自戒備忘録

常になにかを考えていたい文字書きの備忘録

盗作から学んだこと

創作物に触れている方々であれば、一度は『盗作』と言う問題を目にしたことがあるのではないでしょうか。
それは被害者側であったり、加害者側であったり、傍観者であったりと状況は様々だと思いますが、私はこの全てに経験があります。
そういった経験を踏まえて、私の考えを記していきます。

今回、改めて盗作のことを考えようと思ったのは、ツイッターで目にした『「提言騒動」の謝罪・経緯説明・被害対策サイト』がきっかけでした。
URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/6974/

上記に記した通り、私は盗作と言う問題について、被害者としても、加害者としても立ったことがあります。
自分が経験したから考えた、と言うところが一番大きいですが、盗作と言う問題は、創作をしていれば誰もが被害・加害と言う立場になり得る可能性がある、と言う点を、日々懸念していました。
それは、昨今、ツイッターなどのSNSを筆頭にインターネットが栄え、情報が至るところに溢れ返っているからです。
その中、ふと目にした記述を無意識下で自分のものとし、それを口にしてしまうことは誰にでも起こり得ること。
これを、「私は違う」「私はそんなことはしない」と否定する声があるのであれば、私はその考え方こそが一番恐ろしいと思います。

私の思考は、これまでの経験に基づき構築されています。これまで様々な経験をし、様々な人の意見を目にし、その上で情報の取捨選択をし、思考し、発言しています。
つまり、人が生きている上で、必ず何かに影響を受けている、と言うことなのです。
身近なものであれば、家族、友人、テレビ番組、新聞、本、看板…この世界には様々な人に溢れ、その人たちが生み出した何かが盛栄しています。
その中で、どこまでが自分だけの考えたもので、どこからが他人の考えたものでしょうか。子どもが無意識に親の真似をしてしまうように、親の影響を受け親と同じような思考に育ってしまうように、“無意識”と言うものは必ず人々の思考の中に存在していると思うのです。

私は何にも影響を受けていない。そう主張する方は、どんなことをしてそれを防いでいるのでしょうか。
今まで目にした全ての事柄を記し、常にその内容を確認しているのでしょうか。その上でそこに記された全てのことを覚え、自身は行っていない。と言うのならばその理屈は成り立ちます。けれど、「私は記憶力がいい」「覚えることができる」などと言う曖昧な認識では、いつ自身が加害側に立ってしまうかわかりません。
私はこう思います。自覚することはそれを未然に防ぐことと同時に、いざ問題が起こった際に冷静な対応をすることができるのだと。

人には向き不向きがあります。思考の仕方は人それぞれです。
理を詰め道理で考える人もいれば、感情が先立ち目先にあるものを答えとする人もいます。
どちらが正しいのかと言えば、そこに優劣はないのだろうし、それは『人それぞれ』なのだと思っています。


なぜ盗作の話から、人の考えと言う話に変わったのか。それは、そもそも『盗作』と言う事柄における根本的な問題は『感情論』だからだと、そう考えるからです。
今回、盗作と言う問題を考えるきっかけとなったサイトでも、どうしてそこまで問題が大きくなってしまったのかと言う理由のひとつに『感情』がありました。
(詳細は集いの過ちhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/6974/zenkei/ayamachi.htmlをご参照ください)

人には感情があります。そして、『感情』と『理屈』が必ずしも両立するとは限りません。
『理屈』では理解できても『感情』で納得することはできない。そんな事柄は、世の中に溢れているのではないでしょうか。

上記、『「提言騒動」の謝罪・経緯説明・被害対策サイト』内の『詳細経緯(URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/6974/zenkei/zenkei.html)』に、盗作についてこう記されています。

盗作は、他人の法的権利(著作権)を侵害する行為である。
しかし、設定、アイデア、荒筋、決まり文句、文体、題名、固有名詞、などの著作以外のものについては、その使用は自由である。
従って、意識的か無意識かにかかわらず、誰かの作品に使われているものと同じものを使ったからといって問題ではない。
出展:「提言騒動」の謝罪・経緯説明・被害対策サイト - 詳細経緯

