悲しみを乗り越えて街の姿は蘇(よみがえ)ったが、なお、生活を取り戻せぬ被災者も少なくはない。阪神大震災から二十年。復興の教訓を風化させてはならない。
一九九五年一月十七日朝に起きた阪神大震災は淡路島北部を震源地とする直下型地震だった。神戸市を中心に死者六千四百人以上、住家の全半壊は約二十四万九千棟に及び、道路、鉄道、あらゆるライフラインが崩壊した。
廃虚同然となった被災地には二十年後の今、新たなビルが立ち並び、街の姿は、以前にも増して華やかに見えもする。すでに神戸市では、震災を体験していない世代や転入者が人口の四割を超えている。
◆遠かった生活の再建
都市崩壊の生々しい記憶が薄れていくことは復興の一つの証しかもしれないが、大きな悲しみを乗り越える中で学んだ教訓まで薄れさせてはなるまい。
阪神大震災の復興は「創造的復興」を掲げて進められた。
創造的復興とは、当時の貝原俊民兵庫県知事が用いた言葉で、単に震災前の街の姿に戻すのではなく、二十一世紀の成熟社会にふさわしい姿に復興する、という考え方だった。
高速道路や鉄道、港湾施設などのインフラの復旧は総じて早かった。土地区画整理事業、市街地再開発なども次々進められた。街の再建が目に見えて進んでいくことが人々を大いに勇気づけたのは間違いないだろう。
その一方、いくら行政主導で創造的復興が進んでも、住民が家を再建し、安らかな生活を取り戻す「人間の復興」は順調に進んだとは言えない。
例えば、都市計画や住宅政策が専門の塩崎賢明・神戸大名誉教授は「巨大再開発という復興施策がもたらす『復興災害』がいまなお進行中だ」と指摘している。
◆住民戻れぬ再開発
火災で全焼した神戸市長田区の新長田駅南地区は、商店街が縦横に広がる住宅・商業・工業の混合地域だった。そこでは、壊滅した地区内のすべての土地を神戸市が買収し、四十四棟のビルを建設する再開発事業が進められた。
しかし、完成したビルの商業・業務区画の売却・賃貸は進まず、地下や二階は今も軒並みシャッターが下りたままである。
再開発ビルの住宅も、分譲価格が従前権利の評価額より総じて高くなった。追加資金を持たない人の入居は難しく、震災前の住民の45%が地区外に転出したとの調査結果もある。
再開発事業が都市計画決定されたのは震災からわずか二カ月後。その日その日を生きるのが精いっぱいだった被災住民の声をきちんと聞いた形跡はない。
コミュニティー復興への目配りが欠けていたのである。
千七百戸の仮設住宅が並ぶ神戸市西区にプレハブの仮設診療所を開設して被災者を支援し、二〇一二年に亡くなった額田勲医師も、著書『孤独死』(岩波書店)で「人間の復興はあまりにも遅々としている。見果てぬ夢を追いながら、仮設住宅で生を終えた人たちは、おびただしい数に上るはずである」と振り返っている。
復興は、建物や道路を取り戻せば終わりではない。暮らしやコミュニティーをいかに復興するか。
現在進行中の東日本大震災からの復興のみならず、南海トラフ巨大地震や首都直下地震も想定し、阪神の教訓を考えねばなるまい。
生かすべき経験は、もちろん、影の部分ばかりではない。
阪神大震災では百六十七万人がボランティアとして活動した。試行錯誤の連続で、事がスムーズに運んだわけではない。善意の空回りもあったが、ボランティアの心は社会に根付き、九五年は「ボランティア元年」と呼ばれることになった。
阪神での経験を契機に、九八年には特定非営利活動促進法(NPO法)が施行された。今や、大災害のたびに各地からボランティアが集まり、行政が進める事業よりも柔軟に支援活動を展開するのが普通の光景になってきた。
日本でも無論、古くから相互扶助が行われてきた。結(ゆい)、講…。つまり、血縁社会、地縁社会の中で機能していた仕組みである。
◆助け合い、参加する
ボランティア活動は、地縁、血縁による助け合いに代わる新しい社会の相互扶助の仕組みである。日本社会の高齢化、人口減が進む中、その重みは増す一方である。
法人税減税の財源をめぐり、昨年、NPO法人の優遇税制を見直す動きもあったが、社会貢献活動の普及に水を差す逆戻りなど、もっての外である。
大きな悲しみをきっかけにわたしたちの社会に現れてきた助け合いの心、参加する気持ちである。より大きく育てていかねば。
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