扶桑国とは何か
「扶桑」とは『山海経』や『淮南子』などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木(「扶木」ともいう)、もしくはその神木が生えている場所のことです。
中国南朝・梁の普通年間(520〜527)、その「扶桑」を国号とする国からやってきたと称する僧侶の報告が朝廷にとりあげられました。
その僧の名を慧深といいます。ただし、慧深は南朝・斉(南斉)の永元元年(499)には、荊州(湖北省襄樊市一帯)にいて、扶桑国のことを語っていたと正史『梁書』東夷伝にあり、また正史『南斉書』の東南夷伝にも「扶桑」に言及する箇所がありますので、扶桑国の話は梁建国以前から、中国の一部人士の間で話題になっていたとみてよいでしょう。
慧深の証言によると、扶桑国には南朝・宋の大明2年(458)に罽賓国(カシミール)の僧5人が渡来してきて仏教を伝えたということです。また、扶桑国の所在は中国の東、大漢国の東方2万余里のところにあるということです。
さて、『梁書』東夷伝によると、倭国の東北7千余里に文身国という人みな入れ墨をした国があり、さらにその文身国の東5千余里に大漢国があるとされ、それらの説明の後に慧深の証言が続きます。そこで、慧深の証言の「大漢国」と、文身国の東にあるという「大漢国」を同じとみなせば、扶桑国は倭国から3万里以上もの彼方にあるということになるのです。この倭国をどこに求めるか、また一里をどのくらいの長さとみなすか、そしてそもそも2箇所に出てくる「大漢国」を同一とみなすかどうかで、扶桑国の位置は変わってくるのです。
5世紀当時の倭国の中心は日本の畿内という説が有力ですが、九州北部とみなす説や、その両者とはまったく別の場所に求める説もあります。
また、中国の1里は時代によって違いますが、ほぼ400から500メートルの間。ただし中国正史で辺境に関する記述には70~80メートルで換算しないとつじつまの合わない例があることが知られています(有名な魏志倭人伝の行路記事など)。
1里400〜500メートルとすれば、2万里は8000〜10000キロもの距離になります。これでは大漢国をどこにとるとしても、扶桑国への道のりは東アジアにおさまりきれません。一里を70〜80メートルで換算するか、行路記事の里数そのものを無視すれば、扶桑国を日本列島内に求めることも可能です。
「扶桑」は後世、日本国の美称としても用いられています。11世紀末、比叡山の僧・皇円が編んだ史書『扶桑略記』の書名などはその代表的なものです。したがって、扶桑国を日本の別名、もしくは日本列島内の小国とみなす説もあります。
しかし、5世紀といえば、いわゆる倭の5王の時代でもあります。その頃の日本列島内に倭国と別に中国南朝から承認された国家があったとすれば、それは日本の国家形成史を考える上で重大な問題となります。
また、5世紀末、日本列島内に出自を持つ僧が中国まで行ったことを認めれば、日本仏教伝来史も書き直されなければなりません。
さらに、扶桑国が日本列島の東方もしくは東北方はるか彼方にあったとすれば、私たちは世界史に埋もれた未知の仏教国の存在を検討しなければならなくなるのです。
扶桑国問題は従来の日本史、もしくは世界史を書き換える可能性を秘めています。
もちろん、問題が重大すぎるだけに、扶桑国の実在そのものを否定する立場もあります(むしろ、日本の学界ではその立場が主流です)。
東洋史の大家・白鳥庫吉(1865〜1942)が慧深を詐欺師と決めつけ、その証言中の扶桑国を架空とみなして以来、日本の学界の大勢ではその立場が踏襲されてきました(「扶桑国に就いて」『白鳥庫吉全集』所収)。
しかし、中国、アメリカの学界では今でも多くの研究者が扶桑国の所在に関して熱烈な議論を闘わせています。日本でも1980年代から、少数ながら、扶桑国の実在をみとめる研究者が現れ、ようやく議論の端緒がつかめようとしています。
扶桑国に関する議論を整理し、以て後世の研究者に役立てていただきたく、このサイトを立ち上げました。