フランスの中華思想と移民政策の挫折 - 武士道とイスラムの正義

今日(1/14)の朝日の2面記事を見ると、シャルリー・エブドが襲撃後の特別号で掲載するムハンマドの風刺画について、米欧の新聞各社が転載を見送ったことが報じられている。米ニューヨーク・タイムズは、「侮辱と風刺の間には境界がある」という判断を示し、イスラム教徒への配慮を重視する決定をした。朝日も、ニューヨーク・タイムズに倣ったのか、掲載を見送っているという自社の姿勢を説明している。現在のところ、この事件に対する日本国内の認識と反応は、迷いながらも良識的なところに落ち着いている感があり、"JE SUIS CHARLIE"を支持する声は多数派になっていない。テレ朝とTBSの報道が世論をよく説得していることと、多神教を奉じる日本人の精神的特性が反映した結果だろう。国内のマスコミで、"JE SUIS CHARLIE"の立場に同一化し、事件を「ペンへの暴力」として強調し、言論・表現の自由を「普遍的価値」として執拗に礼賛しているのは、見たところNHKの大越健介ぐらいのものだ。管見では、報ステに登場した内藤正典の説明が、この事件への言論として最も当を得たものであり、市民を理解と納得に導いて正論になっているように窺える。複雑な問題を簡潔に整理し、真相をよく射抜いている。イスラムとは何か、ヨーロッパとイスラムとの関係をどう考えるべきか、それを考える上で最も示唆に富む知見が、内藤正典の指摘に集約されている。

事件から1週間、日本のネットでは実に多くの意見や説明が上がった。衝撃の大きさからして当然とはいえ、関心の高さと持続は予想以上のものがある。この分野に詳しい専門家の所見を見ながら、あらためて感じたのは、フランスの中華思想という問題であり、同じイスラム系移民問題といっても、欧州の各国で事情と様相は異なっていて、フランスには独特の性格があるということだ。簡単に言えば、フランスでは移民を同化させる政策をとっている。フランス化する。公立学校でのスカーフ禁止も、この政策思想から正当性が導出されるのだろう。スカーフ禁止が政教分離の論理であっさり法制化されてしまうのはフランスだけで、ドイツや英国では全くそのような事態にはならない。そのことを、ルモンドの記事が分かりやすく書いている。フランスには、フランス革命以来の自由平等と近代合理主義の伝統があり、それは市民の理性知の自信と自負の根拠となっていて、他(周辺)から一方的に尊敬を受けるもので、一段高い文化的優越性として自己認識する核心なのだ。フランスの文化と思想は、すなわち遍く照らす普遍的なものであり、圧倒的なソフトパワーであり、容易に(異文化の)移民を啓蒙し、移民に受け入れられ、移民を自由なフランス人にするのだという、そういう前提がある。その考え方は、現実には破綻をきたしていたのだけれど、その挫折が象徴的に露わになったのが今回の事件と言えるだろう。中華思想の挫折だ。

フランスは、旧植民地との関係を含んだ全体で見ると、何とも露骨に帝国主義的で、プチ米国的な国家のあり方を示している。米国が嘗て中南米で振る舞い、最近では中東で振る舞ったような、強引で野蛮な作法をアフリカ大陸で行使している。今日(1/14)の報道で、フランスの首相が国民議会で演説し、「フランスはテロとの戦争に入った」と宣言したことが伝えられていた。これは、14年前のブッシュの発言と同じだ。この宣言によって、今でも国際的に容認されているところの、テリトリーであるアフリカ諸国(マリや中央アフリカ)でのフランスの軍事行動が、さらに傍若無人にエスカレートするのではないかと恐れるし、また、中東での紛争に率先して介入し、オバマに地上戦を止められて禁断症状に陥っている米国のネオコンと軍産複合体を引き込むこむことを恐れる。原油安で打撃を受けている石油資本は、中東での戦争勃発を待望しているだろうし、ネタニヤフはガザの全住民を虐殺して地上から消滅する機会を狙っている。本来、フランスの左派リベラルは、危険な"JE SUIS CHARLI"のスローガンに乗ってはならず、"NON A LA VIOLENCE"(暴力反対)と言うべきで、異文化・他宗教を尊重する態度を説き、これまでの移民同化政策の限界を諭すべきだった。この悲劇を、むしろフランス版中華思想から脱却する転機にするべきだった。"JE SUIS CHARLI"を唱えることは、極右の国民戦線を喜ばせ、国内の反イスラム感情を過熱させるだけにしかならない。

