太陽の母なる羲和は子を洗い扶桑の木にぞかけて干したり
中国神話に太陽の母羲和の説話が出てくる。『山海経』にあるので遅くとも漢代には出来ていた話だろう。羲和は俊(舜)の妻だったというのだから、現在から四千年前の話である。東海(日本海)の彼方の甘水の川辺で、大きな扶桑の木があり、そこに羲和が住んでいて、彼女の子供である十の太陽たちの世話をしていたという。
空を回って来た太陽を洗って輝きを取り戻させ、扶桑の木にかけて干していたという。十の太陽は順番に空を回るのだが、一遍に回った事があって、熱くてたまらないので、羿という弓の名人が9個は射落としたという別の説話もある。
羲和の話では日本が太陽信仰の女王国だったのはかなり以前からだったことになり、邪馬台国の卑弥呼よりもずっと古いことになる。また象徴的なのは扶桑の木から太陽が昇るということで、「東」という字は木から日が昇っていることを表現している。東の国は「日の本」の国であったわけで、これが「日本」の由来とすれば、『山海経』から国名が取られたとも考えられる。
『山海経』は渡来人がかなり以前から持ち込んでいたようだ。三世紀の舶来鏡と言われている魏の年号が入った鏡は実はこちらで呉の人が作ったという説がある。そこには『山海経』に基づく絵や言葉が入っているのだ。
中国では羲和や卑弥呼などの女王国イメージが鮮明だったなら、隋から裴世清が来た時に推古女帝に会わせずに聖徳太子かだれか男性を帝として会わせたというのも辻褄が合わなくなりはしないか。
また中国神話であらためて思うのは、天皇は天帝のことだから、天子に天命を授ける最高神である。皇帝が二人いては中国に不遜だと遠慮して天皇にしたというのはどうにも合点がいかない、皇帝を遠慮して、その上の天皇を名乗るのはどう考えてもおかしな話である。
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上の文章で訂正すべき箇所があります。「天皇」という呼称を「皇帝」という呼称では中国皇帝と対等になってしまい、中国皇帝に反発されるのを憚って、皇帝と呼ばずに天皇と呼んだというのは、誤解のようです。遣隋使では「日出ずる処の天子」が「日没する処の天子」に書を致すとなっていて、「天子」という表現が対等ということで煬帝の機嫌を損ねたわけです。
翌608年に倭王が隋煬帝に送った国書には『日本書紀』によりますと、「東天皇敬白西皇帝」云々と書かれていました。ただこれは既に天皇号が使用されていたどうかがはっきりしませんので、「東倭王敬白西皇帝」となっていたのかもしれません。
加藤徹、『漢文の素養』(加藤徹 光文社新書)によると「このとき初めて使われた『天皇』という称号は、中国の神話や宗教に出てくる神の名前であり、正式の政治用語ではなかった。もし「天子」とか「皇帝」という語を日本側が使えば、中国が非礼を理由に使者を門前払いにする恐れがあった。そこで聖徳太子は、「天皇」という変則的な称号を考案したのであろう」といいますが、天皇が天帝の意味だということは知らないはずはないですから、随分失礼だと思われるのではないでしょうか。
律令ができてからは、律令の決まりでは「天皇」は詔書に記述される称号で、対外的にはつまり華夷に対しては「皇帝」を使うことになっています。岩波書店から出ている『日本思想大系3 律令』の「令巻第七 儀制令 第十八」
「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。」とあります。これによりますと唐に対しても「皇帝」と称していたということになりますね。さすがに唐に対して天皇に称するのは憚ったのです。
日本は朝貢はしていても、唐の冊封を受けていませんから、倭王とか日本国王を名乗らなくてもいいのです。ただ中国としては冊封を受けていなくても、皇帝は二人といない立場ですから、「皇帝」を日本国王が称することには反発はあったはずです。
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