新潟県のほぼ中央。
人口28万人の長岡市。
その中心部からおよそ20キロ離れた山あいに集落が点在しています。
山の斜面を切り開き代々先祖が築き上げてきた田んぼや畑。
人々は自然からの恵みを大切に守りながら脈々と暮らしをつないできました。
静かな山古志の景色は10年前一変しました。
平成16年10月23日。
新潟県中越地震です。
震度6強の激しい揺れで道路や家そして人々の暮らしのよりどころだった田畑までもが壊滅的な被害を受けました。
住民たちは全員麓の長岡市へと一斉に避難。
地震の前から過疎化する一方だった小さな村はそのまま消えてしまう可能性さえありました。
あれから10年。
山古志の住民だけでなく都会からも数多くの人々が集まり行われる秋の稲刈り。
山古志は以前にも増して元気な地域としてよみがえっていました。
小さな山里山古志。
地震から10年の歳月を人々はどう歩んできたのか。
その復興の日々をたどりました。
春から秋にかけて谷から湧き上がる深い霧。
山古志は人口およそ1,100人の小さな山里です。
10年前の中越地震。
その直後山古志をどうするのか議論が湧き起こりました。
その中心にいた役場の企画課長青木勝さん。
過疎化対策で苦労を重ねてきた経験から山古志の復興は容易ではないと感じていました。
神戸や大阪のあの大都市圏の所で起きた災害であればこれは何をしなくたって復旧するはずだと。
それは日本の国自体に対するいわゆる占めている位置関係が全然違うわけですからあそこを壊滅したままにしておくわけがないというのは一つありますよね。
ところが過疎計画やら過疎対策をどんどんやって人間がどんどんいなくなって農業自体も地盤沈下していわゆる地方それも過疎地というそういう所でこういう災害が起きた時に同じ対策が取れるはずがないと。
日本有数の豪雪地帯で冬場には3mもの雪で閉ざされる山古志。
昭和40年代以降都会に人が出ていく流れが止まらず深刻な過疎化に悩まされてきました。
半世紀近く悩まされてきた過疎化。
そしてそこを襲った大地震。
10年前山古志はそのまま消えてしまうおそれさえありました。
本当に山古志をなくしてしまっていいのか。
復興の指揮を執っていた企画課長の青木さんは住民たちの声を聞いて回りました。
これは中越地震のあとすぐに行われた調査。
この地震を機に不便な山里を下りるのではなく9割を超える住民が村に帰りたいと答えていました。
「山古志で生まれたんだから俺は山古志で死にてえんだから」と言うんだよね。
死にたいために山古志へ帰りたいという80のじいさんですよ。
「帰りたい」って住民がこれだけ願っている以上少なくとも帰れるような状況にしてやるのは我々の義務だろうと。
山古志の住民の意向を受け帰村に向けた模索が始まりました。
住宅や道路など被害の概算は1,100億円。
そこに国から対策費が投入される事になりました。
しかし青木さんはインフラの復旧だけでは山古志は元の過疎地に戻るだけだと考えていました。
そこで青木さんが示した新たな方向性。
外の人たちの力を引き入れる事で地域を維持していこうという「都市との連携」でした。
厳しい自然環境の中で先祖が切り開いてきた棚田。
そこで営まれる質素ながらも豊かな暮らし。
この山里の価値を都会の人々にアピールできれば都市との連携はできる。
リゾート開発や産業誘致に頼らなくても立派に復興するはずだと青木さんは考えました。
つまり過疎対策を40年やってきてでどんどん少子高齢化が進んで過疎は止まっていない。
この段階で被災して全員避難してきた人たちを帰すには帰すだけの意味がないと多分日本の国民としても納得しえないだろうと。
だからみんながそうだって言って応援してくれるような考え方なり何なりが必要なんじゃないかという事なんです。
それが復興プランを作って我々の考え方をきっちりと表しておくっていう事は何より重要なんじゃないかという事の原点ですよね。
山里の暮らしを生かして都市と連携していくという復興。
地震から5か月後住民たちにもその基本方針が伝えられました。
「都市との連携」という考え方に大いに共鳴した住民の一人…この時住民が山古志に戻るのは平成18年9月地震から2年後と決められました。
しかし地震から2年。
山古志の復興プランに問題が生じていました。
多くの住民たちが山古志に戻る予定の2年を過ぎてもこの仮設住宅で暮らし続けていました。
復興プランに共鳴していた松井さん一家。
被害のひどかった松井さんの集落では復旧が追いつかず帰れずにいたのです。
