日本人の源流を探して
第4部 邪馬台国から大和朝廷へ |
前々項で、奈良時代初期、現代日本人の祖型の形成が完了したことを述べた。また前項では、現代日本人のHLAから逆に、日本人の先祖集団の種類やその故郷を調べた。 まだ、神話学や言語学の分野からの検討や、アイヌ集団の起源、沖縄集団の発生などいくつかの分野で、やり残している課題がある。 しかし、この辺りで一度、埴原の「二重構造モデル」に相当する、筆者のモデルを構築してみるのも無駄ではあるまい。 東アジアの旧石器時代人 ここで、これまで検討してきた主要な先祖集団を、もう一度整理しておきたい。今回は、NASA WorldWindから見た地球を使って、新たに作成した地図で、遥か彼方の民族集団の動きをゆっくり楽しみたい。 最初のこの図は、埴原和郎の「二重構造モデル」のベースとなっている、東アジアで発見された旧石器時代のヒトの頭骨とその発見場所である(宮野の縄文人は4000年前のもの)。また黄緑色の部分は、当時、最寒冷期のため海水位が低下し、陸地化していた地域である。 埴原は、人類学上、縄文人は港川人の延長線上に位置する、すなわち縄文人の祖先は港川人と考えてよい。その港川人は柳江人よりワジャク人に似ており、従って、港川人は、当時東南アジアの島嶼部に出現していたスンダ大陸から陸橋を伝って沖縄島に到ったヒトであったろうとした。日本人南方起源説の論拠となった図である。 人類学の山口敏は、それらの頭蓋骨の関係を次のように提示する。 日本人の北東アジア起源説 人類学界の日本人南方起源説に対し、日本人の北東アジア起源説を提唱したのが、遺伝学の根井正利である。 根井は多数の遺伝子データを使い、「新人」のアフリカ単一起源説を支持するとともに、次の図のように、「原人」以来2度目の出アフリカを果たした新人は、ヒマラヤ山脈の南を南下したグループと、ヒマラヤ山脈の北をへて5〜7万年前に中国北部に達したグループに分かれた、と説明する。 そして、日本列島には中国北部から朝鮮半島経由で、3万年前から1万2千年前までのあいだ断続的に流入した、それ以後、大規模の渡来はなかったので、日本列島人はこの間に形成されたといえる、こう説明している。 この根井の説明は、筆者が遠い原始の時代、文化の伝播にはヒトの移動や流入を伴っていたはずだ、として想定したナイフ型石器文化の伝播や、その後の細石刃文化の伝播の時期にピッタリと一致する。 7万年前〜5万年前、中国北部に達していた、所謂北東アジア人は「石刃技法」という非常に優れた、生産性の高い石器製造技術を開発していた。重複を気にせず再度説明すると、 従来の石器は、目的の石器に見合う適当な大きさの石を、不要な部分を打ち欠いて、石器を作っていた。だから1個の石から1個の石器、ないし2,3個の石器を作るのがせいぜいであった。 ところが、この石刃技法はまず石を石核に整形し、その石核を薄く剥離して、何枚もの石刃(剥片)を作り出し、さらに打ち欠き調整して、削器や掻器、彫器、尖頭器などに成形する、まことに画期的な製造技術であった。それでも当初は粗末な出来上がりであったが、上図のナイフ形石器文化圏と呼ばれる時期、20000年前頃になると、美しいと形容できる石器が各地で作られるようになる。 最初の日本人と東西の文化 3万年前ごろ、オオツノジカやナウマン象などの獲物を追って、中国北部からかなり狭まった対馬海峡を渡って、最初の日本人はやって来た。渡来は何波にも亘ったであろうが、2万年前ごろ次のまとまった集団が渡来し、以前から列島にいた集団を東日本地区に押し上げ、自分たちは西日本地区に落ち着いた(勿論、渡海せず朝鮮半島に留まった人びとも多かったに違いない。また北上した人たちも水深の深い津軽海峡を越えて、北海道に達することは出来なかった。)。 彼らは同じナイフ形石器文化ではあるが、石核の造りを異にする、東の「杉久保・東山型ナイフ形石器文化圏」と、西の「茂呂・国府型ナイフ形石器文化圏」とに分かれた。 ここに現代まで繋がる、この列島の東と西の文化の違いが発生した。 2万年前〜1万8千年前極寒期にあった地球も、その後徐々に氷河期が終わりに近づき、間氷期を迎えつつあった。 