(1)『魏志倭人伝』に記される植物
【要旨】
『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。
『魏志倭人伝』の内容は大きく分けて、以下の三つに分けることができる。
最初が、倭の地理的記述、次に、倭の社会、風俗や自然、産物についての記述、最後は、魏と邪馬台国との外交の記録である。
その、社会、風俗や自然、産物について記した中で、「其の木有り」として、9種ほどの樹木名、「其の竹」として3種の竹、さらに4種の食用植物名が記されている。
私はこの植物の生育範囲から、邪馬台国の場所を、特定できないであろうかと、考えその樹木名の同定を始めた。
植生から、邪馬台国の場所を特定するには至らなかったが、この結果から、魏志倭人伝を読み解く上で、極めて重要な手懸かりを得ることになった。
以下にその植物名の同定と、その記述から読み取れる事柄を記す。
『其木有、(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・楺(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・蘘何(じょうか)・不知以為滋味』と記す。
ただし楺櫪・投橿という二文字の熟語と解釈する説もある。
(だん)はクスノキである。
楠(くすのき)の異体字である。クスノキは、樟(しょう)ともいい樟脳の原料を採る。
タブノキとする説もあるが、後に記された予樟がタブノキであるから、これはクスノキと考えて間違い無い。
クスノキは関東以西の、内陸部山岳地帯を除いた平野部に多く、わが国では、最も巨木になる樹木の一つである。
暖温帯に生育する、常緑広葉樹で、西日本に広がる照葉樹林を構成する代表的な樹木でもある。
当初、私は、最初にクスノキが記されている事に違和感を持った。日本列島を、海岸沿いに航行したとするならば、最も多く目にするのは、松と思われる。しかし魏志倭人伝の記述の中には松らしき樹木名は見当たらないのである。
しかし、奈良県橿原神宮外苑の森を見たとき、その理由が解かった。この橿原神宮の外苑の森では、松は見かけることなく、最初に目につくのは、最も太く、背の高いクスノキである。このような森を観察して記録したものであれば、松の記述が無くとも不思議はない。
杼(ちょ)とはドングリのことである。
ドングリとは、カシ、クヌギ、コナラ、ミズナラ、シイ、ブナなど、ぶな科の樹木の実である。
カシとクヌギの樹木名については、『魏志倭人伝』の中で記述がある。
ミズナラやブナは温帯に生育する落葉広葉樹で、上記のクスノキと混在する可能性は低い。残るはコナラかシイである。
中国の古い書物『山海経』(さんげきょう)の中で『杼を食す』という記述を見る。一般にドングリの類はアクが強く食用にはなりにくい。シイの実だけは、そのまま炒って食べることができる。
また杼とは機織りの横糸を走らせる『ひ』のことでもある。察するに『ひ』を作った材であろう、器具材としては、小径で曲がったコナラよりシイの方が適材である。したがって杼とはシイのことである。
わが国のシイにはコジイ(ツブラジイ)とスダジイがあるが、どちらであるかは定かでない。いずれも高さ25mに達する高木であり、上記のクスと共に西日本の照葉樹林を構成する代表的樹木でもある。
杼をトチとする説もあるが、上記のクスノキや次のタブノキなどと混在する可能性はない。
予樟(よしょう)とはタブノキのことである。
樟一字なら楠(クス)のことであるが予がついているので、クスに似る樹木の意である。
タブノキはクスノキ科タブノキ属で別名をイヌグスともいう。クスノキなどと同様大木は30mにも達し、上記のクスノキやシイと共に西日本の照葉樹林を構成する。クスノキよりはやや暖かな沿岸部に多い。
予樟をショウノキとする説もあるが、クスとショウは、同じ樹木の異なる呼び方である。
楺(じゅう)この樹木が何であるか、確かなことは、私には解らない。
多くの解説書で、これをボケとする。しかしボケは外来種であって、3世紀の日本列島で見かけることはない。クサボケという種類はあるが、前記のクスノキ、シイ、タブノキなどの高木とは異なり、低木で、とても倭地の代表的な木として記されたとは思われない。
またボケは漢字で楙と記す(木+矛+木)。