つまり、『著作物』そのものに対しての盗用(画像の無断転載、がわかりやすいでしょうか。ツイッターでも撲滅運動がありますね)は法的権利を侵害している。と言うことになります。


私が以前、盗作をした、所謂加害者に立ったとき。私は盗作元の作品を一度目にしていましたが、目にした事を忘れていました。そして、時間が経った後、自分のアイデアだと勘違いし、創作しました。
これらの行動は所謂“ぱくり”に当たると、私は考えます。

ぱくり、とは

既存のものに似た作品やネタを作ること、あるいは極めて似た作品やネタを発表すること

ぱくり - Wikipedia

 と記載がある通りです。

(ぱくり=盗作と言う認知が広く渡っているため、今回はここをイコールで記述しています)



ところで、“オマージュ”と言う言葉をご存知ですか?

オマージュ

オマージュ(仏: hommage[※ 1])は、芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。ただしフランス語として使う場合は他の単語と組み合わせて「尊敬を込めた作品」の意味で使われることが多く、hommageだけでは「尊敬、敬意」の意味だけになる。

オマージュ - Wikipedia

 芸術や文学においては、“尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作すること”。
前述した、ぱくりにおける“既存のものに似た作品やネタを作ること、あるいは極めて似た作品やネタを発表すること”との違いはどこにあるのでしょうか。
そう考えたときに、私の中でひとつの答えが出ました。それは、オマージュに含まれる『尊敬する』と言う記述。
『オマージュ』と言う言葉には、元の作家、ならびに作品へ『尊敬』の念を抱いた上で創作する、と言う、『感情』を前提としています。
これが、盗作、ぱくりと、オマージュにおける違いなのではないかと思います。

つまり、この事こそが、“『盗作』と言う事柄における根本的な問題は『感情論』だからだ”と言う前述に繋がるのです。

私の加害側の話をするならば、私は元の作品を生み出した作家様に『尊敬』の念、つまり『敬意』を抱いていませんでした。
だからこそ、相手の方も感情的になり、私の『盗作した』と言う問題は、大きく拗れてしまったのです。
相手が傷付いている、と言う事実に目も向けず、自分の正当性ばかりを押し付けた。それは相手が人間であると言うこと、感情を持ったひとりの人であるということをまったく無視した行動であったと、今ではそう考えます。

 

アイディアの重要性

私は、ネタが被った、アイディアが被った、と言うことをあまり気にしません。
なぜならば、私が創作物を楽しむことにおいて最も重きを置いているのは『その人にしかできない表現』であり『創作物』そのものであり、ネタと言うものはそれらを作り出すための手段でしかないからです。
自分の作り出したいもの を 表現 するために ネタ がある。私はこう考え、日々創作し、人様の生み出した創作物を楽しんでいます。
ですが、中には、ネタ を 表現 するために 創作物を生み出す。 と言う、逆転の感覚を抱いている方もいます。
こういった考え方の方からすれば、『ネタ』『アイディア』が全てです。ですから、上記の『設定、アイデア、荒筋、決まり文句、文体、題名、固有名詞、などの著作以外のものについては、その使用は自由である。』と言う考えには当てはまらないことになります。

そういった考えの方々に、私は問いたい。
『そのネタは、アイディアは、本当にあなただけのオリジナルのものですか?』と。

世の中には日々、創作物が溢れ返っています。
絵画、イラスト、漫画、小説、アニメ、ドラマ、映画etc...数多と増え続けるこの世界で、本当に『あなただけが考えたのオリジナル』と発言できる作品が作れるのですか?と。
もしも、『あなたが無意識に覚えていたネタを使っていただけ』だったらどうしますか?『今はたまたまそのオマージュ先を知る人の目に触れていないだけ』だったらどうしますか?

