紀の謎を解く」という中公新書の本があります。氏の研究では、書紀の
記述はα群とβ群に分けられ、α群は持統朝に先行して記述された。唐人続守言が14巻から
21巻まで、薩弘恪が24巻から27巻までを担当した。1巻から13巻、22・23巻、28・29巻のβ群
は、文武朝に記述され和人の新羅留学生山田史御方が担当した。α群・β群ともに三宅藤麻
呂が加筆修正した。30巻の担当は紀清人である。とされています。
 細かな研究成果を転載することは避けるが、画期的な論文である。この研究結果からする
と、22巻・推古紀の十七条憲法条文はβ群の述作時代となるのです。ということは、従来聖徳
太子の業績とされてきた冠位十二階制度や十七条憲法は記録として残されていたのではな
く、書紀編纂の過程で付け加えられたものと考える方が、辻褄が合うことになるのです。
日本書紀・全30巻〈青色がβ群〉
1.神代上  7.景行・成務 13. 允恭・安康 19.欽明
25.孝徳
2.神代下 
8.仲衷
14.雄略 20.敏達 26.斉明
3. 神武  9.神功 15. 清寧・顕宗・仁賢 21. 用明・崇峻 27. 天智
4.綏靖〜開化 10.応神  16. 武烈 22. 推古  28.天武上
5.崇神  11.仁徳 17.継体 23.舒明 29. 天武下
6.垂仁 12.履中 18. 安閑・宣化 24. 皇極 30. 持統
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-3. 十川昌久)
 古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立です。古事記は推古天皇で終わり、書紀
は持統天皇で終わっています。いずれも女帝です。推古(古(いにしえ)を推量(おしはか)る)から
持統(血統を維持する)の間や、712年から720年の間は、特に注意して調べてみる必要があり
ます。書紀は「帰化」と記し、古事記は「渡来」と記しています。帰化は王権の側の意識である
のです。渡来人を同化したのではなく、渡来人がわれわれの祖先なのです。712年から720年
までの8年間は意識の変化でもあったのです。推古から持統までのドロドロとした時代の真実
を暗闇の世界に葬り、国民には万世一系の天皇に統治される神の国、対外的には仏教先進
国家として、建国の歴史としたものであると考えます。また、聖人=聖徳太子像は日本列島を
統一するシンボルとして、皇室の尊厳を確立する目的で創出されたものであること。何故なら
古事記には「聖徳太子」は登場しないのです。ですからこの8年間に「聖人君子の理想像」とし
て考え出されたと思うのです。
 聖徳太子と言うと「お札」、紙幣を思い出します。聖徳太子の肖像の紙幣は、戦後最初は百
円札でした。やがて百円札の肖像は板垣退助に変わり、何時の間にか硬貨になりました。次
は千円札です。これも伊藤博文から夏目漱石になりました。五千円札も新渡戸稲造になりまし
た。最後に一万円札も福沢諭吉になり、聖徳太子はとうとう姿を消しました。新渡戸稲造はキ
リスト教徒ですが、アメリカ留学の折り、「アーユーア・ジャパニーズ・オア・チャイニーズ?」と聞
かれ、すかさず「アーユーア・ヤンキーズ・オア・モンキーズ?」と切り替えした逸話は有名で
す。博愛主義者の新渡戸稲造でも、もう「支那」蔑視の考えが浸透していたのです。江戸時代
は朝鮮や清国は先生の国でした。世の中の流れは速いものです。
        ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-4.  十川昌久)
 隋の開皇20年(600)、たい国王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思北狐が国書を送っ
た。開皇20年は推古天皇8年に当り、多利思北狐は聖徳太子といわれている。しかし、記紀
(きき)(古事記・日本書紀)は記さず。ただ、推古8年には境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍と
して1万余の大軍を任那のために、朝鮮半島に送る。と書紀は記す。何故に新羅遠征軍を記
すのに、記念すべき第1回目の国書を送ったことは記さないのか。「隋書・たい国伝」は、その
王多利思北孤は使者を遣わし朝貢してきた。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に
致す。恙無きや。」「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと」。
 「海西の菩薩天子」は煬帝を指しているが、これは単なる褒め言葉ではない。煬帝は591年
(開皇11年)天台宗の開祖、智(ちぎ)から菩薩戒を受け、「総持菩薩」の法名を持っていた。 
 聖武天皇も鑑真を日本へ呼び寄せたのは、戒を授けて貰いたかったわけです。聖武天皇は
聖徳太子の生まれ変わりとの認識があったので、智の弟子の鑑真からどうしても受戒した
かったのです。
 「大智度論」という仏典には「経の中に説くが如くんば、日出ずる処は是れ東方、日没する処
は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方。」と書かれています。大智度論
は「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈として、インドで作られた書で、五世紀初めに鳩摩羅什(くま
らじゅう)によって、漢訳された。たい国王はこのことをよく知っていたのです。
 冠位十二階は推古11年(603)制定という。隋書に記された冠位は徳と五常の6種×2(大小)
=12から成る。五常とは儒教に言う、仁・義・礼・智・信である。徳は五常より生まれる、徳が無
いと国は滅びる。南総里見八犬伝(五常+忠・孝・梯)などは、この徳=五常を表している。徳
(八つの玉)を探し求め、お家再興を図る物語である。吉原の亡八者とは八つの徳が一つでも
あると遊郭の経営者は出来ないと云う意味である。まあ、リストラを平気で行う経営者も同じこ
とだろう。世の中が悪いと言う経営者は自分の能力が無いことを宣言しているようなものだ。世
の中の流れを見通してこそ、人の上に立てる真のリーダーである。
 教科書や一般的には、冠位十二階の説明として、推古天皇11年聖徳太子が制定した日本
最初の冠位制で、「徳・仁・礼・信・義・智」の6徳目を各大小に分け、冠と衣服の色で区別した
とある。しかし、隋書に記されているたい国の冠位は「徳・仁・義・礼・智・信」の6徳目を各大小
に分けるとあるのです。これは何を表しているのでしょうか。
 聖徳太子の冠位で「徳・仁・礼・信・義・智」となっているのは、「仁・礼・信」が「和」の支えであ
ることによるのです。十七条憲法の第一は「和をもって貴しとす」です。日本国はまだバラバラ
だったので、どうしても和をもって統一する必要があったのです。しかし、たい国の使者は徳と
五常であることを述べたのです。4条は「礼が本」、9条は「信は義の本」で「礼・信・義」となるの
です。
                  ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-5.  十川昌久)
 隋の煬帝(ようだい)の「煬」は、「礼を去り衆を遠ざく」とか「天に逆らい民を虐(しいた)ぐ」「女
性を好み、礼を遠ざく」という諡(おくりな)で悪逆の君主ということであるそうです。こんな皇帝
は、二度と出現してはならない、皇帝でありながら、その資格はないという意味をこめて、日本
でも煬帝の「帝」を「てい」と読まず、わざわざ呉音を用いて「だい」と読んでいます。書紀の編者
は隋書(成立は636年)を熟読しています。だから十七条憲法も礼が基本です。煬帝の「礼を去
る」を頭に置いているのです。なぜわざわざ「だい」なのですか。唐音なら「てい」でいいではな
いですか。意識して「だい」としているのです。推古26年秋8月1日、高麗使者が「隋の煬帝が
云々」の記事あり。
 当時の日本列島は倭(たい)国と日本国の併存、それまでは扶桑国などの多数国家の併存で
あると考えます。蝦夷国・隼人国はこの統一に参加しなかったと考えられます。隼人の反乱と
か、桓武天皇から始まる蝦夷征伐はこのことを想定させます。ただ、蝦夷国・隼人国や統一前
の国と呼ばれるものは律令体制のようなしっかりした官僚の国とは異なり部族国家のようなも
のと考えられます。
  中国の史書『梁書』では扶桑国の僧慧深が南斉・永元元年(499)に来て、「仏教は宋大明2
年(458)、西域の罫賓(けいひん)国の僧5人が来て、経典、仏像を伝えた」と記述している。仏
教の公伝は日本書紀(養老4年(720)成立)では552年、一般には538年といわれている。また、
『梁書』は日本列島には倭国、扶桑国以外に文身国、大漢国、女国があることを記述していま
す。また『宋書』では、かの有名な倭の五王、武王の上表文を紹介しています。倭王武の上表
文とは、478年南朝宋の順帝に、「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外に作
(な)す。昔より祖禰(そでい)は躬(み)に甲冑(かっちゅう)を環(まと)いて、山川(さんせん)を跋渉
(ばっしょう)し、寧(やす)らかに処(お)るに遑(いとま)あらず。東は毛人(もうじん)の五十五国を
征(せい)し、西は衆夷(しゅうい)の六十六国を服(ふく)し、渡りて海北(かいほく)の九十五国を平
(たい)らぐ。王道(おうどう)は融泰(ゆうたい)にして、土(ど)を廓(ひろ)め畿(くに)を遐(はる)かに
し、累葉朝宗(るいようちょうそう)して、歳(とし)にあやまらず、……………」との格調の高い名
文である。また、自ら使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東
大将軍倭国王と称した。と記されています。
            ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-6.  十川昌久)
 ここで倭国の対中国への遣使の状況を、かの有名な「魏志倭人伝」(正式には「三国志魏書
烏丸・鮮卑・東夷伝倭人の条」である)で見てみよう。
238年 魏、公孫氏を滅ぼす。
239年 邪馬台国女王卑弥呼、魏に遣使、「親魏倭王」の称号を授かる。
240年 魏より返礼使・梯儁(ていしゅん)。
243年 卑弥呼遣使。
265年 魏滅び、西晋建国。
266年 倭国女王壱与、西晋に遣使。
267年 西晋より返礼使・張政。
 以上を見ると、魏が公孫氏を滅ぼすと、直ぐに遣使を送り、そして返礼使が来る。また、西晋
が建国すると、直ぐに遣使を送り、返礼使が来ている事がわかる。決して気まぐれではないの
です。遣使派遣の年が翌年になるのは、正月の朝礼にいかに多くの外国の使臣が出席する
かが天子の威厳を示すバロメーターになるからです。遣唐使も正月元旦に間に合わすため、
無理をして東シナ海を渡ったので遭難も多かったのです。冬の東シナ海は時化るので有名で
す。波の静かな時期を選べば簡単に渡れるのですが、時期をずらすと難しくなるのです。この
時、倭国は「親魏倭王」という過分な称号を授かっているのです。なお、返礼使ではなく、冊封
使なのです。当時は対等な国交ではなく、一方的な臣従関係なのです。
  隋への遣使はどうであろうか。隋の建国は581年、陳を滅ぼしての天下統一は589年である。
朝鮮半島の三国は、高句麗が581年、590年と遣使している。百済は581年、新羅は594年であ
る。タイ国の600年はいかにも遅い。しかし、このあたりの考察は後回しにしよう。
 630年、太宗は突厥の内紛による分裂のタイミングを捉え、大軍で急襲し、突厥王を捕虜にし
ました。こうして突厥諸族は唐に帰順を誓い、太宗を北方諸族の大王として認め、最高位の
「天可汗(てんかがん)」の称号を与えました。今度は実にタイミングよく第1回目の遣唐使を派
遣しているのです。第1回目の遣隋使とは大違いです。表の遣隋使の記録を見てください。
<遣隋使の記録>
西暦
記 事 の 内 容
1
600
「隋書」タイ国伝(開皇20年)
2
2
607
「隋書」タイ国伝(大業3年)
*3
607
「日本書紀」(推古15年7月庚戊条)小野妹子を派遣 
                  → 608 帰国、推古16年4月条
4
608
「隋書」煬帝本紀(大業4年3月壬戊条)「この後、遣使途絶」
*5
3
608
「日本書紀」(推古16年9月辛巳条)小野妹子を再度派遣
                  → 609 帰国、推古17年9月条
6
608
「三国史記」(武王9年3月条)−隋使裴世清、百済南路を経由し倭国に赴く。
7
4
610
「隋書」煬帝本紀(大業6年正月己丑条)「タイ国、遣使奉献」
*8
5
614
「日本書紀」(推古22年6月己卯条)犬上御田鍬を派遣 
                  → 615 百済使と伴に帰国、推古23年9月条
(注) 回の*印は「日本書紀」による記録を示す。
 「隋書」と「日本書紀」の記録が異なることが判ります。私は次のように解釈します。タイ国王
多利思北狐は対等な文言で隋に遠慮していません。なにしろ「漢委奴国王」から「親魏倭王」と
続く栄光の国であるからです。隋の煬帝は楊氏ですが元の名は「普六茹(ふろくじょ)」で、西魏
十二大将軍家の家柄です。鮮卑族なのです。唐王朝の李氏も西魏八柱国の家柄で、楊氏より
一段高い家柄ですが、同じく鮮卑族です。本姓は「大野(だいや)」です。李淵は隋の煬帝の存
命中から実権を掌握しており、唐王を名乗っていました。李淵が唐の正式の皇帝になったのは
推古26年(618)の5月です。日本は唐王へ使者をだしたのです。タイ王は隋国に使者を出し
た。こう考えると大唐国(「日本書紀」では隋でなく、大唐となっている)の意味が解けるのです。
「隋書」はタイ国=倭国からの遣使、「日本書紀」は後の日本国からの遣使なのです。「日本書
紀」の編纂者が「隋書」を熟読して、適当に記入したか、或は唐王に遣使をしたものでしょう。
            ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-7.   十川昌久)
  552年から始まった末法の世に仏教を国教とする律令国家を完成させた。転生説話により六
朝における転生を列挙してのち日本の聖武天皇となる。こうして日本国は「倭国の宗主国」の
後継として生まれ変わったのです。聖武上皇・孝謙天皇の時、東大寺が完成し、仏教国家の
確立が成ったのです。749年、毘盧舎那仏の鋳造が完成し、752年、大仏殿が完成すると、大
仏像の金メッキは未完成だが、開眼供養会を開催しました。これは仏教公伝200年の記念の
年なので強行したものと思われます。インド僧菩堤僊那(ぼだいせんな)を導師として、内外1万
人の僧侶が参列しました、国際色の強い一大イベントであったのです。しかも4月9日です。新
生日本国独立記念式典と考えられます。この時代の仏教は中国の末法思想を基本に置いて
いたのです。末法下200年で中国・唐にも出来なかった世界最大の青銅製毘盧舎那仏が完成
したのです。日本書紀に552年仏教公伝と記述した意味はここにあったのです。
<末法思想(世界の歴史、第六巻『隋・唐帝国と古代朝鮮』、全三十巻:中央公論社)>
 末法思想とは六世紀ごろに西北インドで成立して、直ちに中国にもたらされたらしい。正法時
と像法時が何年続くのかについては、経論によって異なり、正法500年、像法1000年説と、正
法・像法ともに1000年説が有力であった。中国仏教徒の伝承に基づくと、釈迦の入滅はBC949
年なので、末法の世に入るのは第一説では552年、第二説では1052年ということになる。中国
では第一説が採用されたが、日本では500年遅れの第二説が採用されたので、平安時代の末
期から、末法の世に入ったという危機感が生まれて、それに対応する新しい仏教運動が起こっ
たのです。
 西北インドで猛烈な仏教迫害を蒙った、那連堤耶舎が556年に北斉の都、郢(業)にやってき
て、世はすでに末法時代に入って久しいことを説いた。二年後には中国僧の慧思の「立誓願
文」が執筆された。末法思想の根拠となる「大集臓経」を郢(業)で那連堤耶舎が漢訳したのは
556年のことである。
 『扶桑略記』によると、寺院の数は、624年(推古32)には46寺だったのが、692年(持統6)には
545寺に増えているという。奈良国立文化財研究所、1983年3月発行の「埋蔵文化財ニュース」
では、飛鳥白鳳寺院関係の遺跡は730を数えるという。その後も白鳳期の廃寺が見つかって
いるので実数はまだ増えるであろうが、すさまじい増加ぶりである。
              ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-8.  十川昌久)
 中部大学教授大山誠一氏は『聖徳太子の誕生』という本で、聖徳太子は書紀が作り出した
虚構の人物である。と記述しています。律令国家を作り上げるために、聖徳太子が必要だっ
た。太子は天皇の理想像である。唐帝国に対抗するため、聖人君主=中国的な聖天子像が
太子である。光明皇后は藤三娘と名乗り、仏教徒としての聖徳太子を藤原氏の守護神とした。
とも述べています。
 大山誠一氏の日本書紀と聖徳太子に関する考え方は、「書紀の成立以前には、聖徳太子な
る人物像は存在しない。聖徳太子は書紀により誕生した。書紀が成立して以後、七世紀以前
の日本の歴史が成立した。書紀で創造された歴史像を、過去に投影するのではなく、書紀そ
のものから、虚構を取り払い、真実を発見し、確認する作業が必要である。」です。
 建国200年足らずのアメリカ合衆国でも神話はあります。清教徒の数家族が合衆国の礎を築
いたとの神話です。西欧人が北アメリカ大陸を開拓したと同じように、弥生人が日本列島を開
拓したのです。先住民の平穏は新しい開拓民により破られたのです。新しく国が建国される
と、それに応じて神話も生まれます。
 また聖徳太子作といわれる、「法華(ほっけ)」「勝鬘(しょうまん)」「維摩(ゆいま)」三経の義疏
(ぎしょ)は真作が疑われていましたが、敦煌で発見された文書のなかに同様のものがあること
がわかり、聖徳太子創作説はさらに弱まりました。聖徳太子の功績としての、三経義疏に関し
ては藤枝晃氏の研究以来、中国製であることはほとんど確定しています。憲法17条も森博達
氏の研究では、書紀のβ群と同じとされ、書紀の編者による、とされています。大山誠一氏は
聖徳太子聖人化については外来思想や制度を受け入れるための装置である。押し付けられ
るのではなく、既にそのようなものは十分知っている。しかも彼らより詳しいのだ。いわばコンプ
レックスの裏返しである。律令国家完成には是非とも必要な存在であった。と述べています。
  一般的に、聖徳太子(574−622年)は用明天皇の第2皇子で、母は穴穂部間人皇女、名は厩
戸豊聡耳皇子です。聖徳太子は謚名で上宮王ともいいます。19歳の時、叔母にあたる推古天
皇の摂政として内外の政治を整備しました。推古11年(603)冠位12階を定め、翌年には17条
憲法を制定。国史の編纂を行い、推古15年(607)、小野妹子を隋に派遣し国交を開き、大陸文
化導入に努めました。特に仏教興隆に尽力し、『さんぎょうぎしょ三経義疏』を著し、法隆寺、四
天王寺を建立するなど多くの業績を残しました。となっています。しかし、大山誠一氏の最新の
研究では厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は創られた偶像であると証明しています。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-9.  十川昌久)
