1912年の春、ヒトラーは23歳になるときにミュンヘンへ映ったと著書である我が闘争に記している。恨みを募らせ、憎悪の炎に燃料を与え続けることとなったウィーンの街と比べて憧れのミュンヘンの街並みはヒトラーの目にどのように映ったのだろうか。
理想と現実は違うということをヒトラーは痛感したものと思われる。人間の記憶とはいい加減なもので、昔の出来事を自分に都合良く解釈して記憶しているのだ。
残念なことに、ここへ来てから私が会ったどの政治家や外交家も、ハプスブルグ王家を、この上なく頼りになる盟邦だと思い込んでいた。彼らはオーストリアが最早ドイツの一国家ではなくして、内部的に崩壊の一途を辿りつつある国であることをてんで知らなかった。私は少なくともオーストリアのことについては、これらドイツの政治家たちよりは遥かにその真実と多くの事実とを知っていた。
ミュンヘンでヒトラーは芸術家としての仕事を捨てる決断をしている。ドイツへ移った時点で、彼は芸術家ではなく政治や外交に関しての知識を詰め込むことに注力するようになったという。
ある国の国内情勢が流動的で内部崩壊の一途にあることを隣国が正確に把握している可能性は常識的に考えて低いだろう。仮にその隣国がやたらと詳しい情報を持っていれば、それは内部崩壊を起すために何らかの協力を行っている何よりの証拠である。アメリカのオバマ政権がシリアやウクライナで反体制派への支援を行っていたことがその典型例である。
確かに権力者側が力を失って行けば、いずれ体制は崩壊する。しかし、どこからともなく味方が登場すれば、権力者側が復権することも十分考えられるのだ。堂々と隣国の反体制派を支援するには自国に隣国と一戦交えることになったとしても、打ち負かすことができる国力を持ち合わせていることが前提条件だと言えるだろう。
どれだけ列強国が領土の拡大を競っていた時代だったとは言え、隣国の情勢不安を理由に攻め込む国家はなかったであろう。それだけに当時のドイツ帝国の外交戦略はごくごく平均的なものだったと推測することができる。
ただ、ミュンヘンに移り住んだヒトラーが早いうちから懸念を示していた「隣国との同盟ということをあまりに信頼しすぎている」という点については不安が的中することとなる。
同盟がいつまでも存在すると考えるのは間違いである。どちらか一方に同盟を結び続ける意義がなくなれば、その同盟は解消されるか、同盟の内容が見直されることとなるだろう。それが、一般的なのだ。この結論がヒトラーの分析結果なのか、勘によるものかは定かではない。しかし、的を得た見解であることは認めざるを得ないだろう。