〜諡号考


 天皇の死後におくられる名前には2種類ある。「諡号(しごう)」と「追号(ついごう)」だ。たまに両方をひっくるめて「追号」ということもある。しかし本来、「諡号」は生前の行いなどをほめる意味合いがあるもの、「追号」はそういった意味合いを含まないものだ。前回書いた長ったらしい名前も諡号に当たるが、今回はいちばんなじみ深い、漢字の諡号・追号について考えてみることにする。

 「史上初の女帝は?」と聞かれれば、だいたいの人が「推古天皇!」と答えるだろう。しかしこの推古天皇、生前に「推古」と呼ばれたことは一度もない。死後もしばらく――百年以上は推古天皇とは呼ばれなかった。推古天皇に限らず、雄略天皇も仁徳天皇も、この呼び方で呼ばれるようになったのは奈良時代になってからだ。淡海三船(おうみのみふね)という人が、神武天皇(初代)から持統天皇(41代)、元明・元正天皇(43代・44代)までの天皇に、まとめて諡号をつけたと言われている。もちろん当時の朝廷の命令でつけたのだが、これだけの諡号を考えるのも大変だっただろう。

 淡海三船は当時随一のインテリだった。当時、というよりも江戸時代あたりまでそうなのだが、インテリだということは漢学(中国の学問)に精通していることを示す。彼も例外ではない。諡号を選ぶにあたっても、中国の書物にある「諡法」(おくりなのおくり方)を極めたと思われる。言いかえれば中国のまねだとも言える。諡号の文字には一つ一つ意味があり、事績や出自、境遇などが暗示されている。実はこの淡海三船、壬申の乱で天武天皇(40代)に殺された弘文天皇(39代)の曾孫にあたる。先祖のかたきやその子孫の諡号を撰する彼の心中はいかなるものだっただろうか。ちなみに彼は曾祖父の諡号は撰していない。当時弘文天皇(大友皇子)は即位しなかったとされ、彼が弘文という諡号をおくられるのは明治時代に入ってからである。

 平安時代以降江戸時代後期までは、諡号よりも追号をおくる習慣が強まるが、それでも合わせて58人の天皇が漢字の諡号をおくられている。これらを見ていると、いろいろ気が付くことがある。以下に挙げてみる。

・「武」がつく天皇
 神武・武烈・天武・文武・聖武・桓武の6人。「武」は「周書」などによると、「武力が強い」「乱を治める」「法で民を治める」などの意味があるらしい。建国と東征神話の神武天皇、法に厳しかったとされる(自分には甘かったともされるが)武烈天皇、壬申の乱の勝者で飛鳥浄御原令を制定した天武天皇、大宝律令の文武天皇、藤原広嗣の乱を鎮圧して国分寺や東大寺で仏教国家を目指した聖武天皇、征夷大将軍をおいて東北征伐をして平安京に遷都した桓武天皇と、ほぼ字義通りの天皇が並ぶ。また、皆時代を画する治績を上げている(武烈除く)。簡単に言うと、「えらい」天皇だ(武烈除く)。

・「光」がつく天皇
 光仁・光孝・光格の3人。光厳天皇など、北朝の諸天皇の「光」は追号なので別。「光」は「後漢書」によると、よく前行を継ぐ、という意味があるらしい。わざわざ前行を継ぐと断っているということは、裏を返せば前の天皇と血のつながりが薄いということだ。後漢を建てた光武帝が想起される。ということで、ここに挙げた3人は、いずれも傍系から即位した天皇である。光仁天皇は前任者(称徳天皇)と8親等の関係と完全に傍系。前任者(陽成天皇)の祖父の弟に当たる光孝天皇、前任者(後桜町天皇)から7親等離れている光格天皇も同様である。なかなか万世一系とはいかないものだ。ところで王朝交代というと継体天皇が有名だが、この人の場合は前任者(武烈天皇)と10親等、一番近い血縁の天皇(応神天皇)とも5親等と「ほぼ他人」であったためか、もっとストレートに「継」の字が用いられている。まあこういう例もあるんだから、平成の皇室ももっと気楽にしていいのではないか。

・「徳」がつく天皇
 懿徳・仁徳・孝徳・称徳・文徳・崇徳・安徳・順徳の8人。「徳」は儒学で最高の字であり、深く考えて威を張らない、民を安んじる、などの意味があるらしい。懿徳天皇・仁徳天皇については文字通り「徳」という字で称えたのだと思われる。称徳天皇は孝謙天皇が二回目に天皇になったときの諡号で、生前の称号に由来する。この三人を除いては、本来ならば最高の称号かもしれない「徳」諡号であるのにもかかわらず、不幸の影が付きまとう。孝徳天皇は中大兄皇子のクーデタで実権を失い憤死、息子の有間皇子を殺された。文徳天皇は若くして死んだ上に暗殺説まである。これらの不幸を慰めるために付けられたのが「徳」諡号だったかもしれない(そういえば聖徳太子の子孫も皆殺しの目にあっている)。さらにはっきりしているのが崇徳天皇以降だ。崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をした。安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であると考えられる。「徳」をもって威を張るな、民を安んじてくれ、という願いがこめられていたのではないだろうか。
 面白いのが後鳥羽天皇。承久の乱の首謀者で、隠岐に流されて死んだ彼には、一旦「隠岐院」と追号がなされ、その後「顕徳院」と諡号が贈られた。ここまでは崇徳天皇などと同じだが、その後さらに「怨霊を恐れて」という理由で「後鳥羽院」と追号を贈られている。奇妙な話だが、これは、これまで「徳」の字をつけた天皇が怨霊化している例が多い(と信じられていた)からだと思われる。怨霊を鎮めるための「徳」が、いつの間にか怨霊を表す字になってしまったのだ。ここまで来るとなんだかわからない。そして、これ以降は「徳」が贈られた例はない。

 以上、ぐだぐだと考えてきた。次回は追号について。



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