  顕慶5年(660)、百済を滅ぼした後、唐は百済の旧都熊津城に熊津都督府設置します。馬韓・
東明・金漣・徳安に都督府を置き、その下に三七州・二五〇県を置きました。熊津都督府が総
轄しました。5都督府が百済旧領の州や県を支配するのです。都督府の長官は唐人だがその
配下である刺史は県令には旧百済の在地の有力豪族が起用されました。最初の熊津都督府
長官は王文度が任命されましたが、着任後急死、捕虜の旧百済王の王子扶余隆が任命さ
れ、新羅と和睦協定を締結しました。
  その後、百済遺民の蜂起があり、663年白村江の勝利で鎮圧しました。新羅の王都も唐の
「鶏林大都督府」になりました。唐は百済王子の扶余隆を錦江中流の要衝地熊津(現在の忠
清南道公州市)にある熊津都督府の都督に任じて、彼を唐から帰国させました。唐の音頭で
664年2月には、唐使の立会いのもと、新羅は扶余隆と政治的関係を結んでいます。その直後
に郭務そうを派遣しています。665年の会盟状況は、扶余隆と新羅王が熊津で会見し、殺した
白馬の血をすすって盟約を結んでいるのです。その後、唐軍は高句麗征服のために軍を北方
に送ったため、百済の旧領は新羅の併合するところとなりました。
 百済を鎮圧した唐軍は高句麗の平壌を囲んだこともありましたが、乾封元年(666)、あらため
て高句麗征服軍を派遣しました。総章元年(668)、高句麗は滅亡しました。唐は九都督府・四
二州・一〇〇県を置き、平壌に安東都護府を置いて監督しました。しかし、高句麗遺民の反乱
が起き、新羅はこれを援けて唐に抵抗しました。唐は反乱を平定したのち、上元元年(674)、新
羅に対する問責の軍を起こしましたが、首尾ははかばかしくなかったのです。新羅は唐へ、
669年、672年、675年と三回の謝罪使を派遣しました。三回目は高宗の逆鱗にふれ、文武王
の王位剥奪まで発展しましたが、実効支配の実態の方が最終的に優先となりました。翌年、新
羅が唐に謝罪する形で軍を収め、翌儀鳳元年(676)、安東都護府を平壌から遼東へ遷したの
です。これで完全に半島は新羅が統一支配することとなりました。
 則天武后・万歳通天元年(696)、契丹が反乱を起こしたとき、遼西に亡命していた高句麗遺
民の大祚栄が、亡命者を率いて東北の奥地に逃れ、靺鞨人らを支配して振国を建てました。
後の渤海国です。玄宗・先天2年(712)、大祚栄を渤海郡王に封じ、忽汗州都督を授けました。
玄宗・開元26年(738)、雲南に国を建てた南詔を越国王に封じ、ついで雲南王を授けました。そ
の後、唐の軍隊を大破したことがあるが、元和4年(809)、南詔王に封じられました。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-10.  十川昌久)
 白村江敗戦後天智崩御までの間に『書紀』によれば唐から6回の使節が来朝しました。
0.天智2年(663)8月28日白村江敗戦、熊津都督府設置。
1.天智3年(664)5月−12月、百済にあった鎮将(占領軍司令官)劉仁願が朝散大夫郭務そう
 を遣わす。
2.天智4年(665)9月−12月、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉高徳、右戎衛郎将上柱国百 
 済弥軍、朝散大夫柱国郭務そうら254人を遣わす。
  ○7月末に対馬に至り、9月下旬に筑紫に到着した。
  ○10月11日、盛大に莵道で閲兵をした(唐が武装解除か?)。
  ○劉高徳らは11月には入京し、12月に帰国した。
  ○この年小錦守君大石・小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間を大唐に遣わす。 
   劉高徳らに随伴して派遣された。
  ○麟徳2年(665・天智4)、泰山ヲ封ズ、仁軌所領ノ新羅及び百済・耽羅・倭ノ四国ノ酋長ヲ 
   領シテ会ニ赴キ、高宗甚ダ悦ブ、擢ンデテ大司憲ニ拝ス(『唐書』劉仁軌伝、麟徳3年の 
   封事は秦始皇帝以来歴代皇帝の中でも最も盛儀とされた)。
3.天智6年(667)11月9日−13日、百済の鎮将劉仁願が熊津都督府熊山県令上柱国司馬法
  聡(旧百済国熊津都督府熊山県知事勲一等で南梁系の二世中国人か?)らを遣わして、大
  山下境部連石積らを「筑紫都督府」に送ってきた。
  ○天智6年(667)3月19日都を近江に移す。
  ○天智7年(668)高句麗滅亡、安東都督府設置。
  ○天智7年(668)1月3日皇太子は天皇に即位された。
4.天智8年(669)、是歳郭務そうら二千余人来日。
  ○この年(669)小錦中河内直鯨らを大唐に遣わす(新唐書・日本伝や『冊府(さっぷ)元亀』 
   (巻970)に「高麗を平(たいら)ぐるを賀した(670)」とある遣唐使がこれに相当する。実質的
   な降伏表明。
  ○この後32年間遣唐使は派遣されない。次の大宝2年の遣唐使で20年に1回朝貢すること
   を誓約する。
5.天智10年(671)正月−7月、百済にある鎮将劉仁願が唐人李守真ら、百済使人らを遣わ 
 す。
6.天智10年(671)11月−翌年(弘文元年)5月、大唐使人郭務そう・送使沙宅孫登(義慈王が唐
 に下った時に従った者で百済系の唐吏)ら総計二千人(唐人600人、韓人1400人)、47艘に分
 乗して来日。
  ◎この一行に沙門道久、筑紫君薩野馬、韓島勝沙婆、布師首磐がいた。
  ○671年12月天智死去。672年3月郭務そうのもとに伝えられる。5月、近江朝廷は郭務そう
   らに、甲冑弓矢のほか、あしぎぬ?1673匹、布2852端、綿666斤を与えた。
  ◎天智崩御について『扶桑略記』は「一ツニ云ウ、天皇馬ニ駕シ、山階ノ郷ニ幸ス、更ニ還
   御ナシ、永ク山林ニ交リテ崩ズル所ヲ知ラズ。」
  ○天武元年(672)壬申の乱、『扶桑略記』によると大唐大使郭務そうは天武即位を見届けて
   帰国。
  ◎日本書紀は全30巻のうち天武紀のみ2巻ある。しかも1巻は壬申の乱の記事で、通常こ
   れを「壬申紀」といっている。
  以上の経過を考察すると、白村江の敗戦後の戦後処理が日米戦争後の戦後処理とよく似
 ていることがわかります。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-11.  十川昌久)
  持統天皇は吉野宮へよく行っています。飛鳥から吉野へは芋峠(標高556m)を越えていき
ます。芋峠とは「忌」峠なのでしょうか。天皇在位時、全行幸は44回であるが、吉野宮への行幸
は31回を数え、70.5%にも達しています。藤原京視察が3回しかないのに比べ異常に多いので
す。この異常さは何を意味するのでしょうか。天武を偲んで行ったのではないのです。また、季
節に関係なく行っています。日数が記述していない時もありますが、最低3日から最高20日、
平均8日の日程です。天武の喪に服していた2年間を除いて毎年2〜5回行っているのです。
一覧表にまとめてみましょう。表−1は持統在位年毎の行幸回数。表−2は各月毎の行幸回数
と要した日程です。
表-1
持統年
1年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年 11年
合計
平均
行幸回数
2
5
4
3
5
3
5
3
1
31回
3.44回
表-2
行幸月
回数
回 目 と 日 数
1月
3
1回目(4日間)、8回目(8日間)、20回目(?)
2月
3
3回目(?)、23回目(8日間)、28回目(11日間)
3月
2
15回目(8日間)、24回目(4日間)
4月
4
9回目(7日間)、21回目(8日間)、29回目(?)、31回目(8日間)
5月
3
4回目(?)、12回目(5日間)、16回目(7日間)
6月
2
25回目(9日間)、30回目(9日間)
7月
3
10回目(10日間)、13回目(20日間)、17回目(8日間)
8月
4
2回目(?)、5回目(?)、18回目(5日間)、26回目(7日間)
9月
1
22回目(?)
10月
3
6回目(?)、11回目(8日間)、14回目(8日間)
11月
1
19回目(6日間)
12月
2
7回目(3日間)、27回目(9日間)
平均
2.58
180日間÷23回=7.83日間
○持統天皇として(689−697)31回行幸(8年間で31回)。
○持統上皇として(701-6/29-7/10)1回行幸(697/8譲位702/12没 5年間で1回)。
 これは何を意味するのでしょうか。日本国は唐に占領されていて、吉野が進駐軍駐在地とし
たらどうでしょうか。全て納得がいくと思います。あの昭和天皇でもGHQにマッカーサー元帥を
11回も訪問しているのです。決して夫・天武を偲んでの行幸とか遊興で吉野に行ったのではな
いのです。書紀には記されていないが、重大な意思決定の際に吉野を訪問したと推察されま
す。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-12.  十川昌久)
 平安時代のベストセラーといえば、源氏物語と枕草子です。その枕草子・226段には、「蟻通
(ありどおし)明神の名のいわれ」が記載されています。以下の内容です。
 昔ある帝(みかど)が、人が40歳になれば殺していたので、孝心の深い中将が70になった両
親を、自宅の穴蔵に隠して養う。あるとき、唐土(もろこし)の帝が日本国の帝を参らせてこの国
を併合しようと、よく削った木の本(もと)と末(すえ)はどちらか、と問うてきたのだが、家臣のす
べてがわからない。中将が親に尋ねると、「その木を急流に直角に投げ込み、流れていくほう
が末だ」と教えてくれる。次に、同じ大きさの、二匹の蛇の雌雄を問われ、これも「尾を若枝で
寄せ、動かぬほうが雌だ」と正解を教えてくれる。次に七曲りの珠の穴に緒を通せ、と言われ
るが、「蟻に糸をつけて穴に入れ、一方の口に密を塗っておけ」と教えてくれ、すべて成功し、
唐土の帝は参る。中将は帝に願って、そのほうびとして親を家で養うことを許される。また、こ
の親は蟻通の明神となった。
 この話は和泉国・吉野地方に伝承されている有名な話でもある。紀貫之の逸話にも現われ
る。
  和歌山県伊都郡かつらぎ町に蟻通(ありとおし)神社がある。祭神は知恵の神様で、記紀の
神代記にも登場する「思兼(おもいかねの)命(みこと)」であるという。由緒の要旨は、天武天皇
の白鳳2年、唐の高宗より、七曲がりの玉を渡され、これに糸を通して返せと難題をもちかけら
れた。(困っていたところ)1人の老人が現れ、蟻に糸を結び付け、玉の穴の片方に蜜を塗り、
もう片方から蟻を通した。蟻は蜜の香りに引かれて穴を通りぬけ、糸を通した。感嘆した人々
が名前を聞いたところ、その老人は「吾は紀の国蟻通しの神」と言って消えた。高宗が紀の国
に使者を遣わして調べさせたところ、そこにちゃんと蟻通しの神が祭られていた。
○蟻通神社の由来書によるとこの「白鳳2年」は673年という。これだと白鳳元年は672年という
 ことになる。
○唐高宗は649〜684年在位、遣唐使は669年から702年までの32年間なし。
○672年は壬申の乱、「扶桑略記」によると大唐大使郭務そうは天武即位を見届けて帰国。
 以上のことからも唐の軍隊に守られ壬申の乱を制し、即位した天武天皇の姿がうかがえる。
詳しい内容は次回に譲ろう。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-13.   十川昌久)
 天(漢風・和風謚号)のつく天皇は以下の通りです。「天」を謚につけた意味はどこに在るのでし
ょうか?
 欽明天皇:天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと) 、皇極=斉明天
皇:天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、孝徳天皇:天万
豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)、天智天皇:天命開別天皇(あめみことひらかすわ
けのすめらみこと)、天武天皇:天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみ
こと)、持統天皇:高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、文武天皇:天
之真宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおおじのすめらみこと)、元明:日本根子天津御代豊国
成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)、聖武:天爾国押開豊桜彦
天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、光仁:天宗高紹天皇(あまむねた
かつぐのすめらみこと)と10人になります。整理してみましょう。一応752年の大仏開眼供養を独
立式典としましょう。そのときの天皇は孝謙天皇です。その父が聖武天皇で上皇となります。文
武天皇は孝謙天皇の祖父となります。文武の和風謚号には「祖父」とあります。持統天皇には
「高天原」とあります。そうです天照大神の孫瓊瓊芸尊が天孫降臨しました。持統の孫は文武
なのです。この事を日本書紀に記したのです。神代の昔から孫に政権を譲渡することを示して
いるのです。天武天皇はどうでしょうか。「真人」とあります。これは自分が制定した八色の姓
の筆頭です。後世の和風謚号を命名した者、多分淡海三船が唐の傀儡=第一の子分の意味
で名づけたのでしょう。
  八色(やくさ)の姓(かばね)とは、古代の姓の制度で、天武13年(684)天武天皇が従来の姓を
整理再編し、8種の姓を新たに制定した。皇室中心の社会体制の確立を図ったもので、真人
を最上位とする。真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣
(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八姓(はっしょう)。淡海三船も真人で、天智の玄孫である。
天武と天智の系統を下に記す。
天智天皇―弘文天皇(大友皇子)―葛野王―池辺王―淡海三船(真人元開、722-785)
   天武天皇−草壁皇子―文武天皇―聖武天皇―孝謙天皇(=称徳天皇)
 以上のように、和風謚号から推測できることは、@欽明=天国排開広庭とあり、国を押し開
いたのであるから、初代の可能性大。A聖武=天爾国押開豊とあり、これまた国を押し開いた
のであるから、独立初代の上皇にふさわしい。B文武=天之真宗豊祖父とあり、孝謙(独立初
代天皇)の祖父である。C漢風謚号に天がついている、天智と天武が国の最初の代表者、し
かし天武は唐の傀儡政権の可能性大。D持統は高天原の天照大神に充てられる。E高皇産
霊尊は高天原の代表者、高と霊の間に皇室が産まれるとある。皇室の祖先は大伽耶の高霊
にいたことがわかる。F「持統継体」とは非皇族の登場により、絶えかけた血統を天皇の娘と
いう血をもって、あやうく維持し、体制を引継いだ。継体は武烈の姉手白香皇女と結婚し欽明
を産んだ。武烈は57歳で崩御している。その姉に子供が生まれるか。持統は643年生まれ。皇
極3年(643)に中大兄は鎌足の勧めで石川麻呂の娘遠智娘と結婚した。その子が持統であ
る。しかも持統は次女である。書紀では大化の改新(645)の前年に鎌足にそそのかされて結婚
したことになっている。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-14.  十川昌久)
  お水取りとは東大寺の二月堂の行事で、正式には修二会(しゅにえ)といい、毎年2月初めに
国家の安泰、有縁の人々の幸福を祈願する法会のことです。インドでは2月が歳首で年頭の
法会となり、現在は3月1日から2×7、14日間行われています。お水取り行事の日には、過去
帳・八百万の神名の読誦と達陀(だったん)行が行われます。重要なことは大仏開眼と同時に
お水取り行事が行われたことです。一方では世界最大の大仏、一方では悲惨な鉱毒・公害、
一時の戦後日本を象徴するものであるといえます。
 東大寺のお水取りは何を表すのでしょうか。お水取りに先立って、若狭の遠敷からはお水送
りの行事があります。遠敷はその時代には水銀の産地ではなかったのでしょうか。「ニュウ」は
水銀を表すのです。吉野の丹生神社も水銀の神です。水銀は錬金術にも用いられ、不老不死
の薬でもあります。東大寺の大仏の金メッキはアマルガム法にて行いました。この金は陸奥よ
り、水銀は若狭(越の国の入口)より調達したと思われます。アマルガム法による金鍍金は水銀
中毒を起こしたと考えられるのです。大仏に鍍金するには酢で地肌を出し、それに金アマルガ
ムを塗り、表面を高温にして水銀を蒸発させる方法をとります。蒸発した水銀は酢と化合して、
有機水銀となり、地下水に溶け込む。その地下水を井戸より汲み上げ飲料水として利用する
のは貴族階級である。平城京は盆地であり、地下水は相当期間滞留する。水銀中毒に悩まさ
れた貴族は遷都を求める。これが、平城京が百年も持たなかった、真の理由であると考えま
す。勿論、水銀を蒸発させる時の水銀蒸気により水銀中毒になった技術者・労働者も沢山い
たでしょう。アマルガムから水銀を抜く、水銀取り、お水取りです。当時は水銀は「水ガネ」と呼
ばれていました。また、お水取り行事にはダッタンがあります。これは脱丹(水銀のことを丹生と
いう)のことです。
  因みにメッキとは日本語で水銀に金を溶かすと金の色が消えることから、滅金であり、アマル
ガムを銅に塗り水銀を蒸発させると金が渡る(移る)ことから鍍金と記しメッキと読みます。
743年聖武天皇が紫香楽宮で大仏造立を発願して鍍金が完了するまで14年。延べ260万人の
人々が働き、大仏本体250t、蓮華座130tの大鋳銅像が完成しました。鍍金に使用した金550k
g、水銀はその5倍を使用しました。天平16年(744)、紫香楽宮に大仏の骨柱が建てられました
が、奈良に遷都で大仏建立も移るのです。螺髪だけで天平勝宝元年(749)12月より3年かか
り、966個に銅6.3tを使用しました。大仏建立に係わった労働者の排出する糞尿や、生活排水
なども相当なものであったろうと推察されます。
  唐でも則天武后の時、50mを超える銅製の大仏鋳造を何回も試みていますが、全部失敗し
ているので、大仏開眼にこぎつけたことは本当に世界に誇れる大事業であったわけです。
  正倉院には異常に多くの薬があります。その数は60種を超えるといわれています。過半が栄
養剤、精力剤といわれているものであり、疾病などにはあまり役には立たないそうです。むしろ
毒になるものが多いそうです。光明子はこの薬物を放出して、関節の痛み、視力障害の病魔
に悪疫を切り抜けようとしました。施薬院を設立するなど慈善事業に力を注いだのです。開眼
後5年もかかったメッキ作業は相当な被害をもたらしたろうと考えます。渡良瀬川と同じような
鉱毒被害、次が水銀中毒であります。東大寺境内より佐保川流域しかも今日の不退寺から海
龍王寺、法華寺、平城宮殿の一角が傾斜地の最も窪んだ低地となっていますから、重金属廃
水の沈殿がそこに集中したと考えられます。天平勝宝4年から天平宝宇5年、神護景雲2年ご
ろに佐保水系を飲料水としていた人々を直撃したでしょう。佐保川は皇族、貴族の生活圏の真
ん中を流れていたのです。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-15.  十川昌久)
 マッカーサー元帥解任後に「マッカーサー神社」を建立しようとした史実はほぼ忘れ去られて
います。1951年4月15日、天皇陛下はアメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪問しました。11