エマニュエル・トッドが読売のインタビューに答えて、シャルリー・エブドの風刺画を批判しつつ、「今、フランスで(シャルリー・エブドへの批判を)発言すれば、『テロリストに与する』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない」と吐露している。このコメントに対して、ネットでは高く評価する声が多いが、私は全く逆で、「何て勇気のない男なのだろう」と呆れる。大衆に袋叩きされるのが恐くて知識人がつとまるのか。戦争の危機や「文明の衝突」こそを恐れなくてはならないのであって、知識人の言論とは常に体を張ったものでなくてはいけないはずだ。情けないとしか言いようがない。911テロのときに、「テロとの戦争」を批判する論陣を張ったチョムスキーの爪の垢でも煎じて飲めと言いたい。フランス人に寛容と自省を説得するのは、フランスの知識人の役割ではないか。山田文比古だったと思うが、先週の報ステで事件の解説に出たとき、フランスでも今後は表現の自由について観念を改め、ムハンマドを侮辱するような戯画は自制する方向になるだろうと言っていた。そういう教訓と転換こそをフランスの知識人はフランス人に説く必要があるのだ。責任をテロリストに押しつけ、言うべきことを沈黙するようでは、世界を説得することはできないし、フランスの知識人の信用を落とす態度だ。まさに、いま問われているのは、フランス知識界の普遍性という問題だろう。テロリストに与すると言われて袋叩きに遭うから沈黙するとは、何という臆病で卑小な言い草なのか。

ここで、少し飛躍した問題提起になるとは思うけれど、今回の事件をめぐる議論を見ながら、私が率直に感じたところを蛇足で述べたい。それは「ペンにはペンを」の問題である。イスラムはもともと平和の宗教で、暴力やテロはイスラム本来のものではないという言説についてだ。確かにそのとおりだろう。その一般論を否定するつもりはない。だが、あのとき、筑波大の五十嵐一はホメイニが放った刺客に首を切られて暗殺されたのであり、それはイランの最高指導者による死刑判決の執行だった。ニュースを報じた久米宏も含めて、われわれが理解したのは、その残忍で冷酷な手法を正当視しないのは当然ながら、われわれとは全く異質なイスラムの法と正義があるということであり、それがイスラム共同体の秩序維持の峻烈な現場なのだろうということだった。あのとき、これは憎むべきテロで本来の平和なイスラムとは違うとか、イスラムとテロリストとは峻別すべきだとか、そういう議論が起こった記憶はない。ホメイニは過激派だったし、同時にシーア派イスラムの統治者だった。さて、日本が近代社会に入る前の、例えば江戸期の空間を想像しよう。目の前で、主君を、藩を、家を侮辱されたサムライは、どういう行動でその始末をつけるのか。どういう問題解決があるべき姿なのか。おそらく、抜刀して一撃で相手を斬殺し、裁きを受けて責任をとる形だろう。身は滅びるが、家の名誉は守られる。そこには近代とは別の秩序と作法がある。サムライは、侮辱を受けたとき、口論に持ち込んで論破するという方法を採らない。