前出の、クス、シイ、タブはいづれも25mを超える大木となる。記述の順位からから、相応の大木でないかと考える。クス、シイ、タブなどの森で、多く見られる樹木としては、ツバキ、モチノキ、マサキ、などがあるが、あまり大木とはならない。
私は、このような森の近辺で見かける大木として、ムクを候補に考えたい、しかし確かなことはわからない。
櫪(れき)とはクヌギのことである。
関東以西でごく一般的に見られる落葉広葉樹である。クヌギは陽樹で明るく開けた場所に多い。クスノキ、タブ、シイなどの照葉樹林の中に混在することは少ないが、森が切り開かれた周辺部などで見かける。
投(とう)を、柀の字の誤記として、スギとする説もあるが、恣意的すぎる。また、一説に、藤(とう・ふじ)のことであるとする。植生的には問題はないが、ツル性の藤を「木」の仲間に加えたかは、疑問である。
また投橿という、熟語とする説もある。投は『木』扁ではないので、樹木名ではなく、熟語の可能性は高い。熟語であれば、下記のカシの類のいづれかであろう。
橿(きょう)とはカシのことである。
カシ類は日本列島で、ごく普通に目にする常緑広葉樹で、種類も多い。
イチイガシ、アカガシ、シラカシ、ウラジロガシ、アラカシなどが代表的な種類である。いずれも20m近い高木となる。
常緑広葉樹のなかでも、アカガシ、ウラジロガシ、アラカシなどは、クスノキ、タブノキ、シイなどの常緑樹にくらべ、宮城県の太平洋沿岸部あたりの高緯度まで分布する。
烏号(うごう)
烏号とはクワのことである。名前の由来は、優れた弓を烏号と呼ぶことによる。
『大漢和辞典』(大修館書店)による、烏号の説明として、「一説に、桑柘(そうしゃ)の木は堅勁(けんきょう)であるが、烏が止まって飛ばうとするとき枝が撓(たわ)んで飛べず、号呼する故、其の枝を伐って作った弓を烏号といふ。」
中国の古い時代木弓の材としては桑が最上とされていた。したがって烏号とは「桑柘」すなわちヤマグワらしい。
私がイメージする桑の木は、養蚕用に仕立てられた背の低い桑の木であるが、天理市黒塚古墳の、木棺の材料は桑の木であるとされた。奈良盆地には、棺を作るような大木も存在していた可能性は大きい。
余談だが、我が国の木弓の材は、弥生以前はイヌガヤが多いそうである。古墳時代以降は、梓(ミズメ)、槻(ケヤキ)、真弓(マユミ)が用いられている。わが国では、古代すぐれた弓のことを梓弓(アズサユミ)とする。
楓香(ふうこう)とはカエデのことであろう。
カツラとする説もあるがカツラは主として温帯に生育し、暖温帯の、クスノキ、シイ、タブノキなどとは混在しない。
しいてカエデの種類を特定するとすれば、上記の常緑広葉樹と混在する、イロハモミジであろう。
次に竹の類についての記述がある。
魏志倭人伝では「其の竹」として篠、簳、桃支」を記す。
どの種類の竹かは、私には解りかねる。
現在私たちが多く目にする、マダケ、やモウソウチクは外来種と考えられる。したがって背の低いクマザサ、スズダケ、ヤダケ、メダケなどであろう。
また『有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・蘘何(じょうか)・不知以為滋味(もつてじみとなすをしらず)』として、食用となる植物名を記す。
それぞれミョウガ、タチバナ、サンショ、ショウガのことと思われる。詳しい植生の分布は解りかねるが、タチバナなどの柑橘類は暖温帯である。サンショは北海道から九州まで広く分布する。
またタチバナは柑橘類の中にあっても、酸味が強く食用にはならない。倭人が食ぺなかったとしても当然である。
これらの樹木から想像できる森は、現在西日本に広く見られる、クスノキ、シイ、タブノキ、カシなどの常緑広葉樹を主体とし、一部コナラ、カエデなどの落葉広葉樹を含む、森である。
現在このような森が見られるのは、北は、関東地方の太平洋岸に面した一部地域を含み、主として中部地方以西の、内陸部山岳地帯を除いた地域に多い。南は九州本島まで。亜熱帯に属す種子島や屋久島、沖縄は含まれない。次のページに現在の植生範囲を図で示す。
しかし弥生後期の気候は、現在よりも若干気温が低かったと言われる。
したがって上記の樹木の分布は、現在よりも南にずれるであろう。
(1)『魏志倭人伝』に記される植物
(2)『魏志倭人伝』に記される樹木の分布地域
(3)この森は何処の森か
(4)紀行記が存在した
関連するサイト
『魏志倭人伝』謎解きの旅
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