回目となる訪問です。4月15日、都議会は臨時会議を開催し、感謝決議文を決議しました。4
月16日、マッカーサー元帥帰国にあたっては羽田までの沿道に都民20数万人が見送ったので
す。国会は感謝決議をし、政府は名誉国民の称号を用意しました。
並行して、マッカーサー神社を建立しようとの動きがあり、建立の発起人として、秩父宮両殿
下、田中耕太郎(最高裁長官)、金森徳次郎(国立図書館長)、野村吉三郎(開戦時駐米大使・
大映社長)、本田親男(毎日新聞社長)、長谷部忠(朝日新聞社長)などの各氏が名を連ねたの
です。
  しかし、マッカーサー元帥が米議会で、「かりに科学、宗教、文化の点でわれわれを45才と
すると、ドイツも同様に成熟しており、ナチスの犯罪は故意である。日本人は、歴史は古いが
現代文明の基準で言えば、12才の少年だろう。・・・・なお柔軟で、新しい考え方を受け入れら
れる。」と演説を行い、建立の話はポシャルのです。そして、ウヤムヤになったのです。
戦争中、B29の空襲により、約30万人の都民が死亡しました。広島・長崎の原爆投下により非
戦闘員の数十万の市民が死亡しました。戦後、大東亜戦争が太平洋戦争に名称変更となりま
した。敗戦が、いつのまにか終戦となりました。日清・日露戦争後、乃木神社、東郷神社、児玉
神社など建立されました。日本人と呼ばれる人々の精神構造は戦前と戦後とで変わっている
のだろうか。いや、更に遡って「白村江の敗戦」後はどうだったのでしょうか。
  私は「白村江の敗戦」後に日本列島人という意識が発芽したと考えるのです。それは日本に
併合されて、初めてハングル文字が朝鮮半島人に普及していったことや、イギリス領となって
牛を食べなくなったことなどが挙げられます。バラモンの聖職者のみの戒律が一般のヒンズー
教徒に浸透していったのです。
  日本の社会構造の特徴は、機能集団が共同体に変化することだ。共同体の特徴は、ウチと
ソトとの峻別である。人間関係(規範)はウチが重視、最優先され、ソトはどうでもよい。何故、
日米開戦に突入したのか。面子にこだわる。面子を優先する。組織は手段なのに、目的に変
化する。○○一家となる。小室直樹氏の発言である。最近の外務省関係の新聞報道記事(裏
金の組織的プールと私的流用、鈴木宗男を巡るODA資金問題、瀋陽領事館の北朝鮮難民へ
の対応など)を見ていると、まさに彼の発言が的を射ていることが良くわかる。彼らは国益には
無関係なのである。
  奥村勝蔵(開戦時駐米大使館1等書記官)は、@東京からの最後通牒を翻訳し遅れた男、A
GHQでマッカーサー元帥と天皇陛下との歴史的初会見時通訳、B1945年10月4日、近衛公と
マッカーサー元帥会見時の通訳(この時かなり誤訳ありと言われている)で知られる男です。彼
や野村吉三郎などが、なんら責任を問われず、戦後も出世街道を驀進したのは何故なのか。
今でも、事あるごとに「卑怯な日本、パールハーバーを忘れるな!」の言葉が持ち出されるが、
彼らに責任があるのです。何故責任を問わないのでしょうか。
GHQ(General Headquarters・司令部)の時代を、今こそ真剣に見詰め直す必要があるので
す。くどいようですが、「白村江の敗戦」後はどうだったのでしょうか。この事実解明がなされな
いと「日本」古代史は永久に世界の古代史の中に、異質な分野として位置付けられるであろう
と考えます。なお、昭和天皇はGHQ最高司令官を18回訪問している。マッカーサーを11回、リ
ッジウェーを7回です。会談の内容も政治的なものが中心となっている。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-16.  十川昌久)
  聖徳太子伝暦(でんりゃく)(藤原兼輔(かねすけ)著、延喜17年(917)成立)によると、欽明天皇
(継体天皇の嫡子)32年(571)の春正月元日、後に阿弥陀如来の化身(けしん)と信じられるよう
になった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(欽明天皇と小姉君との娘、用明天
皇の妃)は夢の中で、「西方(さいほう)の救世観音菩薩」と名乗る、金色に光り輝く僧侶に出会
い、「われに救世(くせ)の願あり、しばらく皇女の胎(はら)に宿る」と告げられた。霊夢を見てか
らちょうど1年後、敏達天皇(欽明天皇の子)元年(572)正月元日、皇女は宮中を見回り中、厩
戸の前で、片手に仏舎利を握った赤子(厩戸皇子)を出産しました。
  聖徳太子の転生説話は奈良時代における聖徳太子の慧思後身説として、思託・法進・淡海
三船など鑑真周辺の人々によって信仰されていました。平安時代に入ってからは、主として最
澄・円仁・円珍など天台宗に受け継がれています。思託は鑑真が唐より連れてきた弟子です。
鑑真に深く帰依し、弟子の思託とも親しかった淡海三船は『唐大和上東征伝』を記しました。ま
た、淡海三船が天皇の漢風諡号を考えたとされています。淡海三船は天智天皇の子弘文天
皇の末裔であることに注目したい。
  聖徳太子の予言といわれている、伝暦の予言によると、厩戸の皇子が遊行のおり、左保河
の北に足を止め、この地を指してこう言われた。「私の歿後、この市岡に精舎を建てて仏法を
興隆するのは、私の後身です。私は三度、日本国に誕生しますが、その名や、謚(おくりな)に
はいずれも"聖"の字があります。すなわち、聖徳太子、聖武天皇、聖宝僧正がそれです」と。
ここで名の挙がった聖武天皇や聖宝僧正はいずれも「伝暦」の予言に基づいて太子の生まれ
変わりと信じられた人であります。聖武天皇は東大寺大仏の開眼式で、自ら「三宝の奴」と称し
たほどの崇仏派の天皇ですが、この天皇が太子の生まれ変わりとされたもう一つの理由は、
出家後に「勝満(しょうまん)」と号したことによります。勝満は、奇しくも太子の前世の一身であ
る勝鬘夫人と同音なのです。
  仏教関係者により聖徳太子の聖人化はどんどん進みましたが、大工・鳶職などの職人の間
でも太子伝説は広められ、世田谷区にも太子堂があります。
堕胎を正面きって文学作品とした、近松門左衛門の「用明天皇聖人鑑」は1705年初演されまし
た。あらすじは……。
  後の用明天皇・花人親王は異母兄で敏達帝の弟にあたる山彦皇子の迫害を受けて、相思
相愛の豊後真野長者の娘・玉世姫との仲を引き裂かれ、佐渡に流浪した後に豊後にたどり着
き、真野長者の家に草刈りとして召し抱えられる。一方、花人親王の胤を宿して豊後に戻った
玉世姫は継母に責められ、堕胎して山彦皇子の妃に入るように求められる。
  そこで、子堕しのための薬草を草刈りの花人親王に採集してくるように命令が出る。親王と
姫の草尽くし進行があって、結局、姫はむりやり薬を飲まされるが、逆に玉のような男子を産
む。この子が後の聖徳太子となる。という筋書きである。中条流や遊女町にも聖徳太子信仰
が行われていることが分かります。
  三経義疏とは、聖徳太子三つの仏典注釈書『法華(ほっけ)経義疏』『維摩(ゆいま)経義疏』
『勝鬘(しょうまん)経義疏』の総称です。勝鬘経義疏は敦煌本の中から勝鬘経本義がみつかり
これをモデルに作成したことが学問的に判明しています。他も同様に中国大陸製であることが
故藤枝晃氏(京都大名誉教授)の研究で明らかとなっています。17条憲法も故津田左右吉氏
以下、多くの研究者により持統天皇の時代に書かれたことが判明しています。
 ―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-17.  十川昌久)
  撰者不明の『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』によれば、達磨禅師はインドから衡山
に来て、慧思に「海東」への転生を勧めた。そして慧思の晋・宋・斉・梁・陳・周の南六朝におけ
る転生を列挙してのち、「身を第六の生に留め、機を第七の世にま候つ。(中略)所似に倭国の
王家に生まれ、百姓を哀矜(あいきん)し、三宝を棟梁とす」と記しています。慧思の俗姓は李氏
(唐の王室も李氏であることに注目)、北魏の延昌4年(515)11月11日、南豫州に生まれ、15歳
のとき出家受具して、もっぱら『法華経』を読誦する。その後、北周の排仏路線を予感して、北
から南へ避難し、南朝陳の光大2年(568)に門弟40人余りを率いて、待望の南岳衡山に隠棲し
た。10年後の太建9年(577)6月22日、一代の名僧は享年63歳にして、晏如(あんじょ)として示
寂(じじゃく)した。とあります。
<太子の前世(過去世)>
  太子が妃のかしわでのおおいらつめ膳大郎女に語った前世とは、
@1代 晋の時、卑賤の家に生まれて家を捨て、30余年の修行の末に衡山の麓で死す。
A2代 晋末期、韓氏の子として生まれ、出家して仏法を広めたのち、衡山に登り修行50余  
年、宋の文帝の時代にしゃしん捨身して世を去った。
B3代 劉氏となって40余年、せい斉の高氏となって40余年、出家して衡山で捨身した。
C4代 梁の時、梁の宰相の子として生まれ、出家して70余年を衡山で過ごした。
D5代 陳・周の時、周のよう姚氏の腹に宿り、出家して衡山で修行したが、このとき東海の国
に生まれて仏法を流通し、身を第6の生にとどめ、機を第7の世にま俟つことを誓願したとい
う。
E最後の6代目が、念禅法師で、南獄えし慧思大師(515〜577)という実在の僧をさす。慧思
は、その特異な法華信仰や末法思想の流布などで知られた古代中国屈指の高僧で、その門
からは天台大師と崇敬された天台宗の祖師・ちぎ智(538〜597)を輩出した。
Fこの慧思の後身、晋朝、卑賤の家の子として生まれたときから数えて7代目が太子であった
と『七代記』は記すが、『御手印縁起』では、中国の僧侶に転生する前はインドの勝鬘夫人(しょ
うまんぶにん)であったと伝えている。
  捨身とは、例えば、飢えた虎の母子にわが身を与えること。求法のためには身命を捨てるこ
ともいとわない捨身思想。のちに上宮王家(山背大兄一家)が斑鳩で集団自殺したことにつな
がる。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-18.  十川昌久)
  慧思(えし)禅師が日本の皇族に生まれ変わったという伝えは『唐決集』に収録されています。
「唐決集」とは、唐・開成5年(840)に書かれた唐僧維躅(ゆいけん)の手紙です。維躅は台州に
ある、天台山国清寺の僧侶で、日本の留学僧円載からの質問に回答するために作成された
「唐決」と呼ばれるもので、日本側に渡すにあたり、天台山を管轄していた、台州の長官に許
可を求めて出したものです。当時は外国人にみだりに唐国内の情報を流すことは禁じられて
いましたから、そのような嫌疑を受けないために手続きを行ったものです。『唐決集』には疑問
と回答が載せられています。一つは、えし慧思禅師が日本の皇族に生まれ変わったという伝え
などは、日唐間に伝承された、聖徳太子は慧思の生まれ変わりという説の古い一例として貴
重だし、延暦寺僧円載が、淳和(じゅんな)大后正子(しょうし)の縫った袈裟を託されて渡唐、天
台山に奉納したこと、また聖徳太子撰の『法華義疎(ぎしょ)』の写本が、やはり円載経由で天台
山に送られたことなどが書かれています。もう一つは「南岳の高僧、し思大師、日本に生まれ
て王となり、天台の教法(きょうほう)、大いに彼の国に行われる。是を以って、内外の経籍(きょ
うせき)、一に唐に法(なら)い、二十年一来の朝貢を約す。」と。慧思禅師の転生を説いたあと
日本では内典(ないてん)・外典(げてん)(仏教経典とそれ以外の漢籍)とも唐と同じであり、日
本は唐に対して20年に1回朝貢することを約束している。どうも、このような外交的な約束は
702年に入唐した使節であろう。この約束により独立が認められたと思われる。(現在の日本も
独立国とはいえ、半占領国。主権の及ばない米軍基地が全国にある。占領下に制定された憲
法はどうでしょうか?)
  唐から日本にあてた国書としては、唐・開元23年(735)玄宗皇帝の与えたものが、中国側文
献に残っています。玄宗の側近の張九齢が日本にあてて起草した国書は「日本国王す主め明
ら楽み美こ御と徳に勅す、(第九次遣唐使の帰国にあたり与えられた) 」で完全な臣下あての
形式をとる勅書です。
  張九齢が起草した諸外国の君主宛の国書によると、諸外国のランク付けは次のようであっ
た。
吐蕃−突厥・突騎施−新羅−奚・契丹−渤海・南詔−護密・識匿・勃律・けい賓・日本
当時外国に対して発せられる皇帝の命令には二種類の書式があったが、「勅」で始まるのは
最下等の書式であった。(東野治之氏)
当時の国書には一般に、「皇帝敬問」「皇帝問」「勅」の三形式があり、「勅」は君臣関係がある
場合に用いられた。(金子修一氏)
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-19.  十川昌久)
 継体天皇も謎の多い天皇です。漢風諡号の継体とは「体制を継続する」で、名前の通り平穏
に体制を引き継いだのでしょうか。書紀によると、武烈天皇に子供が無かったので、応神天皇
五世の男大迹王に武烈の姉・手白髪皇女を皇后にして即位したとあります。しかし、武烈は57
歳で薨去しているのです。また、継体と手白髪皇女との子供・欽明天皇も謎の天皇です。57歳
以上の女性に子供が生まれるのであろうか。しかも男大迹王には和風諡号がないし、欽明に
は名前が無いのです。推古と持統の間と同じく、継体と欽明の間も秘密のベールで覆われて
いると考えるのです。
 日本書紀の編年では、531年継体天皇崩御、2年の空位を置いて、534〜535年安閑天皇治
世、536〜539年宣化天皇治世、539年暮欽明天皇即位となっています。しかし、一方では百済
本紀を引用して、「この年、日本天皇・太子・皇子ともに薨ず」との記事を載せているのです。素
直に解釈すると、天皇=継体天皇、太子=長男勾大兄皇子(安閑天皇)、皇子=次男高田皇
子(宣化天皇)となります。また続けて、「或る本にいう。天皇、28年歳次甲寅(534)みあが崩りま
しぬ。・・・後のかんがえる勘校者之を知らむ」という文言があるのです。皇位継承に、何かあっ
たことは間違いないと思います。継体・安閑朝には磐井の乱・武蔵国造の乱などが記されてい
ます。日本列島では東西でかなり大きな動きがあったことを予測させます。
 森鴎外は『帝謚考』で次のように中国古典の引用としています。
◎継体(漢風謚)
薛瑩漢紀、淵鑑類函、帝王部、帝功一雖夏啓周成繼體持統、無以加焉、
 宋書、謝晦傳、悲人道詞、謂繼體其嗣業、能増輝於前光、又臧Z傳、Z上議高祖曰、白虎
通云、??祭遷廟者、以其繼君之體、持其統而不絶也、又袁粲傳、論、世及繼體、非忠貞、無
以守其業、南史臧Z傳文同
◎持統(漢風謚)
 薛瑩漢紀、淵鑑類函、帝王部、帝功一明帝及臨萬幾、以身率禮、恭奉遺業、一以貫之、雖
夏啓周成繼體持統、無以加焉、謚號雑誌
 宋書、臧Z傳、高祖與Z書、Z上議曰、議者以為四府君神主、宜永同於殷?、臣以為不然、
白虎通云、示帝示合祭遷廟者、以其繼君之體、持其統而不絶也、豈如四府君在太祖之前、非
繼統之主、南史文同
継体だけでなく、「持統継体」で熟語です。「持統継体」とは「血統を維持し、体制を継続する」の
意味となるのです。すると持統も問題がある天皇ということになります。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-20.  十川昌久)
 532年には金官加羅国が新羅に降伏しています。三国史記新羅本紀には「王妃および三王
子とともに国の財宝をもって投降した」「新羅王は彼らに本国をその食邑として与えた」とありま
す。王は仇亥であるが、王弟仇衡は日本列島へ亡命したとも考えられます。仇衡の消息はわ
からないのです。
 欽明は皇位簒奪者かも知れません。欽明天皇には名前がなく、天国排開広庭尊という和風
諡号があるのみです。しかもこの諡号は新王朝開始の諡号に相応しいのです。欽明天皇は宣
化天皇の娘石姫を皇后にしています。宣化天皇は73歳で崩御しています。欽明天皇の歿年は
若干とあり、不詳であります。書紀の欽明紀は朝鮮関係記事が異常に多く、任那復興に執念
をかけているように考えられます。
 澤田洋太郎氏は、韓・唐をカラというが、全て加羅のことで、「われらが原郷」という意味がこ
められている。「中空」をカラというが、「既に同胞がいなくなった」ということを暗示する。また、
江戸時代に「豊と書いて"カラ"と読んだ」とする狩谷掖斎の説もある。と述べています。
 私も御伽草子の「伽(とぎ)」と伽羅・伽耶の「伽(か)」は同じ字であることに疑問を持っていまし
た。何故この字を用いたのか不思議です。しかし、澤田氏の説を聞くとなんとなく御伽草子編
集者の意図が判る気がするのです。
  『続日本紀』元明天皇から元正天皇への譲位の詔に「昔者(むかし)、揖譲(いふじやう)の君
(きみ)、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんくわ)の主(しゅ)、体を継ぎて、基(もとゐ)
を承(う)け」という一文があります。揖譲の君とは、舜へ譲位した中国の聖天子尭のような、争
いもなく位を譲る天子のことをいうのだそうです。また干戈とは、「たて」と「ほこ」、つまり武器の
ことで、干戈の主とは、武力によって暴虐の君主桀と紂を倒したという殷の湯王と周の武王を
例とするような、天下を武力で制した王のことだそうです。このような武力王が、前王朝の「体
を継ぎて基を承ける」というのです。このことから継体という諡号には、武力による天下取りとい
う観念がつきまとっていたと考えられるのです。武烈没後、複数の王位継承者がいたことは間
違いないでしょう。継体という漢風諡号を献上した奈良時代の貴族(注:淡海三船とされている)
が、男大迹を干戈の主とイメージしていたことは、ほぼまちがいないと思います。(『日本の歴
史・古代王権の展開』集英社版より)
  法隆寺には北魏系と南梁系の仏像が共存しています。しかし、北魏系の救世観音像は布で
巻かれて密封されていたのはなぜでしょうか。また、南梁系は百済観音像と呼ばれています。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-21.  十川昌久)
  藤原氏関係の寺社としては、春日大社、談山神社、興福寺、大原野神社、吉田神社、等が
挙げられます。この中で、談山神社は藤原氏の直接の始祖「鎌足公」を祀っている、特別な神
社です。しかも鎌足の長子・定慧が関係しているのです。
  藤原鎌足=中臣鎌子は不思議な存在である。出所がはっきりしないのです。そして、その子
の藤原定慧・不比等も謎多き人物なのです。
  鎌足の長子・定慧は『日本書紀』によると、孝徳4年(648)の遣唐使一行として渡唐、天智4年
(665) 9月23日に、唐使・劉徳高らの船にのって帰国、とあります。そして、『藤氏家伝』による
と、白鳳16年歳次乙丑秋9月を以て、百斉を経て京師に来る。其の百斉に在りし日に詩一韻
を誦む。其の辞に曰ふ、「帝郷は千里隔たり、辺城は四望秋なり」と。此の句警絶にして、当時
の才人、末を続くことを得ず。百斉の士人、窃かに其の能を妬みて毒す。則ち其の年の12月
23日を以て、大原の第に終る。春秋23。道俗涕を揮ひ、朝野心を傷む。とあり、帰国後3ヶ月
後に死んでいるのです。
  『多武峰縁起』によると、多武峰談山神社の歴史は、天智天皇8年(669)10月鎌足が大津宮
で死ぬと次子の不比等がこれを摂津三島郡阿威山に葬った。所が当時求法の為に渡唐して
居った長子の定慧は天武天皇の白鳳7年(679)帰朝して、弟不比等と協議した結果、これを多
武峰に移葬し、墳墓の上に、唐清涼山宝池院の塔婆に模して十三重塔の層塔を建立し、その
南に三間四面の講堂を造り、これを妙楽寺と号した。その後文武天皇の大宝元年(701)に至