サムライの正義の実現は、論理と抗弁を尽くして相手を屈服させ謝罪させる方式ではない。加害者を法の裁きで刑務所に送ることでもない。真剣による流血で素早く正義を実現する。命のやりとりをする。現代で言えば、まぎれもなくテロリズムの暴力だが、これが肯定された精神美学の世界でサムライは生きていた。新渡戸稲造の「武士道」には、そこには教義がなく理論体系がないことが強調されている。武士の思想は態度と行動で表現されるものであり、武士は弁論で自己を正当化する徒ではなかった。古代より、「瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)であり、本居宣長など国学者たちは、そこに日本の思想の美質と真価を見出し、豊穣な古典理論から縦横に術語を駆使して論争する儒学思想を、「くだくだしき漢意」と呼んで一蹴した。無論、言論には言論で対抗することが当然だ。だが、理性的な言論とは一体何なのかと、最近は特に疑問に思うことが多い。あらゆるものが詭弁と侮辱に覆われている。小保方晴子が、東京電力が、詭弁の理屈と法解釈で守られ、不当に擁護され、責任が問われず放置されている。正義が実現されることがない。目の前の現実が、ソクラテスが批判したソフィストの世界に見える。詭弁と欺瞞の海。すべてが詭弁の病理に蝕まれ、詭弁中毒になり、麻薬である詭弁の活字を貪らないと生きていけない社会生態になっている。イスラムの共同体はシンプルで、われわれのように身辺に多くの活字を積み置くことはなく、PCの画面や印刷物で浮薄な詭弁の活字を消費する生活とは無縁なのだろう。

今の日本では、知識とは詭弁の材料のことで、侮辱とデマを吐くネタのことで、言論は卑しい欲望に支配された下品なものになり果てている。知識とか言論とか研究とか呼ばれるものが、その名に値しない腐りきったものになっている。ソクラテスは、まさしくヨーロッパ哲学の祖たる人で、人類史の知の体系の原点の思想家に違いないけれど、ソクラテスから見て本当に人間らしい生き方をしているのは、つまり善く正しく生きるべく知を磨いているのは、シャルリー・エブドの侮辱を擁護するフランス人や詭弁の肥壺に生きる日本人よりも、コーラン(クルアーン)とのみ向き合う清貧なイスラム共同体の人々なのかもしれない。



by yoniumuhibi | 2015-01-14 23:30 | Trackback(1) | Comments(6)
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Tracked from マスコミに載らない海外記事 at 2015-01-16 23:13
タイトル : シャルリー・エブドとツァルナーエフ裁判: Cui bon..
2015年1月8日 ポール・クレイグ・ロバーツ 更新: 有名なライター、ティエリー・メイサンとケヴィン・バレットが、シャルリー・エブド“テロ”攻撃は偽装攻撃だと書いている。http://www.voltairenet.org/article186441.html および、http://presstv.com/Detai...more
Commented by sumiyakist at 2015-01-14 20:15
イスラムについて語るほどの知識はありませんが、イスラム(思想)が武士道に近似しているということは、以前に井筒俊彦氏の著作で読んで納得した記憶があります。

Je suis charli の街頭至る所での大合唱に続いて、フランス国会でのラ・マルセイエーズの合唱、首相の「テロとの戦争宣言」。フランス共和制、フランス民衆エートスの限界を見た気がしてます。「フランス中華思想」ね。なるほどと、同意します。サルトル、ボーボワールいませばどういう発言をしたでしょうね。


Commented by 長坂 at 2015-01-14 23:18 x
もし私がシャルリー・エブドの漫画家でユーモアのつもりで「ようこそアウシュヴィッツへ」「この貨車の乗り心地は最高」とかヒトラーを讃える漫画を描き(2008年には反ユダヤ的なコラムを書いた画家は首になったそうですが)、熱狂的なシオニストに殺されたら、果たして100万人が抗議してくれるでしょうか、私の言論の自由という権利のために。「自業自得」「殺されて当然」「地獄に堕ちろ」ですよ。
2011年にノルウェー労働党の(イスラム教徒を受け入れる)移民政策に反対する極右が77人を殺害したけれど、今回の様にヨーロッパが団結する事はなかったし、犯人が白人だとテロリストと言うより、精神障害者の犯行と言う事らしいです。
こんなに矛盾だらけで、「私はシャルリー」はとても言えない。
Commented by Columbites at 2015-01-15 16:39 x
「フランス中華思想」とは言い得て妙です.長坂氏の切り返しもお見事.「フランスでは涜神が革命以来の伝統」というのは,信仰など「人の心の中のアンタッチャブルな部分」の存在を一切認めないという,ある種の原理主義にほかなりません.私は「原理主義」を押しつけられるのはまっぴらです(当然,市場原理主義にも鳥肌が立ちます).
Commented by てんてん at 2015-01-15 21:30 x
「今、フランスで(シャルリー・エブドへの批判を)発言すれば、『テロリストに与する』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。」
何が表現の自由だ!
彼らの言う「自由」の底が知れる。
さっきNHKのニュースで、フランスで
「シャルリ・クリバーリの気分だ」とネットで発信した
コメディアンが「テロを容認する発言だ」として
事情聴取されている、との報道があった。
彼はアフリカ系の容貌をしていた。