 

“行動”の先

私は以前、盗作の加害者と言う立場に立ったとき、冷静に状況を判断することができませんでした。
なぜならば、私が創作物を必死に作り上げていたとき、それは『自分の中に抱いていた私だけのオリジナル』だと思っていたからです。
それを盗作だと指摘されたことは、即ち、『私だけのオリジナル』の否定でもありました。
否定されれば嫌な思いをすることは人として当然のことだと思います。特に私は前述したとおり“被害者側”に立ったこともありましたから、『盗作は悪だ』と言う認識がありました。
『私だけのオリジナル』と言う概念を否定され『盗作は悪だ』と認識していたことを自分がやってしまっていた。その二つが同時に襲い掛かって来ると言うのは、私にとって、アイデンティティの否定となんら変わりないことだったのです。
その結果、私は『自分が傷付いた』と言うことばかりを前面に出してしまい、結果、傷付けた相手の存在を蔑ろにしてしまいました。

『冷静になる』と言うことは、その場の行動における選択肢が増える、と言うことに繋がる。そして、冷静になるためには状況を把握することが必要であり、状況を把握するためには多くのことを“知識”として抱いていなければなりません。
このときもしも私が冷静に判断を下すことができたら。冷静に、物事を見ることができていれば、互いを傷つけ合うような事態は起こらなかっただろうと思います。
『冷静になる』と言うことは、その場の行動における選択肢が増える、と言うことに繋がります。そして、冷静になるためには状況を把握することが必要であり、状況を把握するためには多くのことを“知識”として抱いていなければなりません。
私はこのとき、『盗作は悪だ』と言う強い否定概念に囚われていました。そして、『私だけのオリジナル』を生み出すことができる人間なのだと、傲慢な考えを抱いていました。
だからこそ、それらの考えを否定されたことが自己のアイデンティティの否定に直結し、“自身が傷付いた”と言う事実にしか目を向けることができず、感情的になり、冷静さを欠いていたのです。

こういった経験があったからこそ、私は自分の認識を改めなければならない、と感じました。

人は自分の意見を否定されれば傷付くものです。それは、自分の意見と言うものが自分の思考の一部、つまり自分の一部であり、意見の否定が自己の否定に繋がると、無意識に感じてしまうからではないでしょうか。
けれど、そう言った考えに至った際、私は友人や家族を思い出しました。その人たちは欠点がまったくない、完璧な人間でしょうか?
そんなことはありません。例えば私の母は感情的になりやすく、自分のものさしでばかり物事を考える人でした。私の父は非常に利己的で、理屈屋で、そのくせ怒りっぽく理不尽が何よりも許せない人でした。
だから、私は彼らを否定するのかと言えば、そうではありません。母は感情的になりやすい人でしたが、その分情に厚く、私たち子どものことをいつも優先的に考えてくれる人でした。父は利己的で理屈屋でしたが、仕事にまっすぐで40代後半と言う歳で建築士の更なる上の資格を取るべく何年も勉強を続け、何年も落ち続け、最後には資格を会得しました。

誰しも、短所を抱きながら、必ず長所となる点が存在します。
そして、私たちは相手を許し、相手に許してもらい、生きているのではないでしょうか。
人に自分の意見を否定されることは、必ず自分自身の否定に直結しているわけではありません。その人の中にある本の一部分が、たまたま相手と合わなかった。ただそれだけのことです。

私は思うのです。『人を許すことは、自分を許すことに繋がる』のだと。


私が“無意識に盗作した”と言うことを認めず、無意識なんてありえない、と弾圧した方々は、私をそのように否定したことによって『自身は無意識に盗作しない』と言う言葉を背負いました。
私は考えます。もしも今後、その方々が『無意識に盗作』し、意図せず加害側に立ってしまった場合、どうするのだろうと。そうして、私が経験したことと同じように「無意識なんてありえない」と否定されたとき、どう思うのだろうと。