り、その塔の東方に当って方三丈の聖霊院が起され、近江の彫工高男丸という者が造ったと
いわれる鎌足の霊像をそこに奉安した。談山神社は妙楽寺内のこの聖霊院の進展したもので
あるが、明治初年の神仏分離に際し、妙楽寺はこの聖霊院を根本とする談山神社に合併され
て、旧官幣社の談山神社となってしまった。
  『元亨釈書』の「多武峰定恵」によると、釈定恵(じょうえ)は、大織冠(たいしょくかん)(藤原鎌足
の尊称)の長男である。はじめ、孝徳天皇に1人の妃がいたが、みごもってから6ヶ月たったこ
ろ、大織冠が彼女をとても寵(ちょう)遇(ぐう)していたので、天皇は、その妃を賜り、彼の夫人に
した。そして、彼に約束して言った。「生まれてくる子が、もしも男であったならば、君の子としよ
う。女であったならば、わしの子としよう」。その後、定恵が生まれたので、出自は藤原鎌足の
子ということになった。沙門(しゃもん)の恵隠(えおん)のもとで出家した。白雉(はくち)4年(653)
に、遣唐使に従って海を渡った。都の長安に着いたのが、高宗(唐の第三世李治)の永徽(えい
き)4年のことであり、恵(え)日寺(にちじ)の神泰(しんたい)に師事して学問すること、ほとんど10
年間に及んだ。調露(ちょうろ)元年(679)には、百済の使者に従って帰国したが、それは、我が
国の白鳳7年9月のことである。定恵が唐国に留学していた間に、父の大織冠が、すでに亡くな
っていたので、定恵は、弟の大臣・藤原不比等に尋ねて言った。「父君のお墓はどこでしょう
か」。「摂津の国の阿威山です」と答えると、定恵が言った。「昔、父君が密かにわたしに語られ
たことがありました。『大和の国の談峰(とうのみね)<今は多武峰(とうのみね)と言う>は、甚
だ霊妙な地であり、唐国の五台山に勝るとも劣らない。わしが、もしも彼の地に墓を築いたなら
ば、子孫はますます繁栄するだろう』。わたしが五台山にいたとき、夢の中で、わたしが談峰に
おり、そのわたしに向かって、父君が言われました。『わしは、すでに天上に生を受けている。
お前が、この地に寺塔を建立し、仏乗(ぶつじょう)を修行するならば、わしもこの地に降って、
子孫を擁護しょう』。それは、ちょうど己巳(つちのとみ)の歳(669)の10月16日の夜二更(こう)ば
かりのときでした」。大臣は、その話を聞き終わると、涙を流しながら言った。「父君の亡くなら
れたのは、まさしくその年月日でした。老師の夢は、正夢だったのです」。定恵は、門弟たちを
連れて阿威山にのぼり、遺骸を取り出して、それを談峰に改葬した。そして、その上に十三層
の塔を建てたが、その材料は、定恵が唐国に滞在していた時に、すべて調達したものであっ
た。帰国するときに、材料を船に積み込んだが、その船が狭いために、どうしても一層分の材
料が載らなかった。その塔は、清涼山(五台山)の宝池院の塔を模造したものであったが、出来
あがってみると、やはり十二層しかない。定恵は、一層分の材料を唐国に残してきたために、
建造物の様式が不完全なものになってしまったことを残念に思っていた。ある晩のこと、かみ
なり雷電が鳴りわたり、風雨が山を震動させたが、明け方には、空はすっかり晴れあがった。
見ると、残してきた一層分の材料が、そっくりそのまま飛来しており、余分なものも、欠如したも
のも、何一つなかった。これには、大臣も土民も、感嘆しない者はなかった。大臣は、さらに文
殊(もんじゅ)師利(しり)菩薩像を刻ませて、塔中に安置した。定恵は、和銅7年(714)に遷化し
た。とあり、定恵は和銅7年まで生存しているのです。次回はこの謎に挑戦してみよう。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-22.  十川昌久)
 死んだはずの定恵が何故生きていたのか。或いは死んだことにしたのか。もう少し検討して
みよう。
 『日本書紀』(皇極天皇紀)、3年春1月1日、中臣鎌子連を神祇伯に任ぜられたが、再三辞退
してお受けしなかった。病と称して退去し、摂津三島(みしま)に住んだ。このころ軽皇子(かるの
みこ)も脚の病で参朝されなかった。中臣鎌足は以前から軽皇子と親しかった。それでその宮
に参上して侍宿(とのい)をしようとした。軽皇子は鎌子連の資性が高潔で、容姿に犯しがたい
気品のあることを知って、もと寵妃の安倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、寝具を新
たにして懇切に給仕させ鄭重におもてなしになった。中臣鎌子連は知遇に感激して舎人に語
り、「このような恩沢(みうつくしび)を賜ることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王とお
なりになることを、誰もはばむ者はないだろう」といった。
  昭和62年の京大「阿武山古墳X線写真研究会」発表は衝撃的であった。昭和9年に偶然発見
された古墳で、中には遺体が残っていたのだ。当時の写真原版をコンピュ−タ−で解析、玉枕
は大織冠、遺体は鎌足ではないか、となったのである。棺(ひつぎ)は布と漆を交互に塗り固め
た乾漆棺で、完全な形の乾漆棺の出土は、中国では何例もあるが、日本では始めてであっ
た。古墳の住所は大阪府三島郡阿武野村、麓が阿威村で大織冠山が存在し、ここが鎌足の
墓と考えられていた。なお、天武・持統合葬陵・天武天皇棺が、乾漆棺と考えられる。この陵は
鎌倉時代に盗掘に遭い、被害状況を実検した『阿不幾之山陵記』によると、この陵石室に漆製
の棺があり、赤い衣装と金銀・珠玉で出来た唐物風の玉枕があった、というのである。
  鎌足の娘2人、氷上媛・五百重媛が天武妃となるのは壬申の乱後か前か。私説であるが、
天武が死して五百重媛は不比等の妃となる。弘文天皇には耳面刀自を妃に入れているのに
肝心の天智には1人も妃を差し出していないことからみて、乱の後に天武が戦利品として妃と
したのか。事実、天智の娘4人を天武は妃としているが、2人は乱後と考えられる。『帝王編年
記』では、藤原不比等を天智天皇の子供としている。大塚泰二郎氏は天武は天智の娘4人を
妻にしているが、2人は乱後に妃とした、これは勝った方がゆわば戦利品としたのだ。と述べ
ている。鎌足の娘2人も同じ運命であったと考える。
  持統の名前は、「血統を維持する」である。生年は643年。皇極3年(643)に中大兄は鎌足の
勧めで石川麻呂の娘遠智娘と結婚した。その子が持統である。しかも持統は次女である。書
紀では大化の改新(645)の前年に鎌足にそそのかされて結婚したことになっている。事実は孝
徳の娘で天智の養女として天武の妃となったと考えられる。乳媛と遠智娘は紛らわしい名前で
ある。
  『日本書紀』『藤氏家伝』『元亨釈書』の三者三様の記述から何を汲み取るか。帰国と死亡は
以下の表の通りである。
定恵
日本書紀・藤氏家伝
元亨釈書
帰国 天智4年・665年 天智朝 白鳳7年・679年 天武朝
死亡 天智4年・665年 天智朝 和銅7年・714年 元明朝
  これからは私の考えである。何故、帰国と死亡の年が異なるのか。不比等が活躍した時代に
定恵が生きていたら今までの歴史は確実に変わると考える。もう少し『元亨釈書』を研究する
必要があろう。『藤氏家伝』は不比等の孫の仲麻呂が記したという。散逸したのか最初からな
かったのか「不比等伝」がない。『元亨釈書』は後醍醐天皇に献上され、当代一の学問僧虎関
(こかん)師錬(しれん)の著した日本最初の仏教通史である。信用すべきだと考える。死んだ人
を何故生かす必要があるのか。生きていたからこそ伝記があると考える。『元亨釈書』は定恵
を孝徳天皇の子と明記し、『日本書紀』もそれとなく匂わせている。阿武山古墳の遺体が鎌足
なら、多武峰に移葬したという事実は違うが、談山神社の存在意義を否定するものではない。
不比等は定恵帰国後に出仕できたのではなかうか。不比等の養家田辺氏は大友皇子側の武
将である。定恵と持統は姉弟である。天武は唐の郭務そうの協力で壬申の乱を勝ち抜いた。
『扶桑略記』によると壬申の乱後に帰国している。定恵が多武峰に居るとすると、吉野=多武
峰も考えられ、持統の31回の吉野行幸も理解できる。孝徳天皇・文武天皇ともに「軽皇子」で
ある。孝徳天皇の血統を維持した。天武王朝ではなく孝徳王朝である。だから、持統天武は唐
の傀儡、定恵は都督・真人、不比等は都督代行・不人、と考えるとどうか。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-23.  十川昌久)
 過去の外来文化の大量受け入れについて考えて見ましょう、(鈴木治氏『白村江』を参考にし
た)
○アメリカ文化
 大東亜戦争(アメリカは欧州と太平洋と二方面で戦っていたので対日本戦争を太平洋戦争と
呼んだ。日本はアジアの植民地からの解放を大義名分に掲げていたので大東亜戦争と命名し
た)の無条件降伏・敗戦により、現在の日本は51番目の州と言われるぐらい、アメリカナイズさ
れています。農地改革により、地主階級の土地を小作人に解放し、自作農化した農民や、労
働組合の結成による労働者の購買力の増大などが経済成長の大きなエネルギーとなりまし
た。
○西欧文化
 明治維新により西欧文化を受け入れ、富国強兵としての道を歩みました。これも尊皇攘夷思
想からすれば、安政の不平等条約は列強に押し付けられたもので、一種の敗戦・降伏と考え
られます。下関などは一時占領されたのです。士族は力を完全に失い、平民も政治へ参加す
ることにより、商人・地主層の購買力増大が経済成長のエネルギーとなりました。この不平等
条約は領事裁判権と関税自主権の二つの権利ですが、明治27年の条約改正まで粘り強く交
渉が重ねられました。
○キリシタン文化
 この時代は織田信長による文化導入のように見えますが、占領をする前のプレゼント攻勢・
キリシタン布教であり、やり方は幕末と同じです。対日基本政策「分割して統治せよ」と日本統
一を妨害しましたが、秀吉により統一が完了しました。しかし、国力を消耗させようとする、バラ
モンの甘言による、秀吉の朝鮮役の最後は敗戦で終了しました。当時の鉄砲所持など、日本
の軍事力は世界一でした。だからヨーロッパ勢もうかつに手出しはできなかったのです。それ
だから徳川幕府は植民地政策の先兵たるキリシタン弾圧を行ったのです。信長の楽市楽座な
ど既成の権力構造を打ち破ることにより経済成長を達成しました。
 関ヶ原の合戦(1600)には、東西両軍併せて5万挺の鉄砲が装備されていました。これほどの
数の鉄砲が一戦場に結集されたことは、ヨーロッパでもナポレオンの国民軍登場を待たないと
できなかったのです。
○仏教文化
 白村江の敗戦により、仏教文化・律令体制の完成となります。部族国家の集まりを、律令体
制により統一し、日本国としてのアイデインティティを確立し経済成長を遂げました。
 このように大改革は敗戦によってのみ行なわれ、それに伴い大きく経済が伸びていることが
わかります。いわば敗戦によってのみ改革が成功したこととなるのです。現在の日本も、日米
の経済戦争に敗れ、これをきっかけに、構造改革を成功させ、再度経済成長を目指して欲し
いと考えます。国民はGNPの大きさに比べて、生活水準が何となく欧米に劣っていると感じて
います。まだまだ、潜在成長力は十分あると考えます。
 それでは白村江の敗戦により、どうなったのでしょうか。書紀によると、神武天皇即位は辛酉
年正月庚辰朔となっています。これより日本の建国は2月11日と制定されました。書紀は編年
体で記述されています。雄略天皇以降はげんかれき元嘉暦に基づいていますが、安康天皇以
前は儀鳳暦で編年されています。暦では新しい方の儀鳳暦が古い時代を記述し、古い元嘉暦
が新しい時代を記述しています。これも森博達氏の『日本書紀の謎を解く』を理解するとすっき
りと説明が出来ます。なお、神武即位は辛酉革命理論で昔から説明されてきました。
 元嘉暦は南朝宋の元嘉22年(445)に施行された暦です。一方の儀鳳暦は唐では麟徳2年
(665)に施行されたので麟徳暦と呼ばれ、日本には儀鳳年間に入ってきたので儀鳳暦と呼ば
れています。
 三善清行・文書博士(菅原道真を追い落とした人)の革命勘文によると、昌泰4年(901)辛酉年
に醍醐天皇に易の辛酉革命理論に基づいて改元を提言し、延喜と改元されました。三善清行
は一ぼう蔀=22げん元(回、1元=60年)=1320年の辛酉の年に大変革が起こる。日本書
紀を研究し、神武即位から1320年後の斉明天皇7年(661)に斉明天皇が朝倉宮で崩御され
た。と百済滅亡の翌年を起点としました。
 那珂通世は三善清行説を修正して、一蔀は21元と考え、1260年説をとり、推古天皇9年
(601)を起点としている。
 しかし、何故斉明天皇7年とか、推古天皇9年が起点になりうるのでしょう。讖緯説という歴史
理論があります。これは経書(四書五経、儒教の聖典)に対する、後漢時代に成立した予言を
中心とした緯書に記された歴史理論です。その中に易緯・辛酉革命理論があります。国家の
運命を予言するなどの理由で隋・唐時代には弾圧されました。この後漢のていげん鄭玄(127-
200)の歴史理論によると、文明は1320年を1サイクルとして循環するとしています。神武即位・
前660年から1320年後は661年百済滅亡の翌年。鄭玄の革命年「辛酉」にあたるのです。辛酉
年は「天命が改まる年」で、辛酉の3年後の「甲子」年は革令で「制度が革まる年」です。この甲
子年は664年で白村江の敗戦の翌年にあたるのです。そうです、「白村江の敗戦」が天皇即位
の起点の年とされたのです。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-24.  十川昌久)
 「白村江の戦い」を見てみましょう。当時者国のそれぞれの史書が記す、三景として『世界の
歴史・中央公論社』に掲載されています。白村江の戦いは663年の8月27日から、翌日にかけ
て戦われました。百済の復興運動におよぼした決定的な影響はいうまでもないが、当時の世
界帝国・唐と戦ったという点で、日本史上でも特異な体験の一つといってよいでしょう。当事者
三国の記録を読んでみましょう。
○唐側からみた情景
 [劉仁軌は、唐の]水軍および糧船を率いて、熊津江より白江(白村江)にゆ往き、陸軍と会
し、ともに周留城におもむ趣く。仁軌は倭兵にあ遭い、白江の河口において、四戦してみなか
捷つ。その舟四百艘をや焚き、えんえん煙?は天にみなぎ漲り、海水はみな赤く、賊衆は大い
につい潰ゆ。扶餘豊(豊璋)、身をもってのが脱れ走る。その宝剣をえ獲たり。偽王子の扶餘忠
勝・忠志らが、士女および倭の衆、並びに耽羅国の使いを率い、一時に並び降る。百済の諸
城は、みなま復た帰順せり。  (『旧唐書』劉仁軌伝)
○新羅側からみた情景
 総管の孫仁師が、[唐]兵を領して来たり、[熊津都督]府を救う。新羅の兵馬もまた出発し、
周留城の下に至る。このとき倭国の船兵が来たり、百済を助く。倭の船千艘は、とま停って白
沙(白村江)に在り。百済の精騎は、岸上に船を守る。新羅のぎょうき驍騎は、漢(唐)の前鋒と
為り、先ず岸の陣を破る。周留[城]は落胆し、遂に即ち降下せり。 (『三国史記』文武王11年
条「文武王報書」)
○日本側からみた情景
 ☆[秋8月]つちのえいぬ戊犬(17日)、賊将はつぬ州柔(周留)に至って、その王城をかこ繞
む。もろこし大唐の軍将(指揮官)は、戦船百七十艘を率いて、はくすきのえ白村江につらな陣
烈る。
 ☆つちのえさる戊申(27日)、やまと日本のふな船いくさ師の初めに至る者は、大唐の船師と
合い戦う。日本はまけ不利て退き、大唐はつら陣を堅くして守る。
☆つちのととり己酉(28日)、日本の諸将と、くだら百済の王とはあるかたち気象をみ観ずに、
あいかた相謂りていわ曰く「我らが先を争えば、彼は自ら退くであろう」と。更に日本のつら伍
乱れた中軍の卒を率い、進んで大唐の陣を堅くした軍を打つ。大唐は、すなわ便ち左右より
[日本の]船を夾んで、繞み戦う。ときのまに、官軍やぶ敗績れぬ。水に赴いてできし溺死する
者おお衆し。へとも艫舳をかいせん廻旋することを得ず。え朴ちの市たくつ田来津は、天に仰
いで誓い、歯をくいしば切っていか嗔り、数十人を殺し、ここにおいて戦死する。是のとき、百
済王の豊璋は、数人と船に乗り、こま高麗に逃げ去る。
 ☆九月かのとい辛亥のついたち朔ひのとみ丁巳(7日)、百済の州柔城(周留城)は、始めて
もろこし唐にしたが降う。  (『日本書紀』天智紀2年条)
 顕慶5年(660)、百済を滅ぼした後、唐は百済の旧都熊津城に熊津都督府設置します。馬韓・
東明・金漣・徳安に都督府を置き、その下に三七州・二五〇県を置きました。熊津都督府が総
轄しました。5都督府が百済旧領の州や県を支配するのです。都督府の長官は唐人だがその
配下である刺史は県令には旧百済の在地の有力豪族が起用されました。最初の熊津都督府
長官は王文度が任命されましたが、着任後急死、捕虜の旧百済王の王子扶余隆が任命さ
れ、新羅と和睦協定を締結しました。
 その後、百済遺民の蜂起がありましたが、663年白村江の勝利で鎮圧されました。新羅の王
都も唐の「鶏林大都督府」になりました。唐は百済王子の扶余隆を錦江中流の要衝地熊津(現
在の忠清南道公州市)にある熊津都督府の都督に任じて、彼を唐から帰国させました。唐の
音頭で664年2月には、唐使の立会いのもと、新羅は扶余隆と政治的関係を結んでいます。そ
の直後に郭務?を日本に派遣しています。665年の会盟状況は、扶余隆と新羅王が熊津で会
見し、殺した白馬の血をすすって盟約を結んでいるのです。その後、唐軍は高句麗征服のた
めに軍を北方に送ったため、百済の旧領は新羅の併合するところとなりました。
 百済を鎮圧した唐軍は高句麗の平壌を囲んだこともありましたが、乾封元年(666)、あらため
て高句麗征服軍を派遣しました。総章元年(668)、高句麗は滅亡しました。唐は9都督府・42
州・100県を置き、平壌に安東都護府を置いて監督しました。しかし、高句麗遺民の反乱が起
き、新羅はこれを援けて唐に抵抗しました。唐は反乱を平定したのち、上元元年(674)、新羅に
対する問責の軍を起こしましたが、首尾ははかばかしくなかったのです。新羅は唐へ、669年、
672年、675年と三回の謝罪使を派遣しました。三回目は高宗の逆鱗にふれ、文武王の王位剥
奪にまで発展しましたが、実効支配の実態の方が最終的に優先となりました。翌年、新羅が唐
に謝罪する形で軍を収め、翌儀鳳元年(676)、安東都護府を平壌から遼東へ遷したのです。こ
れで完全に半島は新羅が統一支配することとなりました。
 則天武后・万歳通天元年(696)、契丹が反乱を起こしたとき、遼西に亡命していた高句麗遺
民の大祚栄が、亡命者を率いて東北の奥地に逃れ、靺鞨人らを支配して振(震)国を建てまし
た。後の渤海国です。玄宗・先天2年(712)、大祚栄を渤海郡王に封じ、忽汗州都督を授けまし
た。
 玄宗・開元26年(738)、雲南に国を建てた南詔を越国王に封じ、ついで雲南王を授けました。
その後、唐の軍隊を大破したことがあるが、元和4年(809)、南詔王に封じられました。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-25.  十川昌久)
 天皇家は万世一系、と言っても、もう「そんなことはない」と考える人が増えてきました。では
本当にそうなのか。正史の『古事記』『日本書紀』から問題を洗い出してみましょう。
 最初は易しい問題です。初代の神武天皇は「はつくにに始馭しらす天下すめらみこと天皇」と
呼ばれており、10代の崇神天皇も「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」と呼ばれていま
す。どちらも初代と名乗っているのです。従って、戦後史学は崇神天皇からが実在の天皇で、9
代までは架空とされ、欠史9代とも言われています。崇神天皇の名は「みまき御間城いりひこ入
