自戒備忘録

常になにかを考えていたい文字書きの備忘録

思考停止からの脱却

私は過去に人を傷付けました。けれど、とても恐ろしいことに、そのときの私は無意識に人を傷付け、誰かを傷付けている。と言う自覚がなかったのです。
だと言うのに、人が離れていけば嘆き、「私は人に嫌われやすい性格だから仕方がない」と諦めていました。あのときの私は、完全に思考を停止させていたのです。
少し考えればわかることでした。私の言動の何が人を傷付け、何が不快にさせたのかと言うこと。

かつての私は、『行動に伴うリスク』を理解していませんでした。行動は絶えず自身の選択から成り立ち、選択すればその先にあるのは利点だけではない。
どんな物事に置いても必ず利点があり、その分不都合が生じます。選択すると言うことは片方を捨てると言うことであり、人が行動をすると言うことは必ずその背景に切り捨てた何かが存在するのです。
それこそが、選択の自由であり、行動が跳ね返ってくる、と言うことなのではないでしょうか。

私は今、こう発言したらこう返ってくるかもしれない。こう思われるかもしれない。それを絶えず想定します。
それは、『発言』と言う『行動に伴い』誰かを否定するかも知れない『リスク』を覚悟した上で、『発言する』と言う選択を取っているからに他なりません。
私は私の主張したいことを主張する。けれど、そのことで誰かの意見を否定することがあるかもしれない。
“それでも私は私の主張したいことを主張する”と言う利点を取り、誰かを否定するかもしれないと言うリスクを背負いました。


これは、私が私の貫きたいものを考えたときに出た結論です。
人に好かれるように生きる。そのために相手に合わせ、自分の意見を押し込める。そう言う生き方もあり、そう生きている方もいて、そう言った選択肢が存在します。
実際、私は今までそうやって生きてきました。『でも』この生き方は、少なくとも私には合っていなかったのです。

人に合わせる度に、“私はいったいどこにあるのだろう”と言う存在理由まで考え苦しみました。
私には私の主張したい意見があり、知ってほしい思いがあり、常に何かを発信したいと言う欲望がありました。
私は幼い頃から絵本を好み、小説を好み、小学生の頃から小説を書いていました。昔は読むことが好きだったはずなのに、気付けば書くことの方が好きになっていたのです。
それは私が『何かを発信したい』と言う欲を抱いている人間である証拠であり、だからこそ『自分を押さえ込んで生きる』と言う選択肢は私と言う人間に合っていないものでした。

自分と言う人間を理解していない。だから思考と行動が伴わずちぐはぐになる。
自分の意見を主張したい。でも人に嫌われたくはないから行動を合わせる。そうすると、私は自分の意見を主張することによって誰かの意見を否定しながら、しかし他人の意見に同調をする。と言う、矛盾が発生してしまうのです。
今思えば、これが私を苦しめていた要因であり、意図せず人を傷付けていた原因だと思います。

この二つは、相容れることのできない生き方だと、私はそう思っています。
なぜならば、『自分の意見を主張したい』生き方は『誰かの意見を否定するかもしれない』リスクが伴い、『嫌われないために他人に合わせる』生き方は『自分の意見を押し殺す』リスクが伴うからです。
その利点だけを取って生きる方法もあるのかもしれません。言葉を選び、取捨選択し、角の立たない言葉遣いを“選ぶ”。それもまたひとつの選択肢だと思います。
けれど、少なくとも私はまだ、そこにたどり着くことができていません。なぜならば、本当につい最近まで、去年まで、私は『自分の意見を主張したい』かつ『嫌われないために他人に合わせる』と言う生き方をしていたからです。
私はその両極端にいました。その二つが擦りあい、バランス良くいられる方法と言うものを、私はまだ見つけられていません。

私が今まで多くの人の心を蔑ろにしてきたのは、この双方に置ける生き方に伴うリスクをまったく理解していなかったからです。
私はリスクの存在を認知しておらず、しかし問題が起こる度にその事実から目を逸らし続けてきました。自分の悪い部分を見つめることができなかった。これは私が思考停止し続けていた、なによりの理由です。
考えると言うことは物事の本筋を見つめると言うことであり、物事を見つめると言うことは善も悪も目に入ると言うこと。私は自分の中にある悪を認めたくなかった。知りたくなかった。だからこそ、思考を停止させ物事の本筋を見つめないようにしていたのです。


そのことに気付いたとき、私は今までなんて身勝手な生き方をしていたのだろうと言うことに気付きました。
他人を傷付けて生きてきたと言うのに、自分が傷付いていると言うことばかりに焦点を合わせ、自分を守るあまりに他人を攻撃すると言う選択ばかり取ってきたのに、私はそのことに気付いてすらいなかった。
そして、自己愛ばかりが強く、私はなんてかわいそうな人間なんだろうと、悲劇のヒロインに浸っていたのです。

こう言った、自分の中にある汚いものを理解するのは辛いことでした。でも、気付かずにいればよかった、とは思いません。
このことに気付いたことによって、私はやっと今まで嫌ってきた人たちを許すことができました。いえ、許すと言う言葉は傲慢かもしれません。今まで嫌ってきた人たちを受け入れることができるようになりました。
敵意を向けてきたあの人は、そもそも私がこの行動をしていたからだ。私があの人を嫌っていたのは、この部分が受け入れられなかったからだ。
そうして原因を理解することによって、私はその人たちの行動を理屈で理解し、感情を納得させることができたのです。


私は常に『発信したい』と言う欲を持って生きています。そのために、私は文章と言うツールを選択しました。
言葉は一つの単語をとっても人の数ほど解釈が存在します。本当に扱うことが難しいものだと思います。
この世界に溢れていて、人々が意思伝達するために欠かせないものだと言うのに、それを正しく使うことができない人ばかりが溢れている。それはもちろん、私も含めて。

私は小説を書くことが好きです。自分の意見を主張し、発信させることが好きです。
そのことによって伴うリスクがあります。でも、それを理解し、受け入れて、私は発信し続ける道を選びました。
小説を極めたい。そのために他者を理解したい。言葉を知りたい。考えを知りたい。意見を交換し合いたい。
小説と言う、言葉で表現することを選んだからこそ、今こうして言葉を使って思考し、この考えに至りました。
それは同時に何かを切り捨てると言う行為でもあります。それは私とは違う意見を持つ人の意見の否定かもしれないし、私と言う存在を嫌う人が私の言葉を目にして不快になると言うことかもしれない。
それでも、私は自分の思いを発信したい。そのことによって、受け入れてくれる人がいるのも、離れていく人がいるのも、全ては承知の上です。
思考停止の諦めではなく、『二兎追うものは一兎も追えない』と言う言葉があるとおり、私は今の私が掴める限界で行動しています。

いつか、『自分の意見の主張』と『他人に合わせること』を両立させる思考に辿り着きたい。でも、今の私にその生き方は遠すぎる。
最終目標をそこに設定しつつ、今は新しく決めた生き方で生きていこうかなと、そう思います。