2015-01-18
『ユリ熊嵐』1話、2話のシンメトリー
たとえば花壇のシーンでは、このようなシンメトリーのレイアウトをマスターショットとして採用している。
わざわざシンメトリックな背景を用意し、わざわざシンメトリックにフレーミングし、わざわざ中央に被写体の二人を配置しているわけである。
つまり、紅羽と純花のためにひと手間かけている。ヒイキしているのである。
同様に、銀子とるるも「シンメトリック」に配置される。
こうすることで、二人がコンビだというのがあからさまに伝わる。他のモブとは違うというヒイキ感もある。
このように『ユリ熊嵐』には「特別な二人組」を「シンメトリー」で撮っていこうとするスタンスが見受けられる。シンメトリーにすることで、アシンメトリーでは得られない、「わかりやすさ」や「対等性」が絵に宿る。「この二人はコンビだ!」というのが一目でわかる絵になる。
逆に「特別な二人組」でなければシンメトリックに撮られることはない。ここは紅羽と密子のカットだが、二人は(まだ)そういった特別な関係にない。だから、シンメトリーにはならない。
ここも同様。「特別」でなければ、シンメトリーには撮られない。
もう一点。シンメトリックなレイアウトはそうでない場合と比較して印象に残りやすい場合がある(キューブリックの映画がそうであるように、だ)。すると、どうなるかというと、「変化」が見えやすくなる。いわゆる同ポによる効果を補強する形となる。
たとえば、このカットでは花壇には紅羽しかいない。すると、先の花壇のシーンとの比較から、「純花が欠けている」ことが強調される。事前に「二人のシンメトリックな絵」を印象付けておくことで、このカットは「ただのロングショット」から「孤独さを示すショット」へと変貌する。
あるいはこのシーン。普段は中央にいる紅羽と純花だが、このカットでは例外的に右端に配置される。そして左から密子がやってくる。シンメトリックな配置が崩されているのがわかる。
この三者が花壇の中央で出会うことはない。中央で出会っていいのは、紅羽と純花だけだからだ。中央は「特別」なのである。だから、三人が顔を合わせるのは花壇の端になる。
その翌朝。純花が失踪し、残されたのは変わり果てた花壇。シンメトリーの同ポで変化をしっかりと捉えていく。二人の場所という印象が強いからこそ、この変貌が非情なものとして映る。
そしてその数日後(2話終盤)には、密子に花壇の真ん中を占拠されてしまう。シンメトリーの中央を取られた。これが意味するのは言わずもがな、である。
シンメトリーによる同ポはこのように変化を鋭敏に捉えていく。「ただの場所」でしかなかった花壇が、シンメトリーに切り取られることで、「紅羽と純花の場所」という特別な意味を得る。無機質な記号に特有の意味を付加する上で、シンメトリーというギミックを活用していく。
そして、真ん中を取ったやつが勝ち!という非常にわかりやすいルールを通用させる。『ユリ熊嵐』では「誰が真ん中に立つか」というのが、演出的にかなり重要な観点だったりする。
ちなみに、紅羽と純花には花壇のほかにもう一つ、「二人だけの場所」があった。それは校舎の屋上だ。
もちろんここでも二人はシンメトリックに撮られる。シンメトリックに撮られることで、先と同様に「特別」なことが強調される。
しかしここも後に密子に乗っ取られる(画像は、2話終盤より、紅羽と密子が中央で抱き合っているカット)。かつて純花がいた場所に密子がいる。この変化は、シンメトリックなレイアウトをとることで、より象徴的なものとして提示される。
1話と2話のストーリーをシンメトリーの観点から総括すると、紅羽と純花の場所を密子が侵略したものと見ることができる。レイアウトを見ただけで、話の輪郭が掴めるのだ。これは『ユリ熊嵐』のレイアウトがわかりやすく作られていることの証左でもあるだろう。
ちなみに2話では銀子と紅羽をシンメトリーに配置するカットも登場する。二人は終始険悪ムードだが、新たな関係性の芽生えも感じさせる。何せ、これまで紅羽と一緒に真ん中に立つことができたのは純花だけなのだから。
何にせよ、「シンメトリックに中央に立った人が主役」的な絵作りが本作の根底には流れているように思う。単純といえば単純。けれど、演劇にはそういうところがある。真ん中にいるやつ、上にいるやつが強いのだ。群れから抜け出す=真ん中に立つ、そういうことかもしれない。
まとめ1
・シンメトリー+中央配置…「特別」、「対等」
・シンメトリーによる同ポ…シーン間の「変化」を捉える
◇◇◇
おまけ。本作のカラーコーディネートに少し着目してみると、いわずもがな赤やピンクが頻繁に使われているわけだが、一方で別の色が支配的になるシーンが登場する。
たとえば、花壇の百合が切られるシーン、つまり≪透明の嵐≫がやってくるシーンだが、ここでは背景が青に変色する。花壇の色はピンクだが、このシーンだけアブノーマル色の青に変えている。
そしてもう一か所。失踪した純花の空席を見つめる紅羽のシーン。ここでも同様に青がベースカラーとなる。そして、クラスメートらが孤立していた純花を誹謗中傷する。
上の二例はいずれも、≪透明≫や≪群れ≫の存在が強調されるシーンだ。それらは明らかに紅羽や純花とは対立している。その二項対立を一方は青、一方は赤やピンクをベースカラーとして統一させていると見ることもできるかもしれない。
何にしても、赤やピンクの背景を青へと転換させる演出は、雰囲気がガラっと一変するため効果的で象徴的だ。それは基本となる背景に赤やピンクが散りばめられているからこそできる演出だとも言えるだろう。
まとめ2
・青…「群れ」や「透明」の象徴
◇◇◇
シンメトリーにしても、色の変化にしても、非常に「わかりやすく」見せようという意図が感じられる。一方で、用語や言いまわしが暗喩的なため、いかようにも解釈できてしまうところも多分にある。
話については、「群れ」でいるよりも「孤立」することを肯定したとして、果たしてどれほどの犠牲がつきまとうのか。それはいかほどに妥当なのか。あるいは群れることに関して、紅羽のクラスメートらはクマに襲われないために群れているのだと言うが、ではもしクマがいなくなったら、彼女たちは群れることをやめられるのだろうか。群れることの本質は果たしてどこにあるのか。
何をどう肯定/否定し、折衷していくのか。その辺りが個人的に気になる。そこに「承認欲求」がどう絡んでくるのかも気になる。何にせよ、先の展開に注目したい。
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