彦」といい、みまな任那の宮城に居住した大王とする説もあるのです。
 次は仲哀天皇です。この天皇はかの有名な日本武尊の子供とされています。しかし、『日本
書紀』を熟読すると、日本武尊歿後34年後に、ご生誕されているのである。しかも九州の地で
非業の死を遂げられているのである。
 仲哀天皇の奥方が、これまた有名な神功皇后である。戦前は新羅征伐が国民を奮い立た
せ、お札にもなったほどの女傑であるが、戦後は作り話として処理されている。でも、山口県西
部から北九州にかけては、神功皇后伝説が色濃く残っており、まんざら架空の話とするわけに
はいかないと考える。小生はなんらかの史実が反映していると推察する。
 仲哀天皇と神功皇后との間に、ご生誕されたのが応神天皇である。ご出産を石で押さえて、
新羅征伐完了まで、我慢されたという。仲哀天皇死亡日から丁度10月10日後にお生まれにな
った。実に論理的な天皇であられる。また、立派な天皇にもかかわらず、神功皇后が100歳で
亡くなられると、69歳でようやく即位された。従って、正式には、この69年間は天皇が不在であ
ったことになる。
 次は応神天皇五世の孫といわれる、継体天皇である。武烈天皇に子供がいなかったので、
急遽ピンチヒッターで登板されたのです。この天皇は名前からして皇統を受け継いではいない
のではないかと、多くの学者がいろいろな説を唱えています。辞書には相続するときは「嗣ぐ」
とあります。ですから「日嗣(ひつぎ)のみこ皇子」というのです。「継ぐ」はどうもおかしいと考える
のです。
 明治の文豪であり、陸軍軍医総監でもあった森鴎外は、『帝謚(ていし)考』で中国古典を引用
して、「継体持統」は熟語である。この熟語から命名されたと推察する、と述べています。軍医
総監の立場から、「帝諡」をわざわざ「帝謚」と変えてはいますが、熟語であるとはっきり述べて
いるのです。ですから継体天皇がそうなら、持統天皇も同じなのです。すると、森鴎外が暗に
匂わした、「血統を維持し、体制を継続する」との意味となります。更に、継体天皇は即位して
から、当時の中心地・大和に移るまでに20年もかかっているのです。多くの学者は現天皇家の
先祖は継体天皇という。
 小生は次の欽明天皇も問題視しています。何故なら、継体天皇と武烈天皇の姉・手白髪香
皇女が結婚して、嫡子の欽明天皇がご生誕されたのです。でも、武烈天皇は57歳で亡くなられ
ているのです。現在でもこのような高齢出産は非常に難しいと考えますが如何でしょうか。
 まだまだ他にもありますが、最後に持統天皇に触れておきましょう。持統天皇の父君は天智
天皇で、夫君は天武天皇です。天智天皇がまだ中大兄皇子と呼ばれていたとき、蘇我入鹿の
横暴に困り果て、大化の改新が起きます。その時に、参謀として活躍した藤原鎌足(当時はま
だ中臣鎌足と呼ばれていた)が、蹴鞠の機会を利用して、中大兄皇子に近づき、大業を成すに
は有力者の娘と婚姻関係を結ぶべし、と助言します。そして入鹿のいとこの蘇我石川麻呂の
娘二人を妻とするのです。その一人遠智娘から持統天皇が次女としてご誕生されるのです。
大化の改新が645年、持統天皇のご誕生も645年です。鎌足の助言は644年です。トントン拍子
の進行状況です。後の史書『扶桑略記』では、ご生誕を643年としています。
 『古事記』は推古天皇で終わり、『日本書紀』は持統天皇で終わります。どちらも女帝です。ま
た完成も、元明・元正の両女帝です。何故、この時代は女帝が多いのでしょうか。律令制度を
導入し、王権の確立期なのに女帝が活躍するのです。712年完成の『古事記』は渡来と記述
し、聖徳太子は登場しません。720年完成の『日本書紀』は帰化と記し、聖人・聖徳太子が活躍
するのです。この8年間に王権が小中華意識を持った事を示しています。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-26. 十川 昌久)
 日本書紀には天皇の即位年と皇太子の関係が記載されています。しかし一覧表に纏めてみ
ると、天皇と皇太子の年齢関係に矛盾が生じます。以下に記します。
*1.( )内が日本書紀の立太子年齢より計算した年齢
*2. 名前は全て漢風謚号で統一した。
  神武天皇    神武皇太子15才  何故皇太子?前の天皇は?神武45才、東遷開始
      元年 神武即位51才
      42年 綏靖皇太子
      76年 神武天皇歿(127才)、綏靖48才
  綏靖天皇25年 安寧皇太子21才
      33年 綏靖天皇歿84才
  安寧天皇11年 懿徳皇太子16才
      38年 安寧天皇歿(67才)
  懿徳天皇22年 孝昭皇太子18才
      34年 懿徳天皇歿(77才)
  孝昭天皇68年 孝安皇太子20才
      83年 孝昭天皇歿(113才)
  孝安天皇76年 孝霊皇太子26才
     102年 孝安天皇歿(137才)
  孝霊天皇36年 孝元皇太子19才
      76年 孝霊天皇歿(128才)
  孝元天皇22年 開化皇太子16才
      57年 孝元天皇歿(116才)
  開化天皇28年 崇神皇太子19才
      60年 開化天皇歿(111才)
  崇神天皇48年 垂仁皇太子24才
      68年 崇神天皇歿120才(119才)
  垂仁天皇 3年 新羅王の子・天日槍が七ツの神宝を持ってきた。
      37年 景行皇太子21才
      99年 垂仁天皇歿140才(143才)
  景行天皇43年 日本武尊歿30才
      46年 成務皇太子24才
      60年 景行天皇歿106才(143才)
  成務天皇48年 仲哀皇太子31才(日本武尊歿後65年) 仲哀は歿後34年後に生誕
          仲哀は日本書紀では日本武尊の子となっている
      60年 成務天皇歿107才(98才)
  仲哀天皇 9年2月6日  仲哀天皇歿52才(52才)(8年9月5日初めて孕るとある)
        12月14日 応神誕生(仲哀52才死亡時の子、神功は31才)歿後十月十日、
        305日で出産
  神功皇后 3年 応神皇太子
      39年 魏、景初3年
      40年 魏、正始元年
      43年 魏、正始4年
      55年 百済、肖古王歿
      56年 百済、貴須王即位
      69年 神功皇后歿100才(応神は69才なのに何故即位しなかったのか)
  応神天皇40年 仁徳太子補佐
      41年 応神天皇歿110才(大隅宮)(110才)
      (44)年 3年間空位
  仁徳天皇31年 履中皇太子15才
      87年 仁徳天皇歿(91以上)
  履中天皇 2年 反正皇太子
       6年 履中天皇歿70才(77才)
  反正天皇 5年 反正天皇歿(9才以上)
  允恭天皇42年 允恭天皇歿78才(42才以上)
  安康天皇 3年 安康天皇殺される(3才以上)
  雄略天皇 5年 嶋王誕生
      22年 清寧皇太子
      23年4月 百済文斤王歿
      23年8月 雄略天皇歿(23才以上)
  清寧天皇 3年 仁賢皇太子
       5年 清寧天皇歿(5才以上)
  飯豊青尊 元年 飯豊青尊歿(空位1年)
  顕宗天皇 3年 顕宗天皇歿(3才以上)
  仁賢天皇 7年 武烈皇太子
      11年 仁賢天皇歿(17才以上)
  武烈天皇 4年 百済武寧王即位(嶋王)
       8年 武烈天皇歿57才(12才以上)
  継体天皇17年 百済武寧王歿
      25年 継体天皇歿82才、28年継体天皇歿説(辛亥年)
  安閑天皇 2年 安閑天皇歿70才
  宣化天皇 4年 宣化天皇歿73才
  欽明天皇29年 敏達皇太子
      32年 欽明天皇歿年若干
  敏達天皇14年 敏達天皇歿、推古34才(18才推古、敏達の皇后)
  用明天皇 2年 用明天皇歿
  崇峻天皇 5年 崇峻天皇殺される、推古39才
  推古天皇 元年 聖徳太子皇太子
      29年 聖徳太子歿
      36年 推古天皇歿
  舒明天皇 2年 皇極、舒明の皇后
      13年 舒明天皇歿、天智16才
  皇極天皇 4年 大化元年、天智皇太子
  孝徳天皇 5年 孝徳天皇歿、白雉5年
  斉明天皇 3年 持統、天武の妃
       7年 斉明天皇歿
  天智天皇 7年 天智即位、天武皇太子、草壁出生
      10年 天智天皇歿
  弘文天皇 元年 弘文天皇死
  天武天皇 2年 持統、天武の皇后
      15年 天武天皇歿、朱鳥元年
  持統天皇 4年 持統即位
      11年 譲位
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-27. 十川 昌久)
 「騎馬民族日本征服論」を提示された江上波夫氏(2002.11.死去)は扶余隆の墓誌に「公諱(い
みな)は隆、字(あざな)は隆、百済辰朝の人なり」という書き出しから、辰王朝があったとされま
した。この辰王朝の分家が百済王家で、本家が弁韓(任那)から倭国に進出した。だから任那
は「王の土地、王の国」と呼ばれるに相応しいのだ。だから倭王武は執拗に百済を勢力範囲
下に置くことにこだわった。と述べています。また、兼川晋氏は、高句麗・百済・新羅・加羅なら
『四国史記』なのに『三国史記』としたのは加羅が倭人の国だったので除外したのだ。と述べて
います。
 五行思想で考えると、馬韓=午韓=南韓、辰韓=東南東韓、となります。楽浪郡から見ての
方向でしょう。南朝から高句麗は楽浪公を受爵しており、北朝からは遼東公を受爵していま
す。百済(馬韓の伯済国が統一して百済となる)は北朝(北斉・隋・唐)から帯方公を受爵(楽浪郡
の南は帯方郡となる→馬韓の地)しています。新羅(辰韓の斯盧国が統一して新羅となる)は北
朝(北斉・隋・唐)から楽浪公を受爵しているのです。残りの弁韓とは、馬韓・辰韓とは弁(辨)別
した韓=弁韓である。韓人ではない韓、即ち倭人の韓であるのです。
 洛東江とは駕洛諸国の東を流れる川の意です (加羅=加良=呵羅=駕洛=伽落=加耶=伽耶=
狗邪) 。鈴木靖民氏は、RもしくはLの発音は、韓国から日本列島にかけての人々は苦手で、
日本語でもラ行の言葉は殆ど外来語です。たぶん韓国人はもっと苦手で、これを落として発音
するわけです。ですから「カヤ」でも「カラ」でも同じです。「カル」がもとの発音です。弁辰や弁韓
の「弁」という字はもともと中国語だが、古代以来の韓国語にも日本語と同じように音と訓があ
って、「弁」を訓でいうと「kal」となり、この「カル」が漢字二字の加耶もしくは加羅という表記にな
った。と述べています。(「幻の加耶と古代日本」より)
国号の由来は次のようです、
新羅国号:「徳業日新、網羅四方」(『三国史記』智証王4年条)説
百済国号:「十済」から「百済」に改めた(『三国史記』)説
 百済を「渡」の意味に考え、「百家が渡河」して建設(『三国史記』)説。百家が渡河でなく、渡
海して建国(『隋書』百済伝『海東高僧伝』)説などがあります。私は、兄弟の序列として、孟−
伯−仲−叔−季が挙げられますので、この伯と考えます。孔子の長兄は名を孟皮、字を伯
仲、孔子は名を丘、字を仲尼といいます。「済」は斉・齊で、なか、中央、うず(済)、水のうず
(済)、へそ(臍)、ほぞ(臍)、などの意味もあります。「伯済」で中心の兄貴分との意味になるので
す。十済から百済についても「百姓斉民」で、全ての人民を平等に扱うとの語となり、きわめて
政治的な国号です。
△倭人は帯方(馬韓)の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑をなす。
△当時は4国抗争なのに『三国史記』といい、伽耶=加羅(弁韓、任那)は除外されています。
それは韓人の国ではないからだと考えられます。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-28. 十川 昌久)
 僧の一然(いちねん)が著した『三国遺事』金堤上伝に、倭には美海(未叱喜)が、高句麗には
宝海が、人質にとられた物語を伝えている。美海は那密(奈勿)王の第三子、宝海は第二子
で、長男はやがて訥示氏(とっき)王になった。時代は奈密王から訥示氏王にかけてのころ、美
海が倭に行ったのは390年、宝海の高句麗入りは419年とする。ところが、人質になった兄弟
二人は相次いで、425年のうちに帰ってきた。美海の帰還は金堤上の非凡な策略で成功した。
新羅からの亡命者と詐って倭王に近づき、朝露にまぎれて舟を出し、美海が逃げおおせたそ
の後で、自分の本性をあらわした。「わたしは鶏林(新羅)の臣であり、倭の臣にあら非ざるな
り」。ただちにかれは捕らえられ、火あぶりにされたという。
 正史の『三国史記』では、じつせいに実聖尼し師きん今紀、訥示氏まりつ麻立かん干紀や、
朴堤上伝などにある。『三国史記』朴堤上伝によれば、かれのまたの名は「毛末」といったとも
いう。朴堤上にたす救けられた人質の名は、美海(未叱喜)が未斯欣に、宝海も卜好にかわ
る。これは漢字の当て字が違っただけで、もとの呼び名は共通する。倭への人質は402年、高
句麗へは412年であって、帰りが418年といい、『三国遺事』の物語と同じ年次は一つもない。だ
から物語であるが、両物語とも「堤上」が人質奪還の悲劇の英雄である。そして、最後は捕ら
えられ火あぶりのうえ、斬られたという。
 この物語は『日本書紀』にも伝えられている。神功摂政前紀(仲哀天皇9年10月条)に、
新羅からとった人質「微叱己知波珍干岐」の記事をうけ、神功摂政紀5年条は、新羅王の命令
で、人質「み微しこち叱許智ほつかん伐旱」を奪還にきた話がある。人質の名前の「知」「智」は
尊称で、下線の部分は新羅の官位名である。『三国遺事』『三国史記』の人質の名前と同じこと
が分かる。『日本書紀』では人質奪還の英雄は三人おり、「う礼斯伐」「毛麻利叱智」「富羅母
地」となるが、「堤上」に相当する人は、又の名「毛末」を持つ「毛麻利叱智」がその人である。
三人とも捕らえられ、倭人はかれらを「火を以てや焚き殺し」たという。
 火あぶりといえば、『三国史記』昔于老伝がある。昔于老はやはり対倭関係で活躍し、堤上と
並ぶ伝説的な英雄である。「昔」は姓氏で、名は「于老」、その名は「?礼斯伐」に通じる。そして
昔于老伝では、かれもまた倭人によって火あぶりにされたという。さらにその後、于老の妻が
夫の怨みをはらすため、倭人を火あぶりにした話が続く。しかし、この話は『日本書紀』には欠
けている。
 人質外交は他にもある。『三国史記』奈勿尼師今紀だけに伝えられた、実聖王自身の人質
体験である。同紀によれば392年、新羅の奈勿王は高句麗の強盛ぶりをみて、即位前の実聖
を人質に出した。かれが新羅王になったのは、高句麗から戻ってすぐ、翌402年であった。実
聖と奈勿王との血縁関係は、父系的には、同姓金氏の始祖を共通にするだけだが、それぞれ
みすう味鄒王のむすめ女を妻にした。古代新羅の貴族社会では、女系は重要なポイントであ
る。実聖王が遠く離れた傍系から即位できたのもここにある。かれの即位の理由は、奈勿王
が亡くなった時、子の訥示氏が幼少だったからとする。だがしかし、人質上がりの実聖が、帰
国直後に、突然即位できたのは高句麗の新羅に対する、ある種の意図が働いたと考えられ
る。その間の複雑な実情は次の記述からも推察できよう。『三国史記』訥示氏麻立干紀による
と、実聖は高句麗から還って新羅王になると、自分を人質に出した奈勿王を怨み、その子の
訥示氏を殺そうとはかった。これを人質時代の知人に依頼したが、知人の高句麗人は訥示氏
をみ、かれの君子風の人となりに感じいって、かえって訥示氏に依頼された内容をうち明け
た。そこで「訥示氏はこれを怨み、かえ反って(実聖)王を殺して自立した」という。怨みの連鎖
が、怨みをよんだ。連鎖の中心に、人質問題があった。人質問題は、外交問題でもあった。し
かし、高句麗相手では、それがすぐ国内情勢の動揺に連動した。
 人質奪還の英雄の物語は、時間や関係人物などの曖昧さを残したまま、さまざまに変容しな
がら語り伝えられた。だが、実聖の事例をふくめて、意外と共通性が多い。そのコアの部分
に、歴史的な事実があったものであろう。英雄の背後に人質がいた。英雄が活躍すればする
ほど、新羅の南北問題の厳しさが見えてくる。「広開土王碑」に記されている内容を吟味する必
要があろう。
以上の話は『三国遺事』『三国史記』『日本書紀』を読まなくてもよく知っている話である。それ
は『いなばのしろうさぎ』の話である。
 神話伝説辞典より、「いなばのしろうさぎ、稲羽の素菟『古事記』に見える。わに和邇をだまし
て、その眷属の数をわが眷属の数と比べて見ようと、和邇を海に並ばせ、その背を飛んで隠
岐島から因幡まで渡る。渡りきった所で、うまく欺き了せたことをあかすので、和邇は怒り、兎
の皮をはぎ取る。痛さのあまり泣いている所を、大国主命の兄の八十神達が因幡の八上比売
の許に求婚に行く途中通りかかり、塩水を浴びると良いと教えるので、その通りにすると苦痛
が加わり泣く。大国主が通りかかり真水で洗い、がまのはな蒲黄の上に転べば、本復すると教
えるので、それを実行すると癒ったという。」
 『いなばのしろうさぎ』型伝説はアジア全域に分布している。@インド、Aセイロン、Bジャワ、
Cタイ、Dボルネオ・セレべス、Eマライ、Fミンダナオ、Gアンナン・カンボジア、Hニューギニ
ア、I南中国、J台湾、K日本、Lカムチャツカ。しかし、何故か朝鮮半島にはない。兎と鰐、
猿と鰐、兎と鯨、鼠鹿と鰐、金狼と鰐、などのバリエーションがある。なお、山陰地方、特に中
国山地ではサメのことをワニという。西岡秀雄氏はアンナン地方が発生地ではないかと推測し
ている。
 この神話を加治木義博氏はこう解読している。訥示氏王の「トッキ」とはウサギのことである。
「シロウサギ」とは「斯廬(新羅)ウサギ」である。なお、白兔は明治になり、輸入された家兔で、
日本では茶鼠色の兔しかいなかった。ごくまれに北国に冬毛の白兔を見る程度であった。ま
た、百済と新羅は当時、王家が分かれていないので先祖は同じである。百済の「トッキ」は直支
王にあたる。それは書紀の応神紀に王子の時に日本に人質で来ていたと記している。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-29. 十川 昌久)
 豊臣秀吉による朝鮮侵略は白村江以来の日中の国家的戦争であった。その結果、明清時
代には豊臣秀吉を題材とした文学作品が多く生み出された。その中の明代の短編伝奇『斬蛟
記』を紹介しよう。
 大昔、旌陽の許真君という有名な道士は、人間に害をなした大蛟を斬り殺したとき、その腹
から出てきた一匹の小蛟を逃がしてしまった。この小蛟はのち日本の紅鹿江なる銀蛟山に住
みつき、それから1200年あまりをへて、無数の物類に危害をくわえ、ついに人間に化けて平秀
吉となった。秀吉は一兵卒から身を起こし、関白を殺してその位を奪い、さらに六十六州を征
服した。世間は妖怪の変化にまったく気がつかず、ただその狡智と怪力にひれ伏すばかり、琉
球と朝鮮も畏怖するあまり朝貢を怠らなかった。万暦20年(1592)4月、平秀吉はいきなり20万
の大軍を発して朝鮮を犯し、たちまち王京(ソウル)・平壌・安辺をあいついで陥れ、いよいよ中
国の遼東を攻め、北京を狙おうとした。朝鮮から急を報じられた朝廷は、そうおう宋応しょう昌
を経略(総司令官)、私(著者の袁黄)と劉玄子を参謀として救援に馳せるよう命じた。われらが
遼陽に至ると、祖師(著者の道教の師)は弟子の程洞真を遣わしてきて、私の出資でガチョウ
3600羽を買わせた。祖師は黄石公や徐茂公らをひきいて海をわたって銀蛟山に到着した。周
りを見わたせば、その石は朱のごとく、その水は茶のごとく、禿げ山には草木がなく、崖の下に
