放射能恐怖という民主政治の毒(7)科学者の一分(中編)

小野昌弘 | イギリス在住の免疫学者・医師

無知の暗闇と科学の光

私たちの生きる世界は、もし科学というものを持っていなかったとしたら、実は魑魅魍魎の住処である。自然の力は計り知れなく、外からは思いがけない災害を引き起こし、また内からは我々の体を得体の知れない方法で蝕みもする。これは丸腰の人間存在にとっては不条理としかいいようがない。この絶望的に人間が無力であった世界に立ち向かったのが科学である(1)。科学は自然現象の底にある原理を理解し、それによって自然の力を御せる方法を編み出してきた。そして長い歴史の中で、人類は自然を開拓し、科学を育てて、人間の領分を少しずつ広げてきた。いま我々が、自然に対する恐怖をほとんど感じることがなく安心して生活できるのは科学のおかげである。

たった今の瞬間、世の中から科学が消え失せたと想像してみよう。

あなたは病気になる。たとえば、悪性腫瘍や、あるいは皮膚に変形をきたすような少し稀な感染症だったとしよう。科学的な知識がまるでなかったとしたら、その容姿の急激な変化が何であるか、分かるすべはない。今後何が起きるかもわからない。この闇の中で、科学の光がなかったとしたら、あなたは絶望と恐怖におののきながら暮らすしかなかろう。科学の力がなければ、医者でもこれを祟りや悪霊のせいにするのが関の山であろう。

勘のいい人はすでに、これが思考実験の中だけではなく、現実に起きていることだと気がつくだろう。いかに科学的な用語を駆使しても、実質が科学的でなければ、科学とは縁もゆかりもないものだ。そうしたニセ科学に頼っていると、本来制御できるはずの自然が、恐怖の対象に変わっていっても不思議ではない。

科学とは何か

それでは科学とはいったい何なのか。

科学は知である(2)。科学知識は実際に人の生活を助けているゆえ、これが科学の一番見えやすい部分だろう。もともと、科学は何か実用的なものを目指した結果であるとは限らないが、結果的に、科学は多くの実用を生み出してきた。多くの職業が、科学の知識を日々用いている。しかし科学の知識が科学の全てではない。科学とはもっと大きなものである。

科学とは方法論である。これまでの長い歴史で人類は、自然に対する科学的知識を得るための方法を発展させてきた。この科学的方法は、訓練さえ受ければ誰にでも使用できるものであり、それを正しく適応すれば、科学的な知を生み出す。だから、科学は本質的に非個人的であり、かつ人間の作り出したものでありながら、自ら成長する力を秘めた有機的なシステムでもある。

科学とは精神である。科学の有機的に自己発展するシステムは、科学の言葉を介して次世代に引き継げるものであり、科学者ひとりひとりの精神に宿せるものである。科学の言葉は問題解決に必要な精密な思考を可能にするために編み出されたものであり、これは本質的に非常に特殊な外国語のようなものである。そしてひとは科学者として訓練され、科学の言葉を学ぶことで、科学の精神を身につけることができる。

科学の精神は、 人の手に負えない自然を開拓し、迷信を追放し、自然を人間の領域と化することへの飽くなき情熱である。この情熱を体現するために必要なのは、自由な批判精神と理性の力である(3)。つまり科学は、本質的に権力・政治・社会といったものに全くの無関心である。科学の真理は権力が曲げられるものではないし、人の意見で変わるものではない。つまり科学者は権力から自由であるし、社会にも迎合しない。すべての人の意見を無視しなければならないという点で、追求する科学の真理は民主主義と無縁ですらある。だから、権力に飼いならされた科学が存在しないのと同じように、「市民による科学」(4)は存在しえても、「市民のための科学」は存在しない。

科学とは人類の力である。科学という、世代を超えて人に力を与え続けるシステムを手にしたからこそ、人類はここまで発展してこられた。この重たい事実を今あらためて認識すべきと思う。科学の力によってのみ、人類は自然に対する無用な恐怖を克服できたのであり、獰猛な自然を飼いならしてきたのだから。

おそらくこれまでの日本社会は、科学の力と脆さを知る前に、「科学の限界」についての言説をもてあそび過ぎたのだろう。そのせいで、単純に近代化を受け入れられない保守的な心性を、近代を超越した進歩的な考え方だとすっかり取り違えられてしまったように見える。科学の本質が進歩主義である以上、この日本社会特有のねじれは、日本の科学の弱点につながっている。

科学の力は、自然の暗闇の中にあるものを人間の領域に引っ張り込むことができる力である。そして科学の脆さは、科学的であろうとし続けない限り、どんなに科学知識があっても、人間は瞬く間に蒙昧に転げ落ちてしまうという厳しい現実である。

科学の光に反発して科学の外で生きることを選ぶことは、それもまた一つの選択である(5)が、闇で生きるなら、相応の覚悟をすることを強く勧める。それは個人の自由であるが、科学の光から逃れて闇に入ったのに、光を騙って人々を闇の中へといざなうのはゆるされない。そしてもし、こうした闇の力が組織的に社会を混乱させているのだとしたら、それに警告を発するのが科学者としての義務であろう。

文献・注釈

1.ここでの科学は自然科学(Natural Science)を指し、自然(Nature)は、外にある環境と、我々の体そのものとの両方を含む。

2.科学の原語であるScienceの原義は「知」である。大文字のScience=科学は一つしかない、人類共通のものであり、一方で、個人の中に宿せるscienceは、人類共通の全科目をまとめた普遍的存在であるScienceからみれば、その一部である。

3.英国王立協会会長、ポール・ナース博士は、2013年に、中国における講演”Making Science Work” の中で科学者からみた科学の価値と、どうやって社会で科学を育てていくのか について語っている。ここでナースは「自由でない社会が一流の科学大国になることはできない」と言う。

4.Citizen scienceとして、科学者の指導あるいは助けを借りて、市民が科学研究に参加すること。

5.現実には完全な科学技術の拒否はほとんど不可能であろう。だから部分的な拒否とならざるをえず、それゆえにカムフラージュのため科学の装飾をこらしたり、ご都合主義の欺瞞が生じやすいと考える。

小野昌弘

イギリス在住の免疫学者・医師

現職ユニバーシティカレッジロンドン上席主任研究員。専門は、システム免疫学・ゲノム科学・多次元解析。関心領域は、医学研究の政治・社会的側面、ピアノ。京大医学部卒業後、皮膚科研修、京大・阪大助教を経て、2009年より同大学へ移籍。札幌市生まれ。

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