1万3千年前〜1万2千5百年前頃、バイカル湖付近(バイカル湖文化センター)を起点とする、特殊な(荒屋型)彫器を持つ細石刃文化が、カラフト経由北海道を経て、東日本に怒涛のように押し寄せた。 この文化の潮流は極めて強く、それまでの東日本のナイフ形石器文化伝統を消し去るほどのものであった。おそらく流入した集団の規模も大きかったに違いない。 一方の西日本地区でも、この時期、半円錐形の細石核を使う細石刃文化が出現している。この文化も従来からの流入ルートである、中国北部・華北文化センターからの伝播だという説もあれば、東日本の細石刃思想(槍先に溝をほり、細石刃を嵌めて、欠けた部分を補充しながら効率的に使う)を取り入れ、従来からのナイフ形石器の技術を発展させた、という説もある。 いずれにしろ、この時期の朝鮮半島経由の流入規模は小さかったとみて間違いないだろう。このときを境に、東日本と西日本に人口の大きな差異が発生する。そして引き続く縄文時代、1万年を通じて、この人口格差は是正されない。 その後、九州地方には細石刃文化の後半期、東日本の細石刃文化とは異なるクサビ形細石核をもつ文化が現れる。華南文化センターからの伝播ではないかとも言われる。 この文化の中から“土器”が発生し、時代は縄文時代草創期に入る。 日本には二つの民族集団がいた 筆者はこれまでの検討から、この日本列島には東と西に二つの異なる民族集団があったと想定する。同じような図だが、右下のモンゴロイドの移動部分を拡大した図を参考にしていただきたい。
華北文化センターの集団とバイカル湖文化センターの集団とは、いわば本家と分家の関係にあり、その本家と分家とが日本列島で、西の集団、東の集団として数万年ぶりに再会を果たしたことになる。 その再会した二つの集団の言葉は、[主語+目的語+述語]という語順は北東アジアの諸言語の状況からして一緒であったろうが、本家と分家筋といえども数万年の間分かれていたため、語彙などはすでにかなり大きく異なっていたに違いない。筆者は細石刃文化がもたらした東日本の言語は、後のアイヌ語に繋がる言語であった、そしてこの列島で従来から使われていた西日本の言語は、後に渡来人の言語と融合して現代日本語に繋がる言語になった、と考えている。 照葉樹林文化の伝播 縄文時代は従来、鎖国に近い、海外との交流の極めて少ない文化として捉えられてきた。しかし近年の研究から、縄文人は交易に長け、文化や技術の許容力に富んだ人びとであったことが明らかにされつつある。すでに6000年前にはイネを含む雑穀類の栽培が始まっていたし、黒曜石、ヒスイの国内外との交易は極めて盛んであった。また遠く奄美・沖縄諸島のイモガイやタカラガイが北海道まで運ばれた。(日本人はるかな旅展-三内丸山交易センター参照) なかでも、中国江南地方からの照葉樹林文化の伝播は、現代日本の底流に今でも残る文化要素として、あるいは日本語の中に色濃く残る南方系の言語要素として、極めて重要である。それは縄文時代、まことにマイナーな地域であった西日本地区が、弥生時代以後、水田 稲作農耕文化を取り入れ、旧来からの照葉樹林文化要素を包含しつつ、東日本の景色を変えていった結果であると言うことが出来る。 しかしその照葉樹林文化がどれ程のヒトの移動を伴っていたか明らかではない。ただ確かなことは、受け入れ側の西日本地区の人口が疎密であったことから、小集団の渡来であっても相対的に影響は大きかった、と考えられるのである。 逆にナラ林文化は受け入れ側の東日本の人口が多かったため、文化要素として強い影響を与えたり、残すことはなかったのかもしれない。 “東日本民族”の西日本への移動 筆者は、あまり注目されていないが、縄文後期の“東日本人の西日本地区への移動”という事件は極めて重要と考える。 4000年ごろ起こった気候の寒冷化は、比較的冷涼な植生に大きな打撃を与え、温暖な地域の植生にはあまり影響を及ぼさなかった。その結果、上表に見るように東日本の人口は1000年間にほぼ半減した。これは現代の我々が想像する以上の衝撃を当時の東日本縄文人に与えたに違いない。
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