は羽毛が山積み、命あるものは蛟精に食い尽くされたのである。そこで、ガチョウの群を紅鹿
江に浮かばせ、その争い競うような鳴き声とともに、黄石公がまじないをかけると、環形をなし
たガチョウの真ん中から怪物が首をもたげてきた。巨鐘のごとき頭に、赤い髪を覆い、両眼が
黄色く光っている。祖師は時すかさず宝剣を抜きだすやその首を斬りおとした。水面に浮かん
できた死体は長さおよそ数千丈、蛇形にして魚鱗あり。これは万暦21年(1693)正月7日のこと
だった。このとき私は義州(中朝国境あたり)にいたが、流れ星が東より飛んで墜ちたのをみ
て、すぐに関白の死を察知し、官職を棄てて帰京する途中、兄弟子の徐茂公に遭い、祖師が
日本から扶桑を過ぎ、大小の琉球をへて8月に帰ることを告げられた。斬蛟の件は極秘にさ
れ、わが軍の将兵のみならず、倭軍の大将だった行長らさえ真相を知らなかったらしい。しか
し、それ以後、倭軍が攻撃して来なくなったのをみれば、関白の死は確かだった。
 以上の概要であるが、秀吉の死亡時期が異なることを除けば史実は間違っていない。秀吉
は1598年8月18日の死亡であるが、これも著者の創作でなく、当時関白が中毒で死亡したとの
不確実な情報が民間でささやかれ、朝廷にまで伝達されたようである。こうしたデマは戦場に
おける倭軍の急速な敗退と無関係ではなかろう。事実、戸科給事中のごおうめい呉応明が万
暦21年(1593)7月に、神宗皇帝への奏状において、「兵部が沈丙懿をして敵情を調べさせたと
ころ、関白が中毒ですでに死んだとの伝聞が報告された。倭奴が朝鮮を攻めるときはまさしく
破竹の勢いだったのに、今はわが師が集まると、たちまち平壌と開成を棄て、王京も守りきれ
ない様子だ。私見によれば、昔より遠征の師が戦わずして退くのは、軍中に疫病が流行ってい
るか、国内に急変が起こったかのいずれかである。」このように『斬蛟記』は荒唐無稽のストー
リーのなかに、当時の国際情勢を的確に反映している。伝奇小説でありながら時事小説でもあ
り、豊臣秀吉の朝鮮侵略が中国民衆に重く暗い影を落としたのである。
 このような話虚実取り混ぜての話を紹介したのは、わが国の伝承ができるまでの参考となる
からである。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-30. 十川 昌久)
『万葉集の誕生と大陸文化』(山口博著)を紹介しよう。
◎青銅器銘文の「万葉」とは、
 ▲越王は賜を旨とし、厥の吉金を択び、自ら禾禀□を祝し、(中略)順余子孫、萬?無彊、之
を用いて相ひ喪ふことな勿かれ。(越王鐘)
▲王孫遣者、其の吉金を択び、自らか?しょう鐘をな乍す。(中略)?萬孫子、永く保ちて之を鼓
せよ。(王孫遣者鐘)
 ▲祀に用ひて永?止まることな母かれ。(拍舟)
 ▲其の萬年子々孫々永く宝として用ひよ。(散車父壷・陳侯壷)
◎万葉□名@(文章語)よろずよ。万世。A=まんにょう万葉集。―がな(=仮名)□名漢字の
音や訓をかりて国語の音をうつした文字。「あ・い・う」を「阿・伊・宇」と書く類。[万葉集に多く用
いられたから](新選国語辞典)
◎殷周に始まる古代中国の青銅器は、政治的意味を持っている。その多くは、王室が先祖の
祭祀に使用する礼器であって、それはいわば国家の重器であり、政権所有の象徴でもある。
刻まれている銘文は、王室の祖及びその祭祀を司る王室の人たちの、栄誉を誇示するもので
ある。それであるから、王室の存続する限り、その青銅器は子々孫々にまで、継承されなけれ
ばならない。造られた「物」の継承ということは、それを造った王室の永続ということに他ならな
い。銘文の末尾には、その願望が明示されている。「萬葉」には「萬年」という意味がある。「萬
年子々孫々永宝用」と、「萬?」「?萬」「永?」を含む銘文を比較するなら、「萬?」が万代・万世の
意であることは明白である。「?」は本来は木の葉の意であるが、「萬?」という熟語になった場合
は、多くの木の葉という意ではなく、専ら万代・万世の意で、殷周時代から使用されていたこと
が分かった。中国の青銅器が王室の重器であり、それが子孫に継承されることの願望を込め
て、「万葉」の語句は刻まれた。「物」に対するこの願望は、それを造った王室の、繁栄と永続
への願望である。「万葉」とは、そういう名なのである。
◎国際意識は自国意識と裏腹の関係にあり、国家としての国際的存在主張のためには、逆に
他国との異なりの自覚と主張が必要である。漢詩集を作っても、それは唐帝国の模倣に過ぎ
ない。漢詩集ではなく歌集であったのは、それゆえであろう。風雅の営みとして、作られたので
はない。律令制国家を讃え、諸蕃を冊封体制下に置き、大唐を意識しつつ、東アジアにおける
国際的立場を主張する文学的営みこそが、《万葉集》の編集の目的である。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-31. 十川 昌久)
『阿倍仲麻呂の暗号』・林青梧著を紹介しよう。
現代文       「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」
万葉仮名      「阿麻能波羅 布利佐計美禮婆 加須我奈流 美加佐能夜麻珥 以傳志
都岐加毛」
古今和歌集     「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」
          なぜか離別歌でなく羇旅歌(旅の歌)の部に収められている。
土佐日記      「青海原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」
古歌は「翹首望東天 神馳奈良辺 三笠山頂上 想又皎月圓」で、日本語訳は「こうべ首をあ
翹げて東天を望めば 神はは馳す奈良のあたり辺 三笠山頂の上 想えば皎月まどか圓なら
ん」と、現代の中国ではされている。
中国版では「回首挙目野蒼穹 明月皎浩掛中空 遥思故国春日野 三笠山月亦相同」
     「望蒼穹兮茫茫 春日正華 三笠山兮天一方 明月照吾家」の二首もある。
本当の原歌は万葉仮名そのものである。呉歌として読むと、
「わたし仲介者仲麻呂は、中国皇帝の許にいて、日本に約束を果たしに行けないので、日本
国天皇はそれを不満に思って、不機嫌になり、箕や篩で、穀物をふるっているだろう。こうして
わたしは、やむなくここにとどまることになってしまったが、仲介者としてさらにはかりごとはない
ものかと、夜な夜な工作にふけっている。思えばいく転変、苦労を重ねてきたわたしの生涯で
あったが、この世の月よ、どうかわたしの志を、少しでもよいから伝えてもらいたいものだ。」
 高元度に託した、安倍仲麻呂=朝衡の心象は「奈良はみかさ御蓋山の麓の、藤原不比等ど
のの館で、おもてなしを受けたことがある。月の美しい一夜であった。以来唐にあること四十五
年。あのおり不比等どのに命じられた生涯を、真備もわたしも、このようにしか生きられなかっ
た。不比等どのは何とみてくれるであろうか。わたしはそれを、唐の夜空に思うのだ」との望郷
悲歌にとられるが、吉備真備に伝えた本当の意味は「わたしはやむなく、中国皇帝の傘下にと
どまる。真備どのや、天皇にお約束した日本援助が実現しなくて、あなた方はさぞや不機嫌な
ことだろう。しかし仲介者のわたしは、それでもなおあなた方を助けようとして、いろいろ考えて
いる(この、高元度に持たせる武器の見本は、そのひとつだ)。わたしの生涯には、いろいろと
多難なことが多かったが、長安の夜空に輝く月よ、三笠山の月となって、このわたしの気持ち
をわずかでも伝えてほしいものだ」となる。高元度は天平宝宇5年(761)7月、蘇州から海路に出
て、8月、太宰府に着いた。
 江南呉語方言では、「和服」の和と「呉服」の呉の発音は[hou]と全く同音なのである。「呉」
は、現代語では[wu]と発音する。[wu]が[wa]と変音すれば、呉→和への移行が考えられる。
もう一方で、呉[wu]は香港では、[ng]とかわり、海南島では[(n)g]と発音される。このコース
を回って日本にくれば[go]とかわり、呉[go]の発音の誕生も考えられる。日本の着物は、和
[wa]服でも呉[go]服でもよいわけである。「和歌」と江南民謡「呉歌」との関係を見逃してい
る。和歌は当初日本に来航する呉人たちの伝える山歌(呉歌)が、三十一文字の形式に落ち
着いて、日本詩歌(和歌)とよばれるようになったと考えられる。
朝衡は安南節度使を勤めあげて帰京した後は、常時、代宗のそばに侍る身となり、死に際し
て代宗は「?州大都督、従二品」をもって報いた。「安南から帰ってすぐ後、朝衡は封戸3千戸を
受けた。皇太子でさえ3百戸であるから、皇族並の破格の地位に登りつめたこととなる。唐の
皇族並とは日本の天皇以上である。」
 新年拝賀の儀の席次争い(続日本紀・天平勝宝6年正月30日の項)。王座の前、東西に訪問
各国の席が配置されている。中華では東が西より上席である。その東の第一席には新羅使た
ちが、西の第一席にはタージー大食国(サラセン)が、東の第二席には吐蕃(チベット)が着いて
いて、日本は西の第二席となっていた。席次は唐側から見た順列なので、配された側は黙って
受け入れる以外になかった。ところが日本の大伴古麻呂が怒って、朝衡に「新羅はわが国へ
の朝貢国である。しかるに新羅より下は解せぬ。」といい、席を替えるよう求めた。朝衡は拝賀
の儀担当の光禄卿呉懐実に申し入れ日本と席を替わらせた。しかし、四位の席は、逆に唐と
対等に近いことになる。上位ほど衛星国となるのである。だから新羅を日本が攻めれば唐は
新羅を助けることを意味し、この事件は唐としては日本を第一の衛星国に見直すことを意味す
る。この後、朝衡が帰国を許されたということは、日本大都督として完全に唐の支配下におくこ
とを前提にしていたこととなる。その証拠に、大使藤原清河(唐名河清)を特進(正二品文散官)
とし、福使大伴古麻呂を銀青光禄大夫(従三品職事官)に、吉備真備を銀青光禄大夫、秘書
監、および衛尉卿(ともに従三品の文散官と職事官)とした。以下233名全員が、それぞれ叙位
を受けた。日本遣唐使節が過去に中華で叙位を受けたことはなく、異例のことであった。唐側
は朝衡と真備に兵器・兵馬の指揮権を与え、日本派遣の体制を整えた。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-32. 十川 昌久)
 式内社報告書・宮内省坐神3坐  宮内省坐神三坐 並名神大。月次新嘗。   園神社、韓
神社二座
 大内裏圖考證に載せる宮内省の圖に、後廰の後方に「神院」と見える。これが園神社、韓神
社の鎮座したところであろう。園神は南に、韓神は北に鎮座した。園神は古典に所見なく、解
釈に苦しむが宮内省の園池を守る神であろうか。韓神は古事記に大年神の子として見える韓
神とは恐らく別神であろう。一伝によると園神は大物主神、韓神は大己貴・少彦名二神で、疫
を防ぐ神であるという。又、いう、延暦年中平安京を造る時、もとから坐した園・韓神を他所に
遷そうとしたところ託宣があって、なおこの所にいて帝王を護り奉らうと示されたのでそのまま
鎮祭したと。園・韓神はともに嘉祥3年(850)従五位下に叙せられ累進して貞歓元年(859)正三
位に叙せられる。延喜四時祭式によれば、毎年2季(2月・11月5日)その祭が行われ、その幣帛
の目が載せられている。三座ともに官幣の大社、名神祭に預かり新年祭のほかに月次新嘗両
祭の班幣にも預かる。
「建武年間記」「建武年中行事」の中で建武2年2月11日の項に後醍醐天皇が「から韓かみのま
つり神祭」という宮中行事を取り行った記録がある。
「韓神祭」とは、上代において2月11日に行われた、宮内省の内に祀られてある韓神社の祭。
中世以後衰え、廃絶した。
神楽歌、韓神「われ韓神のからおぎ韓招せむや」
韓の神とは大己貴・少彦名2神の称、宮内省に祀られた。
田村圓澄氏によると、高天原・天の岩戸物語は新羅慶州近辺の横穴式古墳が舞台となってい
るのでは。と推測されています。従来から伊耶那岐・伊耶那美の黄泉の国物語は横穴式古墳
の羨道が舞台である、と言われてきました。それを慶州近辺の七世紀後半築造のドア式横穴
式古墳に特定されて推測されたのです。この古墳から天の岩戸物語が発想されたとすると、
統一新羅の時代ですから、まさに、森博達氏の『日本書紀の謎を解く』によって、書紀の筆者
はβ群(1巻から13巻、22・23巻、28・29巻)を担当した新羅留学生山田史御方にぴったり
と符合するのです。森博達氏は、α群は持統朝に先行して記述され、唐人続守言と薩弘恪が
担当し、β群は文武朝に記述され、和人の山田史御方が担当した。とされています。
 田村圓澄氏は、石の戸を持った横穴式古墳は百済にはなかったと確認されており、天照大
神が細めに岩戸をあけたという話はドア式横穴式古墳の存在により、リアルとなったのです。
 以上の話から、素戔鳴尊が高天原から新羅のそ曾しもり尸茂梨に行き、そこから出雲に行
っていることは、大伽耶の都が高霊で、高皇産霊尊が天孫降臨の主宰者であることと、天照大
神に比定される持統天皇の名前が高天原広野姫であることとは無関係ではありえない。なお、
曾尸茂梨はソウルと相通ずる言葉で、王都、都のことであると言われています。
 源氏の統領・源頼義は園城寺を尊崇して、前九年の役にも、新羅明神に戦勝を祈願した。頼
義は、三男義光を新羅明神の氏人にしたので、頼義の長子義家は八幡太郎、次男義綱は賀
茂次郎、三男義光は新羅三郎と称した。園城寺は三井寺とも呼ばれ、天武15年に大友皇子の
皇子与多王が、その氏寺として創建した寺で、この寺の境内には新羅の森があり、新羅明神
を祀る新羅善神堂がある。この寺の縁起によると、この寺を再興した円珍が、天安2年(858)に
唐から帰国する船中で一人の老翁が現れ、新羅明神を名乗って、弥勒菩薩の世が来るまで、
和尚のために仏法を約束したといわれる。この新羅善神堂は、もとは神社であり、渡来人の大
友主氏の氏神だったという。
 田村圓澄氏によると、聖徳太子信仰は飛鳥時代の「氏族仏教」に対応するものだと主張す
る。太子に対する崇拝は半跏思惟像で、斑鳩の中宮寺、太秦の広隆寺、大阪の四天王寺は
半跏思惟像を祀っている。この半跏思惟像はもともと悉達太子つまり出家前の釈迦の像で、
悉達太子像がのちに弥勒像に変わっていく。聖徳太子信仰というのは、この弥勒菩薩に対す
る信仰から生まれたものである。この半跏思惟像の崇拝は新羅で盛んだった。新羅でははら
ん花郎という青年貴族集団の首領がいて、この花郎集団の青年貴族は弥勒信仰によって結
ばれていた。この弥勒菩薩の導入は、未来としての弥勒、現在としての観音、過去としての文
殊という関係を残した。この中で、観音菩薩は女性を現し、33の相を持つとされたのである。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-33. 十川 昌久)
 法隆寺の謎について考えてみましょう
1.創建
 創建を伝える史料としては、金堂東の間に安置された薬師如来坐像の宝珠形光背裏面の銘
文と、747年に朝廷に提出された「法隆寺伽藍縁起文」がある。それら史料によると、推古15年
(607)創建とされ、聖徳太子の父・用明天皇が自らの病気平癒を祈って伽藍建造を請願した
が、果たせぬまま崩御したので、意志を継いで推古天皇と太子が建設に着手したという。これ
が事実なら創建までに約20年の歳月がかかっている。
 しかし、日本書紀には記載が無く、この間の関係記事は次のようである。
○推古9年春2月、皇太子は初めて宮を斑鳩に建てられた。
○推古13年冬10月、皇太子は斑鳩宮に移られた。
○推古14年秋7月、天皇は皇太子を招き、勝鬘経を講ぜしめられた。三日間かかって説き終
えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇は大変喜んで、播磨国の
水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺に納められた。
*斑鳩寺を法隆寺とする説がある。そうすると「銘文」と年が合わないし、改名した記事がな
い。播磨の地は鵤荘(揖保郡)と名づけられ、斑鳩寺(鵤寺)がある。斑鳩寺には当然のこととし
て、書紀記事の由緒が記されている。鎌倉時代は播磨一の大寺であった。
2.再建
 正史には創建の記事がなく、ただ全焼の記事があるのみ。関係記事は次のようである。
○天智8年条、この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺に出火
があった。
○天武9年夏4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が
轟いた。
*書紀の記事からして、607年創建、670年全焼、8世紀初めに再建との定説が生まれた。
3.再建論争
 何故、書紀では法隆寺の創建が触れられないのか。聖徳太子と言えばまず法隆寺である。
他の寺の創建は書紀に記載がある。推古記だけでも次のようである。
○元年条、この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵に造りはじめた。
○4年冬11月、法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。
○11年11月1日、(前略)仏像を頂いて蜂岡寺を造った。
○14年夏4月8日、銅・繍の丈六の仏像がそれぞれ完成した。この日、丈六の銅の仏像が元興
寺の金堂の戸より高くて、堂に入れることが出来なかった。(後略)
○同年5月5日、(前略)鳥はこの田を財源に、天皇のために金剛寺を造った。これは今、南淵
の坂田尼寺といわれるものである。
○32年秋9月3日、寺および僧尼を調査して、詳細に各寺の縁起、僧尼の入道の事由、出家の
年月日などを記録した。このとき寺は46ケ所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。
*非再建論者は、法隆寺は645年の大化改新以前に使用されていた高麗尺を用いているこ
と、金堂に安置されている2体の仏像(@薬師如来坐像:太子と推古天皇が法隆寺創建前年に
作らせたという、A釈迦三尊像:太子の妃と山背大兄皇子が、太子の病気回復を祈願して作
らせたという)に焼け焦げなどの痕跡がないことを挙げている。また、夢殿(行信僧都が739年
に建てた)に安置されている、太子の生き姿といわれる救世観音像は、布と和紙で厳重に梱包
されていたが、様式からして夢殿創建年代よりも1世紀古いとされている。以上から全焼記事
は偽りだったと主張していた。ところが、若草伽藍の発掘でこれが"原"法隆寺であるとし、再
建論が優勢となった。追いかけて、金堂や五重塔の天井板の裏側に、人物像や文字の落書き
が発見され、字体と服装の特徴から飛鳥時代でなく、天武天皇の在位時代かそれ以後のもの
らしいと鑑定され、再建論に凱歌があがった。
4.新事実の発見
 21世紀になり、奈良国立文化財研究所が、法隆寺の五重塔の心柱の年輪年代測定により、
594年に伐採された木であることを発表した。学者は「瓦の年代などの研究から、五重塔の建
立は7世紀末−8世紀初めで動かない。柱には象徴的な意味があり、古いものを転用したので
は」「信頼性の検証が難しく、結論を急ぐ必要はない(日本で年輪年代法を実用化しているの
は奈文研しかない)」としている。
5.移築論
 建築家米田良三氏は、法隆寺は大宰府の観世音寺が移築されたという説をとなえている。
氏の説を簡単に紹介すると、@一般的に木造の建物は解体して、再び同じ材料で建て直す事
が可能である。A解体修理報告書によると他の建物からの混入材があった。B礎石の大半が
自然石である。C金堂修理報告書によると柱の根本に9p程の継木がある。これは礎石工事
が丁寧に行なわれれば不要なことである。D観世音寺の古図や現在残されている礎石配置