帰りたい。
そこで自分の一生は終わりたい。
地震のまんまで終わりたくないんだと。
木籠につくったとこで自分の一生は終わりたいんですよ。
松井さんの住む山古志の木籠集落では地震のあと土砂崩れで集落を流れる川がせき止められ24軒のうち14軒の家が水没しました。
地震の2か月後応急工事で一時的に水が引き自宅に戻った時の様子です。
松井さんの家は3階まで水につかりました。
泥だらけになった我が家。
とても住める状態ではありませんでした。
その後再び水位が増し集落の大半が水没。
(鈴の音)木籠集落は住宅や道路などインフラをゼロから造り直さなければなりませんでした。
こうして木籠集落をはじめ多くの地区で復旧が長引いた山古志。
全ての住民が山古志に戻れたのは地震から3年後の事でした。
地震直後は9割を超える住民が「帰りたい」と希望していました。
しかし避難生活が長引くにつれ若い世代を中心に山古志を離れる住民が増え帰る人は7割に減っていました。
水没した家々が見える高台に移る事になった木籠集落はもっと厳しい状況に陥りました。
地震の前およそ70人いた住民は半分近くにまで減少。
高齢化も進みました。
今も残る木籠集落の旧集会所です。
戻って初めての正月集落の人々がここで新年会を開きました。
この時集まったのは僅か11人。
住民の数が大きく減った現実を実感しました。
しかし松井さんはこの状況からでも必ず復興はできると呼びかけました。
この時既に松井さんには集落の復興に向けて一つのアイデアが浮かんでいました。
当時道路が復旧し水没した家屋を見ようと外から多くの人が訪れ始めた木籠集落。
「都市との連携」という復興の基本方針に共鳴していた松井さんは水没家屋の近くにプレハブ小屋の休憩所を造り外の人との交流を深めようとしました。
壁に貼られた中越地震に関する記事や写真。
外から来た人たちに自分たちの現状を記憶にとどめてもらいたいという思いの表れでした。
中には関心を示す人もいるはずだと手作りの意見箱も置きました。
中越地震から3年。
都市との連携を目指すという山古志の復興が動き始めました。
過疎地山古志を襲った中越地震。
この復興には町づくりの専門家も加わっていました。
都市計画のコンサルタント江田隆三さん。
都市との連携を実現するため行政からの依頼を受け参加しました。
木籠集落を主に担当する事になった江田さん。
集落の人々が地震後ずっと元気を失ったままでいる事が気がかりでした。
で一生懸命…そんな地域の人々にどんな提案をすればよいのか。
江田さんはまず山古志に近い長岡市内の集落に入り農村の暮らしを経験する事から始めました。
その中で肌で感じたのはこの地域の人々にとって農業は単なる仕事ではないという事でした。
江田さんが考えついたのは誇りである農業を利用して住民を元気づけ更に都市との連携も図っていこうという計画。
そのためにまず集落の人々が共同で作物を育てる農園を造りそれを売る直売所を造る事にしました。
ところが当時この計画に多くの住民たちが驚きました。
実はこれまで野菜を売った事がなかったという集落の人々。
自家用で作っていた野菜に価値があるとは思えませんでした。
それでも江田さんは住民たちを動かしていきます。
直売や飲食事業を行っている地域を一緒に見学して回りノウハウを勉強していきました。
そして地震から4年後。
多くの見学者が訪れる水没家屋の近くで小さなテントの直売所がスタートしました。
初めは売る事さえためらっていた住民たち。
上田久江さんもその一人でした。
しかし意外にもこの直売所が外の人たちの評判を呼びました。
またその中へ入れて毎日こうね…地震から4年後に始まった小さな直売所。
徐々に住民たちに元気が戻り都市との連携の足掛かりが出来始めました。
しかしちょうどそのころ木籠集落のリーダー松井治二さんは新たな課題に直面していました。
外とのつながりのきっかけとなっていたあの水没家屋。
これを撤去しようという議論が動き始めたのです。
水没した土地の管理をしている国は安全上いずれ撤去する方針を固めていました。
しかし松井さんは今後の復興になくてはならないものだと考えていました。
ところが復興のためとはいえ集落の人々の胸の内は複雑でした。
これは地震の翌年水没してしまった我が家を見にいった住民たちの様子です。
上流から流れてきた土砂で見るも無残な姿になってしまった我が家。
(嗚咽)来なけりゃよかった私。
来なけりゃよかった…。
