学生の本分である学業で忙しいのと、にも関わらず、ドストエフスキーの長編小説(『白痴』。新潮文庫で300ページくらいしか読んでいないけど、なんだか恋愛小説っぽい。面白い)を読み始めてしまったので、なかなかブログの記事を書く時間が取れない。ぼおっとネットサーフィンしている時間を削れば良いだけといえばそうなのだけれど。それでも隙間時間にちょっとずついろいろな本に手を出している(『詩のこころを読む』『ゾウの時間ネズミの時間』『大いなる不満』などなど)。
学生最後の春休みのことを考えている。普通は卒業旅行などへ行ったりするのだろう。残念ながらお金がないので(就職を期に引越し&車検)、特にどこへも行く予定はない。
最後のモラトリアム、やっぱり本を読んで過ごしたいなと思う。
学生時代、ひとつやりたいことがあった。
「引きこもり」である。
半年程ひきこもって、ひたすら本を読んでいたかった。誰にも会わないで。現実的なことは一切忘れて。物語と、とりとめのない思想と、戯れていたかった。甘美な想像。
もちろん実行する勇気など、小心者の私の中には欠片もなく、なんだかんだ毎日大学へと通っている。
言いわけだけど、好きなことをするって、意外と難しいことだと思う。それが、社会にも自分にもプラスにならないことなら尚更。私の好きなことは、ほとんどすべて毒にも薬にもならず、時間を浪費するだけのものだ。
しかも複雑なことに、好きなことで時間を浪費していると、とてつもない後悔に襲われることが多々ある。時間を無駄にしてしまった! 慌てて好きなことを放り出し、好きでもないこと、しかし、社会的には常識的な行為(家事とか勉強とか)を行う。根本的に真面目な人間なんだと思う。ただし面倒くさがりな人間でもあるので、大成はしないだろう。
本棚を眺める。私の本棚の中で最も秀逸な題名の本は内田樹の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』だと思う。思わず買ってしまったし、昨夜も思わず手にとってしまった。(内田樹の本では『ひとりでは生きられないのも芸のうち』も思わず手にとってしまった題名の本だ、そういえば)
昨夜の帰宅途中。もう何度目かの「学生時代を無駄にしてしまった」という後悔に襲われていた。自分の選択は間違いであった、得たもの(何を得たのだろう?)よりも失ったもの(金、友人、時間……)の方が大きかった、と。
冷静に考えれば、無駄ってなんだよとは思う。そんなことを言い出したら、人生なんて無駄でしかない、などという極論に行きついたりもする。
でも、後悔の発作中はそこまで考えが及ばない。そんなときに、『疲れすぎて眠れぬ夜のために』などというタイトルが目についたら、手にとってしまいますよ。内容は普通のエッセイだ。「疲れすぎて眠れない夜にすべきこと」などという安易なHOW TOは書いていない。
Ⅰ 心耳を澄ます
Ⅱ 働くことに疲れたら
Ⅲ 身体の感覚を蘇らせる
Ⅳ 「らしく」生きる
Ⅴ 家族を愛するとは
目次を抜き出してみたら、自己啓発書のようで少し驚いた。内容は、多岐にわたっている。一文化人の世界や人生に対する感想が、広く浅く書かれている。しかし、ぱらぱらと読んでいると、はっとするような一節が紛れ込んでいる。「Ⅳ 「らしく」生きる」からいくつか抜き出してみる。
「らしさ」や「節度」や「品」というのは、別に制度上の虚飾や虚礼ではなく、自己防衛のための知恵なのです。 (p186)
それは「ほんとうの自分」というのがまるっきりの「作り話」だからです。 (p188)
礼儀作法の目的は何よりまず「仮面をかぶることによって自分の利益を最大化すること」なんですから。 (p198)
ここには、目上の人間であれ、年上の人間であれ、子どもであれ、老人であれ、誰に対してもいつでも同じような口ぶりで語ることが、人間としての誠実さであり、「自分らしさ」の表明である、というイデオロギーが貫徹しています。でも、それはかなり偏った考え方だし、実際にはリスクの多い生き方だとぼくは思います。 (p202)
うーん、どうなんだろう。ついつい自分の身に引きつけて考えてしまう。
世の中や世界というのは、いろいろな見方がある。少し見方をずらし、視野を広げるだけで、人生というのはずっと生きやすくなるのかもしれない。そんな気にさせてくれる一冊である。そして気分というのは偉大なもので、少し気が軽くなっただけで、体の疲れまで心地よく感じることができたりもする。
実際には、疲れすぎてるときは、すぐに寝れるような人間ではあるのだけれど、ね。