から伽藍配置を東西逆に移築するとぴったり合う。E金堂の天井落書きに「六月肺出」とあり、
肺は彗星のことで76年周期であり、541年・617年・693年となる。617年とすると6−7月となり、
新羅でも観測されている。F釈迦三尊像の光背銘は、法興31年
(621)12月、鬼前太后崩ず。明年正月22日、上官法皇枕病して愈からず。干食王后仍りて以
て労疾し、床に著く。時に王后・皇子等及び諸臣と与に深く愁毒を懐き共に相発願す。(以下
略)とあり、法興の年号は書紀になく、聖徳太子は法皇とよばれていない。(聖徳太子は572−
621年)これは観世音寺のあった倭国の年号であり王の事である。G法隆寺の近くにおきどめ
興留という小字があり、ここに観世音寺を解体した部材を置留していたと考えられる。また、米
田良三氏は、上官法皇が多利思北孤であり、治世は法興元年(591)から法興32年まで続い
た。釈迦三尊像は「釈迦尊像并びに挟侍」が正式の名称で、「尺寸の王身」とあるように上官
法皇をモデルに作られている。観世音寺の完成が618年頃であり、建設は上官法皇治世に行
なわれた。という。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-34. 十川 昌久)
 蹴鞠とポロについて、鎌足は蹴鞠で脱げた沓を拾い、中大兄皇子に近づいたとされていま
す。優雅な蹴鞠でしょうか。
 日本書紀は「偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶、而候皮鞋随毬脱落」とあり、蹴鞠で
はなく、打毬をした。と記しています。
打毬は乗馬で走り回って、ぎっちょう毬杖という杖で毬をすくい打つという、非常にパワフルな
競技なので、皮鞋が毬につれて脱ぎ落ちる可能性は十分にある。毬は毛髪を木の芯に巻きつ
けて作った、打毬用のよく飛ぶマリであり、鞠は皮革を袋状にして作った蹴鞠用の、蹴っても足
が痛くない作りのマリである。
 平城京の朱雀大路は幅90m、長さ3.7kmあるが、当時の数々の祭儀場であり、打毬を行うに
はぴったりであった。
 唐の玄宗はポロ(だきゅう打毬)が得意で、即位前に、とばん吐蕃が金城公主を迎えに来た
時、4人で吐蕃の10人を破ったことが伝えられている。ポロはペルシャ起源のスポーツで、吐蕃
を経て唐に伝わり、馬に乗って行うホッケーで、このころ唐で流行していた。
 『日本馬術史』によると、打毬は,中央アジアの一角に発したといわれ、西に流れたものがヨ
ーロッパに伝えられて「ポロ」となり、一方、東に流れたものが中国で打毬となり、やがて朝鮮
半島を経て8〜9世紀頃我国に伝わったようです。 その後、奈良・平安時代には、端午の節会
の際に行われる宮中の年中行事となり、鎌倉時代以降は衰微していました。江戸時代に至
り、8代将軍吉宗が騎馬戦を練習する武技としてこれを推奨したため、新しい競技方法も編み
出され、諸藩においても盛んに行われるようになりました。明治以降、日本古来の馬術は実用
に適した西洋馬術に圧倒され、打毬もまた洋鞍を用いる現代式打毬に転化されましたが、宮
内庁主馬班には、現在、江戸時代(中期頃)最盛期における様式の打毬が保存されています。
1.「神亀4年(727)、王子諸臣が春日野で打毬楽云々」の記述が万葉集第6巻にありますが、乗
 馬打毬かどうか判然としていません。むしろ、徒歩で打毬をしながら舞を舞ったものと推定さ
 れています。(『日本馬術史』)
2.「弘仁13年(822)正月、渤海国の国使が豊徳殿で打毬を行い、その賭として嵯峨天皇から棉
 200屯を賜った云々」の記述が類集国史巻第72巻にあり、この記録や渤海国との国交関係 
 から推察して、唐で盛んに行われていた打毬が渤海国を通じて弘仁年間に日本に伝わった
 とする説が有力です。(『日本馬術史』)
3.「承和元年(834)、仁明天皇が武徳殿の庭で四近衛府の武者に打毬を行わせらる云々」の記
 述が続日本後紀に見られ、上記1・2の記録を含めて推察すると、打毬のわが国への伝来は
 8〜9世紀頃と考えられています。(『日本馬術史』)
4.「奈良・平安両朝を通じ主として五月端午の節会の後に行われたことが多く、天覧の宮中行
 事ともなる云々」(資料「打毬の由来」主馬寮編)
5.「鎌倉時代以降、打ち続く戦乱のため、また、経済的理由により、年中公事は簡略となり、つ
 いには中止される云々」(資料「打毬の由来」主馬寮編)
6.「徳川8代将軍吉宗の奨励により、馬上武技の演練として幕府直臣はじめ諸侯の間にも行わ
 れるようになった。競技法も平安朝期の再現でなく、文化、文政、天保年間頃のものが現在
 の競技法の原型と見られる。11代将軍家斉、12代将軍家慶の時代は打毬の黄金時代であ 
 った。」(資料「打毬の由来」主馬寮編、日本馬術史)
 加賀美流騎馬打毬は、文政10年(1827)、八戸藩8代藩主南部信真公が藩祖をまつる新羅神
 社の祭典に奉納行事として行わせたのが始まりとされ、明治時代以降は毎年八戸三社大祭
 の中日に行われています。この種の打毬は、八戸の他は宮内庁と山形とに残っているだけ 
 で、その中でも八戸の打毬は最も古い形を残していると言われています。昭和47年(1972)3 
 月15日に県の無形民俗文化財に指定されました。
 新羅神社は、八戸藩2代藩主南部直政公が延宝6年(1673)に祈願所として創建しました。現
 在の社殿は文政10年(1827)に完成しました。加賀美流騎馬打毬は、同年の新羅神社の祭典
 に奉納行事として行われたのが始まりとされています。平成3年(1991)3月13日に、本殿・拝
 殿が県重宝に指定されました。 
 八戸三社大祭とは、享保6年(1721)7月19日、新羅神社で豊作加護の願いを込めて行った 
 祭礼におがみ神社が招かれ、獅子舞や大神楽等の行列に町民の山車を従えて出かけ、21
 日に戻ったのが始まりとされ、明治29年(1896)になって神明宮も加わり三社大祭になりまし 
 た。今は毎年7月31日の前夜祭を含め、お通り、中日、お還りと8月3日まで4日間開催され
 ています。八戸三社大祭の中日(8月2日)、八戸市糠塚の長者山新羅神社の境内、桜の馬場
 で行われる古式馬術。紅白2組で4騎ずつの武士が、馬上で先端に網のついた毬杖を持ち、
 地上に置いた紅白4つずつの毬を、両組入り乱れて馬を御し馬場を回りながら、毬杖の網で
 すくい上げ、味方の毬門に投げこむ。見定め奉行の判定で、白毬が入れば太鼓、紅毬が入
 れば鐘が鳴らされ、4つ全部を早く毬門に入れた方が勝となる。八戸藩8代藩主南部信真が
 武芸奨励のため、御家流加賀美馬術の騎馬八道に、当時江戸で行われていた打毬を、騎 
 乗武術の訓練を目的に取り入れ、藩主に伝承させたものである。新羅神社では文政10年  
 (1827)新築造営が落成し、その祭典行事に初めて行った。騎馬打毬は、現在宮内庁と山形
 県でも行われている。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-35. 十川 昌久)
 『日本書紀』は唐人によって、主に記述されました(森博達氏『日本書紀の謎を解く』)が、中国
古典の借用は以下の表のように膨大な数に及びます。『律令』の条文も唐の律令を殆ど真似
たと考えられます。
潤色の素材


巻次



















神代上
7
10
17
神代下
0
神武
0
綏靖〜開化
16
16
崇神
65
6
71
垂仁
13
13
景行・成務
8
8
仲衷
0
神功皇后
48
17
65
応神
8
8
仁徳
44
10
19
73
履中・反正
0
允恭・安康
28
60
88
雄略
38
76
304
104
46
568
清寧・顕宗・仁賢
8
173
51
43
149
13
437
武烈
26
18
60
21
125
継体
64
16
17
265
362
安閑・宣化
68
68
欽明 38
14
54
93
154
20
28
72
473
敏達
0
用明・崇峻
0
推古(憲法除外)
0
舒明
23
23
皇極
0
孝徳
47
22
232
82
383
斉明
0
天智
8
28
32
16
84
天武上(壬申)
31
31
天武下
25
25
持統
27
226
253
46 378 555 424 110 205 347 156 827 106 37 3191
*『八世紀の日本と東アジア』A「記紀と万葉」中、神田秀夫氏による中国古典の記述の借用
別分
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-36. 十川 昌久)
  絶対年代を推定してみよう、
○安本美典氏資料より、
天皇の平均在位年
徳川時代 107−123代 20.00年
鎌倉・足利・安土桃山時代 82−106代 15.11年
平安時代 50− 81代 12.63年
奈良時代 43− 49代 10.57年
飛鳥時代 30− 42代 10.21年
飛鳥時代以前 1− 29代 39.83年 異常である
飛鳥・奈良時代平均 10.33年
21代雄略478年即位、30代欽明572年即位9代94年 10.44年
以上より推定して、初代神武天皇は270年頃即位した。
○原田常治氏「古代日本正史」より、
 1代神武(241)→(在位158年・平均在位 9.88年)→16代仁徳(399)
17代履中(399)→(在位193年・平均在位12.06年)→32代崇峻(592)
33代推古(592)→(在位178年・平均在位11.13年)→48代称徳(770)
*前提条件はかのととり辛酉を神武の即位年とする(辛酉が伝承されていると考えたから)
241年(399−241) ÷ 16 = 9.88 1代当り 9.9年 最も近い
  301年(399−301) ÷ 16 = 6.13 1代当り 6.1年 短かすぎる
  181年(399−181) ÷ 16 =13.63 1代当り13.6年 長すぎる
  原田説:241年だと9.9年でほぼ正確と判断される。
○出雲国造・出雲臣の系図より、
  ┌振根 ┌54
天穂日命−1武夷鳥−2-…┿11飯入根-12-…┿55-…-千家家82-83尊祀(2002.4歿)-84
  └ ○ −野見宿称 └56―…―北島家79英孝
  出雲国造24代果安 神賀詞を奏上 続日本紀霊亀2年(716年)
  (2002−716)÷(83−24+1)=22.17 2002−(83×22.17)=AD161.9年
  (2002−716)÷(79−24+1)=23.81 2002−(79×23.81)=AD121.0年
  推論:西暦2世紀前期から2世紀中頃にかけて武夷鳥が初代出雲国造になった。
  12×22.17+161.9=AD428年 12×23.81+121.0=AD407年
  推論:相撲の神様野見宿称は西暦5世紀前半頃の人、すると垂仁天皇も同時代人。
○日本書紀の系図より、
  天照大神――――――宗像3女神 *素戔鳴尊の十握剣より3女神誕生
  ×(うけい誓約)
  素戔鳴尊―┯――――天忍穂耳尊――邇邇芸尊
  ├――――天穂日命―――武夷鳥(出雲国造)
  └――――他3男神 *天照大神の八坂珠より5男神誕生
  天照大神――――――天忍穂耳尊
  h――――邇邇芸尊……………天孫降臨…………神武天皇
  高皇産霊尊┯――――栲幡千千姫(万幡豊秋津媛命、七書によると別名玉依姫)
  └――――思兼神―┯――手力雄
  └――下春命(秩父国造)
  伊勢神宮・内宮の祭神は@天照大神A手力雄B思兼神又は万幡豊秋津媛命
○参考 即位・退位の間違いない天皇で計算する
  121代孝明天皇1866年退位 50代桓武天皇781即位 1代当り約15年
  伊弉諾尊−天照大神―○―瓊瓊杵尊−彦火火出見尊−鵜茅葺不合尊−神武天皇−
  原田氏の神武即位241年説と出雲国造系図による武夷鳥の2世紀代活躍から考えると
  推論:天照大神と素戔鳴尊は卑弥呼(243年魏へ朝貢)の時代でなく、2世紀後半か。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-37. 十川 昌久)
 名前について考えてみよう。日本人ほど姓の数が多い国民はいない。お隣から考察していこ
う。
韓国の姓:1985年現在、225姓が確認。@金22%・878万人A李15%B朴8.5%C崔4.8%D鄭4.3%
E姜・趙・尹・張・林、以上で80%となる。89番目までで99%となる。同じ姓でも本貫が異なること
で共通の血族(宗族)かどうかを識別し、同族同士は結婚しない。しかし、朴姓は本貫が違って
も先祖が同じという伝承があり結婚しないし、釜山近くの金と許も始祖が同じとの神話で結婚し
ない。こうした一族の記録を「族譜」という。女性は20世紀初頭までは通称しか名前がなく、族
譜には「女」と記載していた。現在も結婚しても姓は変えない。
現代中国の姓:現在の中国は56の民族が住んでいる。その94%が漢族である。漢族は夏・商・
周の三族が融合した華夏族が他の民族を吸収し、長期的に融合して生まれた。歴史文書に表
れた姓氏は、5600余りで、その内2000余りは少数民族から出たものである。単字姓は3400余
りで、二字姓は2000余り、三字姓は100余りである。現在使用されている姓はそれらの約半
分・3000余りで、二字姓は約5%、三字姓はほとんど消滅している。結婚すれば姓を変えても変
えなくてもよく、夫と妻の姓を重ねて用いてもよい。
漢民族の姓:姓氏と言うが、姓と氏は本来異なるものである。氏は姓より後から生じた。氏は
男が称し、姓は女が称した。姓の文字は3000年前の甲骨文字に遡る。古字は「イ生」で、人偏
に生まれるである。つまり人が生んだ、人から生まれたである。人に姓を尋ねることは、子が
いるかどうかを尋ねる意味であった。古文字の発生と形成は、それまでのトーテムによって、
部族を象徴する方法から、文字による姓の創出により、同一血族の祖、出自を示し、母系氏
族制を維持し、族外群婚を行なった。当然、子は母を知るが父を知らない状況であり、人口が
増え、集団が拡大するに従って、血統を同じくする支に分かれ、各分支の名称が必要となり、
氏が発生した。氏は貴者が称し、賎者は名だけで氏を持たなかった。国が滅びると氏もなくし
たし、氏は姓としても呼ばれたが、姓は氏にはならなかった。婚姻については、同姓、異姓、庶
姓の別があり、氏が同じで姓が異なる時は婚姻不可能だった。つまり、姓が氏族をまとめ同姓
不婚の表示となったが、氏は家族をまとめた。そして次第に母系社会から父権の階級社会に
移行するに伴い、氏は姓より価値のあるものへと成っていった。
 姓を示す最古の資料として西周(BC1020-770頃)時期の銅器の銘文に女偏の文字が約30個
刻まれている。姜、姚、?、姫、妊、妃、好等々である。周の祖先である帝こく?が姫水のほとり
に生まれたので子孫は姫姓(正式にはDを用いる)、炎帝(神農)は姜水のほとりに生まれたの
で子孫は姜姓、舜は姚墟に生まれたので子孫は姚姓をとり、姫姓は姜姓と通婚できたといわ
れる。周朝は宗法制度に基づき、賜姓、封土、命氏を行なった。宗法制度とは簡単にいうと、
商朝直系の祖を太宗、傍系を小宗として、各々集団を継承した。太宗は嫡長子に世襲される
世卿、世爵の世禄をもつ特権家族で、氏が授けられた。周朝はこの宗法制度を継承して、天
子を太宗として臣民諸侯に土地を分封し、氏を命じた。第一は、土地を封じて国とし、各々氏を
命じた。周王の弟姫鮮は管(河南鄭州)を封ぜられ、管氏を受けた。以下、蔡氏、霍氏、衛氏、
等々。周王室姫姓の子孫が封国命氏されたものは約50国・氏、功労のあった臣には約60国・
氏が授けられた。ただし、臣は周王室姫姓を名乗れず、各出自の姓があった。氏は斉、呂、
楚、宋、陳、趙、呉、越、等々。第二は、「あざな字」すなわち「おくりな謚号」をもって氏を命じ
た。周代になって、帝王、貴族、大臣、士大夫は死後、生前の功績をもって称号を贈った。魯
国の庄公(姫姓)は庄を謚号とした。斉国の桓公(姜姓)は桓を謚号とされたので、氏を桓とし
た。第三は、官職や爵位を氏として命ぜられた。これは史、師、司徒、司馬、等である。爵位を
命氏されたのは、皇、王、公、侯、伯、等だあった。第四は、封土された邑地を氏として命ぜら
れた。この例に資格があるのは、前記の公、侯、伯、子、男の爵位を得た卿、士、大夫らで、
国、邑、関、郷、亭の各級の封土命氏を賜った。国は前記の周朝の姫姓に対するもの。その
下の邑を封土命氏された者は、白、蘆、馮、劉、崔、費、等。邑の下の関の命氏は、毛、甘、
尹、蘇、等。郷封命氏は陸、裴、閻、等。亭封命氏は、采、欧陽、等だった。こうした封土命氏
の封建制度が人を階級別とし、氏を尋ねればその人の階級的位置と所有地の大小が分かる
ようになった。庶民は姓氏がなかったが、第五番目として、手工業技術者、芸人等も氏をもっ
た。例えば占星術者の巫氏、歌舞音曲の優氏、屠殺者の屠氏、鳥獣養家の烏浴氏、匠氏、陶
氏があり、姓氏は大いに普及した。こうした社会状況を百姓という。これ以外の自由民、農奴、
奴隷は姓氏を許されなかった。この時代、孔子は姓が子、氏は孔だつたので有姓有氏有名で
あり、屈原も姓が熊、氏が屈なので有姓有氏有名だった。こうした賜姓命氏制度は戦国時代
末期に崩壊し、姓と氏の区別がつかなくなった。
 朝鮮半島では白村江の戦争後、急速に1字姓が普及したことがわかる。創氏改名はもう行わ
れていたのである。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-38. 十川 昌久)
 前号に引き続き近隣諸国の姓について考察してみよう。
満州族の姓:白山黒水(長白山黒竜江)と讃えられた北東アジアの広大な地で狩猟生活を送っ
た彼らの祖先の歴史は、紀元前11世紀から紀元3世紀にはすでにスデン粛慎(ニンジンボクの
矢と石弓)、イロウ?婁と呼ばれ、その後、ウジ勿吉、モヘ靺鞨(貉・狸)と呼ばれた。唐代には長
白山に渤海国を建て朝貢関係を結んだ。のち靺鞨は女真(おそらく粛慎の音を引用)と呼ばれ
たが、12世紀にはアグダ(兄、首領の意)が金国を建て、漢族との交流を深めた。明代に入ると
女真は南下して勢力を蓄え、16世紀、ヌルハチは部族を統一して八旗制度を組織し、後金国
と称する。その子ホンタイジは1644年ついに山海関を越え北京に入城した。彼は国号を大清と
し、民族名の女真を廃して満州(マンジュ)と定め、以後満州の名は1912年清朝滅亡まで続い
た。
 姓は満州語でハラという。氏族社会時期に各氏族は同一女性を祖とする後裔であったので、
母系制社会に姓の発生源があった。血縁関係を明確にし、氏族名が姓となって族外婚を守っ
てきた。同一血縁集団が同一部落に集居し、同一姓の一族(ムクン)を形成し、宗族をつくって
いたので、個人はハラを称する必要はなかった。女真族の姓は99個であったが、清代になると
679姓となった。そして姓氏(ハラ)と族(ムクン)が合わせて使われた。それがアイシンギョロやイ
ルゲンギョロである。ギョロは姓氏、アイシンは金の族。中国語で愛新覚羅である。太祖ヌルハ
チにより、アイシンギョロは国王だけが称する姓にされた。臣民はイルゲン(民)ギョロその他を
称した。金は女真族の金国からとったものである。姓氏をギョロとする氏族はシリンギョロ(銅)、
アハギョロ(奴隷)、シュシギョロ(紫)等がある。エホナラはエホ河辺に住むナラ姓氏の部族で西
太后はエホナラ氏出身である。のちに漢姓への改姓も進んだ。
 香港(復帰前)の姓:香港人の名前には英語が混在している。姓には中国音を使用しても、名
の方は英語で表示することが珍しくない。アグネス・チャン、ジャッキー・チェン、レオン・カーフ
ァイ(梁家輝)、レスリー・チョン、ピーター・パン(潘)、ジャネット・リン(林)、ブレンダー・リー(李)、
ニール・ヤング(楊)などである。戸籍制度はなかったが密入国を防ぐための厳しい身分証明制
