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ある人々による風刺表現が、別の人々に侮辱と受けとめられる。その反応が多…
ある人々による風刺表現が、別の人々に侮辱と受けとめられる。その反応が多数の殺害という最悪の形になったのが、フランスの週刊紙が載せたイスラム教預言者の風刺画だった。
「絵の問題でなぜ殺人まで」と思う人は少なくないだろう。一方、多くのイスラム教徒にとっては激しい冒
どんな理由があれ、表現に暴力で対抗するのは許されない。
ただ、表現の自由と、個人の信仰や規範との対立を、どう調整するかは難しい問題だ。
民主主義の歩みを振りかえれば、政治権力を対象にした表現の自由は決して制限されてはならないのは明らかだ。批判や風刺にも、最大限の自由が保障されねばならない。
だが、どんな場合でも無制限というわけではない。無分別な表現は、個人や集団、民族などの名誉や尊厳を傷つける「暴力」にもなりえる。
どこまでが自由で、どこからが侮辱か、その線引きは一様ではない。時代や社会によっても変わりうる問題だ。どの場合であれ忘れてならないのは、自由の行使には、節度と思慮が伴わねばならないということだ。
ある集団や民族に属していることを理由に存在意義を根本から否定したり、憎しみをあおったりする言動は、自由の名で守られるべきものではない。
自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である。
グローバル化が進み、インターネットが世界を覆ういま、あらゆる表現は国境や、文化圏、宗教圏をかるがる越える。
表現者が意図した「宛先」の枠内では問題のない内容でも、「宛先」の外では不穏当と感じられることが起こりやすい。欧州の新聞が自分の読者向けに載せた表現が、遠い中東の人々の感情を揺り動かすと同様に、日本の国内向けの言葉や表現も、瞬く間に国外を駆けめぐる。
多種多彩な文化や歴史が共存している世界の一員として、自由に伴うべき思慮の領域を、広く深く持たねばならないのが、いまの時代の要請であろう。
ある表現について、他者が違和感や反論を抱けば、それを表現し返す双方向性の手段が開かれるべきだ。報道機関を含め、表現者はいつも謙虚に耳を澄ます姿勢が欠かせない。
この表現が他者の心にどう映るか。たとえリスクがあっても表現する意義は何か。簡単ではないが、想像力を不断にめぐらす努力を続けていくしかない。
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