私は昔、盗作した人間を許せない。そう考える人間でした。人のアイディアを盗むなんて最低なことだと。
でも、それを大きな声で発言したら。私はもう、オマージュすることすらできなくなるのです。
オマージュと盗作は違う、盗むと借りるは違う。人の中にはその感覚があるでしょう。けれど、それを他者にどう伝えるのですか?
相手が親しい友人であれば信じてもらえるかもしれません。けれど、もしも相手が自分のことを嫌っている人だったら?その言葉を、果たして信じてもらえるのでしょうか。

言葉はいずれ自分の元に跳ね返り、自分の首を絞めます。何かを否定すれば、それを否定することによって自分の足元が狭くなっていくのです。
だからこそ、こう言った『感情論』でどうにでもなってしまう事柄には、『許す心』が必要なのだと、そう考えました。

人の言葉に感化され、そのことによって自分の創作意欲が刺激され、新しいイメージが膨らむ。
スタート地点がいくら同じであろうと、まっすぐ同じ道を進み続けることはありません。それこそが『個性』であり『表現の自由』であり『この世界に創作物が絶えず発信されていく』所以なのではないでしょうか。

創作活動をする、全ての人に問いたい。
『あなたはどうして、創作を始めたのですか?』
そこに、きっかけとなる作品はありませんでしたか?影響された言葉はありませんでしたか?今、あなたが創作している、その原点は、どこにありますか?

人のアイディアに感化された。人のアイディアを盗んだ。
それは、まったく同じ事柄でも、見る人によって変わってしまう“感覚の差”だと私は思います。
だから私は、悪意がない限りのことは許したい。悪意がないことを信じたい。そう思います。

もちろん、そのことによって、私の思考を利用して“悪意を持ちながら悪意がない”と主張する人が出てくるかもしれません。
けれど、私は“自分のこれからの可能性を狭めたくない”と言う利点を得るために、“他人を許す”と言う選択をしました。
人は行動や思考を選択する自由があります。そして、どの選択肢にも必ずリスクがついて回る。
大切なのは、どれを選択するか、だけではありません。そのことによって、どんなリスクが起こり得るのか。その先を知り、覚悟することが大切なのだと私は考えます。


創作者はみんな、それぞれ互い刺激し合い、日々新しいものを生み出しています。
すばらしい作品に出会ったとき、思ったことはありませんか。

「あぁ、なんて素敵な作品なんだろう。私もこんな作品を作ってみたい!」

きっと、創作活動をされている多くの方が、何かしらの創作物に触れ、その心を動かされ、「自分も創作したい!」と思ったのではないでしょうか。

その姿勢を弾圧するのではなく、お互い高めるための手段として使いたい。そのためにはまず、『人のアイディアを使うことが悪いこと』と言う意識が少しでも広まればいいなと、そう思います。
アイディアには限りがある。けれど、人の可能性は無限に広がっている。
だったら、数あるものをお互いに共有し合いながら、それでも自分の『個性』を磨き上げて、「同じアイディアから生み出しても、自分はこう言う風に表現するんだ」と、一歩先を見据えませんか。

そんな世界になったらいいな、と、私は思います。
みんなが自由に創作し、表現し、新しいものを生み出し続け、同じものを見つけたら「私の真似だ!」とナンバーワンを主張するのではなく、「私にしかできない表現を追及しよう!」とオンリーワンを抱き、「私と同じ完成の人と出会えるなんてうれしい!」と、感性を共有できることに喜びたい。

今私がいる、創作という世界が、そんな空気に溢れてくれたらいいなと、私は思います。
個々が互いを牽制し合い、弾圧し合い、叩き合うのではなく、お互いに許容し合い、認め合い、共有し合う、そんな世界を、私は目指したい。
そのためにはまず、私自身がそう思えるように、そう感じられるようにならなければいけません。

 

『「提言騒動」の謝罪・経緯説明・被害対策サイト』を拝見し、自分の経験を振り返り、私は『盗作』と言う問題から、これらのことを学びました。

 

自戒の念も込め、以上のことを記します。