度があった。例えば中国名「関洪安」英語名「トニー・クワン」さんは、身分証明書のIDカードに
は中国名の広東音をローマ字表記した名前「KwanHungOn」となる。また、陳さんは北京語
では「Chen」で、広東語では「Chan」となり、南語(厦門方言)では「Tan」となる。陳徳奇さんの
一家は親の代に厦門から移民してきた家族である。彼が香港で生まれた時、母親はまだ?南
語しか喋れなかった。従って、息子の名前は?南語で登録された。こうして彼の本名は、タン・タ
ッキィとなった。一方中国生まれの彼のお兄さんは、香港で英語教育を受け、後に香港市民権
を獲得した時に、自分でフィリップ・チャンという英語名を登録した。こうしてややこしい兄弟が
誕生した。ちなみに総督も中国名を持っている。クリス・バッテン卿は「彭定康」、ディビッド・ウィ
ルソン卿は「魏」総督である。北京語の魏はウェイと発音するのでウィルソンの音訳となる。
モンゴルの姓:若干の例外を除いて父親の名前が、子の姓となる。姓と名の順で書類には記
入する。姓の欄には父親の名を、名の欄には自分の名を記入する。その際、父親の名には、
末尾にモンゴル語文法の所有格にあたる「の(ギィーン、イーン、ニー)」がつけられる。未婚の
母親の場合は母親の名が姓となる。女性は結婚しても夫の姓に変えるということもない。
華僑の姓:華僑とは「中国の国外に居住する中国籍保有者」で、華人とは「外国籍を取得し、
国外に居住する、中国人の血統をひく者」と定義している。東南アジアには中国系の人々は
1500〜2500万人程度で、華僑はその内、10〜17%であろう。◎マレーシアやシンガポールで
は国籍取得で改名する必要がなかったので、中国人名のままで生涯を終える。◎フィリッピン
では華人は中国姓を残していても、名前はフィリッピン風(=スペイン風)が一般的である。アキ
ノ前大統領は結婚後の姓名をコラソン・コファンコ・アキノ(CorazonCojuangcoAquino)というが、
コファンコは福建から移住してきた祖父の洗礼名(ホセ・コファンコ)を姓にしたという。コは?南
方言の「許」姓であるという。◎タイでは国籍取得時に、これまでタイで使用されていない全く新
しい姓を用意することが必要である。中国名を残す人も残さない人もいる。◎ミャンマー(ビル
マ)では名前だけで姓を持たない。華人はビルマ名と中国姓名の両方をもっている。◎ベトナム
では1956年のジェム政権のもとで全てのベトナム生まれの中国系住民は強制的にベトナム国
籍を取らされた。旧北ベトナムには中国系住民はほとんどいない。ベトナム戦争時に全て出国
している。
 中国系の民族が姓を持つことがわかる。しかも、東南アジアの華僑の地位がどのようなもの
かがわかる。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-39. 十川 昌久)
  いろいろな紀年法について考えて見ましょう。現在の日本では、西暦(2003年)と和暦(平成15
年)の併用です。
西暦:イエス・キリストが生まれたとされる年を元年として年を数える紀年法。ローマの修道士
であったディオニュシウス・エクシグウス(500年頃〜560年ごろ)が、ローマ法王の命令で復活祭
の暦算表を作る際、この紀元を提唱した。この当時、ローマで広く使われていた紀年法は、ロ
ーマ皇帝ディオクレティアヌスが即位した年(西暦284年)を紀元とする紀年法(ディオクレティアヌ
ス紀元)を使っていたが、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大弾圧した皇帝であるので、エ
クシグウスは、この紀年法を使うよりも、いっそ、イエス・キリストが生まれたときから年を数え
るべきだと考え、ディオクレティアヌス紀元248年をイエス・キリスト紀元531年と計算した。なお、
エクシグウスの計算の根拠は不明である。エクシグウスが算出したイエス・キリストの生年は間
違いで、今日では、紀元前7年から紀元前4年の間であろうと言われている。エクシグウスが
提唱したこの紀年法はなかなか広まらず、ヨーロッパで広く用いられるようになったのは、10世
紀頃である。なお、西暦を表す記号A.D.は、ラテン語のAnno Domini(「主とともに」という意味)
で、西暦紀元前を表すB.C.は英語のbefore Christの略である。
元号:皇帝、天皇、国王などが定めた、何文字かの漢字(多くは2文字)と年数で年を表す紀年
法。前漢(BC202-AD8)の武帝(BC156-BC87)が、即位した年(紀元前140年)を建元元年とした
のが最初と言われる。その後、中国では、歴代の王朝が元号を使いつづけたが、辛亥革命
(1911年・宣統3年)で清朝が滅亡すると、元号は廃止され、中華民国紀元が採用された(中華
民国元年=1912年)。その後、1949年に成立した中華人民共和国は、中華民国紀元を廃止
し、正式に西暦を採用した。なお、中国では、西暦のことを「公元」という。ただし、台湾では、
現在も中華民国紀元が使われている。元号制度は、漢民族だけでなく、漢文化を摂取した近
隣の国々(朝鮮、渤海、蒙古、ベトナム、南詔、日本)でも採用された。これらの国のうち、朝鮮
では、王朝独自の元号を立てたこともあったが、たいていの場合は中国の元号をそのまま使
っていた。1896年1月、李氏朝鮮(翌年、「大韓帝国」と国号を変更)の李太王は、日本の影響
下で「建陽」という元号を建てた。その後、光武、隆煕という元号が建てられたが、1910年(隆
煕4年)、日本に併合され、第2次世界大戦終結までは日本の元号が使われた。終戦後、大韓
民国では、建国(1948年)から1961年まで檀君紀元が用いられていたが、現在では西暦が使わ
れている。また、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、西暦が用いられてきたが、1997年9
月9日から主体(チュチェ)紀元が使われている。10世紀に中国から独立したベトナムでは、いく
つかの王朝が攻防し、独自の元号も立てられていたようである。しかし、1945年8月、阮(グエ
ン)朝が崩壊すると、元号制度も正式に廃止され、以後は西暦が用いられている(ベトナム最後
の元号は「保大」(バオダイ)(1926-1945))。日本では、中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我氏
を滅ぼした645年に、「大化」という元号が建てられ、この後、「白雉」「朱鳥」という元号があった
という説もあるが、元号制度が定着したのは701年の「大宝」建元からで、以後、約1300年に渡
り、元号制度が続いている。江戸時代までの改元は、天皇の代替わりのときや、瑞祥(ずいし
ょう。良いしるし)が出現したとき、天災、戦乱、飢饉が起こったとき、疫病が流行したとき、辛
酉の年や甲子の年(*)などに行われたが、明治改元の際、一世一元の制が定められ、天皇
の代替わりのときのみ行われることとなった。第2次世界大戦後、皇室典範が改められ、登極
令も廃止されたため、元号制度の法的根拠がなくなったが、1979年、元号法が制定され、1989
年、この法律に基づくはじめての改元が行われた(「平成」改元)。西暦2000年は、平成12年。
*辛酉の年や甲子の年に改元が行われたのは、讖緯説(しんいせつ)という中国の迷信で、辛
酉の年は革命の年、甲子の年は革令の年とされたから。革命や革令がおきるのを防ぐために
改元した。
神武天皇即位紀元(皇紀):初代の天皇とされる神武天皇が即位したとされる年を元年とする
紀年法。皇紀元年は西暦紀元前660年。中国から伝来した讖緯説(しんいせつ)では、辛酉の
年を革命が起こる年としているが、特に、干支が21回循環する1260年(60*21=1260)に一回
の辛酉の年は、大革命が起こるとした。聖徳太子(574?-622)は、蘇我馬子(?-626)とともに史
書(「天皇記」)を編纂するにあたり、この、「1260年大革命説」を採用して、西暦601年(推古天
皇9年)の辛酉年を基準として、この年の1260年前、つまり、西暦紀元前660年に神武天皇が
即位したと解釈した、と考えられる。神武天皇即位紀元は、明治5年11月15日(1872年12月15
日)に、政府の公式な紀年法のひとつとして採用され、詔勅や国書には元号と併記して用いら
れることになった。西暦2003年は、皇紀2663年。
ヒジュラ紀元(イスラム紀元):イスラム教の開祖ムハンマド(マホメッド)(570頃-632)が、メッカで
の迫害を逃れて、メディナに移住した(これを「ヒジュラ」(聖遷)という)年=西暦622を元年とする
紀年法。イスラム暦は、純粋な太陰暦であり、1年=354日で、奇数月は30日、偶数月は29で
ある。ただし、30年に11回閏年が置かれ、閏年は年末に1日加えて、1年355日とする。このよ
うに、イスラム暦は地球の公転周期によりも約11日短かいため、季節と暦日とはどんどんずれ
ていく。よって、西暦2000年がヒジュラ紀元何年かを求めるとき、2000-621=1379と求めるのは
間違いである。西暦2000年は、グレゴリオ暦の4月5日の日没までがヒジュラ紀元1420年であ
り、それ以後が1421年である。
創世紀元(ユダヤ暦):神が天地を創造したときを元年とする紀元。ユダヤ教ではこれを西暦紀
元前3761年とする。ユダヤ暦は、太陰太陽暦であり、閏月は19年に7回、年末に置かれる。新
年は西暦1250年以来、ティシュリの月と定められている。これは、グレゴリオ暦の9月頃にあた
る。イスラエルの公式の暦はユダヤ暦であり、公式の紀年法は創世紀元である。公式行事が
ユダヤ暦と創世紀元に基づいて行われほか、法律中の日付、法律の公布日・施行日、戸籍の
生年月日もユダヤ暦と創世紀元で表記されている(なお、自動車の運転免許証の発行日、有
効期限は西暦表記)。1995年11月4日、イッハーク・ラビン首相が暗殺されたが、イスラエルで
は、彼のなくなった日はあくまでもユダヤ暦5756年ヘシュウアン(マルヘシュバン)月11日であ
り、年忌の法要(?)も毎年ヘシュウアン月11日に行われる(従って、グレゴリオ暦での日付は毎
年変わる。ラビン首相の1周忌は1996年10月24日、2周忌は1997年11月11日、3周忌は1998
年10月31日、4周忌は1999年10月21日)。
西暦2000年は、グレゴリオ暦9月29日まで創世紀元5760年、9月30日から5761年。
仏滅紀元(仏暦):タイやミャンマー(ビルマ)で用いられている紀年法。仏教の開祖・釈迦が亡く
なったといわれる年を元年とする。仏滅紀元元年は西暦紀元前543年。西暦2000年は、グレゴ
リオ暦の4月頃から2543年。(この暦については詳細な資料が手に入っていないので、よくわか
りません)
十干十二支(じゅっかんじゅうにし):十干は、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚
(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)の総称。十二支は、子(し)丑(ちゅう)寅(いん)卯(ぼう)辰(しん)巳(し)
午(ご)未(び)申(しん)酉(ゆう)戌(じゅつ)亥(がい)の総称。十干十二支の起源は殷代(BC15C-
BC12C)にさかのぼると言われ、十干と十二支を組み合わせて、「甲子」「乙丑」「丙寅」・・・とい
うように日を表すことも、殷代には行われていたようである。ただし、十干十二支で年を表すよ
うになったのは、紀元前1、2世紀(前漢時代)の頃からである。西暦2000年の干支は庚辰(コウ
シン、かのえたつ)。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-40. 十川 昌久)
 中華思想を考えてみよう。中華思想とは宗主国意識である。周辺諸国を蔑視し夷狄と考え
た。つまり天下の中心地が中国という国である。五行思想もそうした中華意識から生まれてい
る。次の表を参照されたい。五行の中心は、土で黄色である。これは黄土平原を意味してい
る。最初の帝も黄帝である。この天下=中国を統一したのが秦である。そこで「シン」がチン、
シナ、シーヌ、チャイナなどとなり、仏教経典とともに、印度を経て中国に逆輸入されたのが「支
那」という言葉である。米国、英国と呼んでも何ら問題がないのと同じく支那もチャイナも同じこ
とである。何故支那のみが問題となるのか。それは中国自身が中華意識・宗主国意識を持っ
ているから「中国」と呼ばせたいのである。かの有名な金印「漢委奴国王」も倭の奴国ではな
く、漢の委奴国なのである。現に韓国では現在も「ウエノム倭奴」と呼んでいる。北朝鮮高官が
国連演説でジャップと言ったのと同じである。現在の中国国定教科書は「小日本人」として、被
害者は中国人、加害者は日本人との教育を続けている。中国では白人は「ヤンクイ洋鬼」であ
る。「鬼」とは、「幽霊」、「ばけもの」のことである。「外人」とは他省の人間のことで、日本人は
「リーベン日本クイズ鬼子」である。日本鬼子とは中国人と土人の合いの子のことらしい。
 日本の京都・平安京も五行思想を基に造営された、理想の都である。平城京の東大寺大仏
開眼も、世界一の青銅製毘廬遮那仏が完成し、国の中心となったのである。人間の体では心
臓が中心となっている。
 古代の四方極遠観は、遠くに行くに従い、東は東夷、日下、泰遠。南は南蛮、北戸、濮鉱。
西は西戎、西王母、?国。北は北狄、觚竹、祝栗。となる。日本列島は東夷より更に東の日下
である。倭が九州に比定されれば、近畿地方が日下であろう。畿内中央政権が発足すれば、
日下はどんどん東へ移動する。日高見国が日下である。日下は日本とも表記された。
 天武王朝も小中華意識を持ち、国造りを進めた。しかし遣唐使としての国名には東夷の更に
東の日下(本)を用いたと思料する。これは日が昇るところ、つまり日下である。日下を「ヒノモ
ト」と考え、日本とした。李朝朝鮮も明国に「朝鮮」と「和寧」のどちらにすべきかを伺候し、「朝
鮮」と決まり明国年号の使用を許されている。
 承平6年(936)の『日本書紀』の講義(『日本書紀私記』)において、参議紀淑光が「倭国」を「日
本」といった理由を質問したのに対し、講師は『隋書』東夷伝の「日出づる処の天子」を引い
て、日の出るところの意と「日本」の説明を行い、唐から見て日の出る東の方角だから「日本」
といった。
 延喜4年(904)の講義の時も、「いま日本といっているのは、唐朝が名づけたのか、わが国が
自ら称したのか」という質問に対して講師は、「唐から名づけた」と答えている(『釈日本紀』)。
 日本の唐音読み「ジッポン」がジャパンとなった。しかし、肝心の日本国では、「ニッポン」でも
「ニホン」でもよいのである。本当は「ヒノモト」なのである(権力中枢は「和同開珎」と倭を意識し
ている)。
五行(五材) 木(もく) 火(か) 土(ど) 金(ごん) 水(すい)
五時(季節) 土用(季夏)
五方(方角) 中央 西
民族 中華
日本・京都 川・鴨川 池・巨椋池 御所 道・山陰道 山・船岡山
(貴船山・鞍馬山)
仏像の配置 薬師 釈迦 大日如来
(毘廬遮那仏)
阿弥陀
弥勒
四方(神) 蒼竜(勾芒) 朱雀(鳥) (朱明) 黄竜(后土) 白虎(蓐収) 玄武(玄冥)
五帝 太?(伏義氏) 炎帝(神農氏) 黄帝(軒轅氏) 小?(昊) 
(金天氏)
??(高陽氏)
五穀 麻(麦) 稷(米) 稲(黍) 大豆(豆)
内臓 脾臓 肺臓 心臓 肝臓 腎臓
五色
五常 智(信) 信(智)
五蓄 鶏(犬) 犬(鶏)(馬) 豕(@)
穴(竅) 二陰

五蟲 ?
十二将 六合・青竜 騰蛇・朱雀 天一・勾陣
太裳・天空
太陰・白虎 天后・玄武
易卦 震・? 離・?
兌・? 坎・?
五嶽 東獄泰山
1524m
泰山府君
・東王父
南獄衡山
1290m
中獄嵩山
1440m
西獄華山
1997m
西獄真人
・西王母
北獄恒山
2017m
※前漢武帝の時代(在位BC140−87)にはすでにあったとされる中国最古の辞書『じが爾雅』
〔爾雅〕觚竹、北戸、西王母、日下。謂之四荒。
※東王父と西王母はペアで使われる。普通、西玉母である。将棋でも王将と玉将とがある。道
教では東王父は扶桑大帝とかてんこう天皇と呼ばれる。
―続く―
「日本史」の出来るまで(連載:-41. 十川 昌久)
神話の系譜は何を語るのでしょうか。『日本書紀』「神代下」では、高皇産霊尊は皇祖で、葦原
中国平定の主導者です。
 天照大神の子、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫を娶とられ
て、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生まれた。皇祖の高皇産霊尊は、特に可愛がられて大事に育てら
れた。そしてこの孫の瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の君主としたいと思われた。しかしその国
に、蛍火のように輝く神や、蝿のように騒がしい良くない神がいる。また草木もみなよく物をい
う。そこで高皇産霊尊は、多くの神々を集められ、尋ねて、「私は葦原中国の良くない者を平定
しようと思うが、それには誰を遣わしたらよいだろう。もろもろの神たちよ、包まず何でも言って
くれ」と仰せられた。
『日本書紀』「神代上」では、高皇産霊尊は出てくる。そして、天の岩戸の物語に、一書(第一)
の中に思兼神の親として、高皇産霊尊は再登場する。子は神で親は尊である。最後に、本文
に三度登場し、少彦名命も我が子であることを告白する。
 天地がはじめて分かれるときに、始めて一緒に生まれた神があった。国常立尊という。次に
国狭槌尊。また高天原においでになる神の名を天御中主尊というと。次に高皇産霊尊。次に
神皇産霊尊。皇産霊――これをミムスヒという。
 高皇産霊尊がお聞きになって、「私が生んだ子は皆で1500程ある。その中の一人の子は、い
たずらで教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。可愛がって
育ててくれ」といわれた。これが少彦名命である。
                    ┌―――――――――玉依姫命
                    └――豊玉姫命      h――神武天皇
天御中主神―高皇産霊尊―栲幡千千姫      h――――鵜葦草葦不合命
                 h――瓊瓊杵尊――彦火火出見尊
  天照大神―――天忍穂耳尊
その中で、祖母から孫に譲るのは、持統と元明で、これは天照大神を表しているとかんがえら
れます。
天智天皇―――元明天皇
  h―――文武天皇――聖武天皇
持統天皇―――草壁皇子
 そして、姉の子を妹が育て嫁ぐのは、元明で、これは玉依姫命と神武天皇を表し、光明子と
孝謙天皇となります。
               ┌――――――――光明子
       ┌――――――――元明天皇 └――宮子      h――孝謙天皇
天智天皇―┤          h        h―――――聖武天皇
       └――持統天皇   h――――――文武天皇
            h――――草壁皇子
           天武天皇
 そうです、宮子と光明子は豊玉姫と玉依姫を表しているのです。
小生はこう考えます。藤原不比等は自分の子の宮子、光明子の子供を天皇にしたい。そうして
藤原王朝を築きたい。その願望を達成するための神話を作ったのです。720年、死ぬ間際ぎり
ぎりに『日本書紀』を撰上しました。しかし、野望は達成していません。そこで願望を神話に残し
て4人の息子に遺言したのです。そうです、高皇産霊尊とは藤原不比等のことだったのです。
―続―

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