フランス人たちの言う『自由』とは人種や民族によって
使い分けられるものらしい。
Commented by if at 2015-01-16 00:39 x
今、フランスはいまだかつてないほど不自由でないと感じます。フランスがファッショの国であるなどと、これまで考えたことはありませんでした。
フランス人は個人主義だから1つにまとまらないとも思っていました。
これまでのフランスのイメージが大きく崩れて愕然としています。フランス文学とフランス映画を愛してきた者として、暗澹たる思いです。
思えば、ジャンヌ・ダルクが現れたとき、フランスは実際は二派に分かれていて、ジャンヌ・ダルクはすべてのフランス人に支持されていたのではなかったこと、それがナポレオン時代にフランス建国の英雄として、すべてのフランス人がジャンヌ・ダルクを支持していたかのようになったこと、彼女は近代の統一国家の軍国主義の時代に必要な英雄としてよみがえさせられたのであり(中世の時代には統一国家という考えが希薄だった)、日本でもジャンヌ・ダルクは軍国少女として紹介されていたことを思い出します。
第二次大戦中も、フランスはナチスに協力していたのに、戦後はあたかもフランス人全体がレジスタンスであるかのようにふるまい、しかし、最近になって、フランスがナチスの協力者だったという事実を見つめる文学や映画がたくさん出てきたところだったのですが。
Commented by 斜里チャチャ at 2015-01-16 21:57 x
>私は全く逆で、「何て勇気のない男なのだろう」と呆れる。
>大衆に袋叩きされるのが恐くて知識人がつとまるのか。
>戦争の危機や「文明の衝突」こそを恐れなくてはならないので
>あって、知識人の言論とは常に体を張ったものでなくてはいけない

おっしゃるトーリです!フランスにもそういう方まだいると思われますが、報道されません。以前ブログ主さんご紹介のフランス人のユダヤ系女教授がいってましたね 
報道・知識人の役割「インテリといのは限られた枠内を超え出たところで何かやるっていうことで生まれるのであって、国家が決めたた枠内でしかできないというのではインテリは生まれない。」
弾圧されチャウもんと言い逃れの学者・アナウンサーをバッサリ撫で斬りしてくれた彼の女史はきっと健在でしょう。

18分22秒ごろ~tps://www.youtube.com/watch?v=Vimj1ughV5o





ron-paulがエブド襲撃犯人はフェイクではないかと言っているようです。たしかに襲撃犯のとされるIDがすぐ発見されたりなんてWBCの時と似てるし、もしそうならフランス版の真珠湾かパリ版911だっちうことに。
すぐに空母派遣だとか出タラ芽出木杉です!
tp://www.ronpaultoday.com/rand-paul-and-ron-paul-are-both-wrong-about-paris-the-week-magazine/

至近距離で撃たれた警官から血が出てないとか怪しすぎ
tp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=300186

報道の自由とは、報道の沈黙や操作と抱き合わせのシロモノであることがフランスと辺野古や、安倍報道でばれちゃいました。私のような凡人でも気づかされちゃいました。21世紀は世界で草莽蹶起が起きるでしょう。


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