朽ち果てていく我が家を見る度に湧き起こる苦しさや切なさ。
直売所に参加していた上田さんも水没家屋を残しておく事に反対でした。
上田さんは自宅だけでなく生きがいだった農作業を行う作業場も土砂で流されていました。
それでも松井さんは諦めませんでした。
(松井)これ見えないですけど。
地震から月日がたっても中越地震を忘れずに訪れる人々がいるという現実。
松井さんは数か月にわたって住民たちと話し合った末ようやく保存の合意を取り付けました。
上田さんも集落の復興を思い納得しました。
平成20年8月地震から4年後に住民の合意を受けた長岡市は国に対し水没家屋の保存を訴える要望書を提出。
災害の記憶を伝える場所として整備していく事が決まりました。
それは今は当座は見るのも嫌だと思うけどもすぐ…本当にね見るのも嫌であればいつでもこれはなくする事はできるけど再現をする事はできないんだからこれはうちらはこんなに災害になった中から自分たちがここまでこれたというそこをみんなに知ってもらうにはこれはなかったらいけないしまたそれがある事によって頑張ってきた自分たちを応援してくれた人たちにもねお返しっていうかお礼にもなるんではないかね。
それを世の中の人たちの少しでも参考になればいいじゃないかねと。
うん。
これは納得したっていうかしてもらったっていうかね。
中越地震から10年たった今も水没家屋を見学しようと多くの人が足を運ぶ山古志。
地震から4年がたった時コンサルタントの江田さんが出した新たな提案がありました。
それは「都市との連携」という方針をより具体的な形にしていくプラン。
外の人たちを「準区民」として募り定期的にこの地域と関わってもらおうというものでした。
そういう方は比較的…それからあとはやっぱり…江田さんが集落の人々と考えた仕組み。
「ふるさと会」と名付けました。
会員になると春の山菜採りや夏の盆踊り秋のそば打ちなど都会ではできない山里ならではの体験を一年を通して楽しむ事ができます。
更に過疎の集落として悩みの種だった神社の掃除や田畑の手入れなど人手の要る作業もイベントに組み込み楽しみながら手伝ってもらうというものでした。
この仕組みを通じて都会の人が山古志を自分のふるさとだと実感し結び付きが更に強まればと期待していました。
これは四季折々の山古志が収められた会員特典のカレンダー。
中には住民の生き生きとした姿も収められています。
(江田)アハハハハ。
(江田)だんだんちょっと…。
こうして地震から6年。
ふるさと会が活動を開始します。
会員数90人からのスタートでした。
更に同じ年の秋。
(一同)123!
(拍手と歓声)水没家屋の脇に松井さんが建てたプレハブ小屋が新たに交流施設「郷見庵」としてオープン。
テントでの直売もこの郷見庵の中でふるさと会の活動として行う事になりました。
郷見庵の売りは普通の直売所と違いあたかも自分のふるさとに戻ってきたかのような家庭的な雰囲気を味わえる事。
更に外から来た人の参加感を高めようとある工夫も行いました。
ふるさと会の会員であれば山古志以外の人でも出品できる事にしたのです。
集落の住民とふるさと会の会員が一緒になって運営する郷見庵。
にぎわいが広がっていきました。
(取材者)楽しいですか?毎年9月ふるさと会恒例秋の稲刈りです。
長岡市や新潟市といった周辺の都市から多くの中高年が集まってきました。
定年後時間に余裕が出来た人や農村から町に出たサラリーマンの姿が目立ちました。
(取材者)昔はやってたんですか?そうそう子供の頃はね。
地震から6年たって出来た「ふるさと会」という仕組み。
先祖代々守ってきた山里の暮らしに価値を見いだし都市の人々と連携していく。
山古志の復興プランが徐々に実を結んでいました。
(太鼓)地震前から続く山古志木籠集落の伝統行事盆踊りです。
(太鼓)祭りを盛り上げるのは歌が自慢の集落の長老。
(歌と太鼓)ふるさと会の発足以降都市に暮らす人々もこうした行事に参加するようになりました。
一方で地震後7割となった山古志の人口はその後も減り続けていました。
10年目の今山古志木籠集落の住民の数は24人。
地震後集落に戻った時から更に13人減っていました。
地震後もとどまる事を知らない過疎化の波。
それでも規模が小さくなっても持続可能な地域をつくろうと山古志では絶えずさまざまな取り組みが行われてきました。
平成21年11月。
山古志に新たな復興の力となるものがやって来ました。
それはアメリカのコロラド州から贈られてきたとある動物。
3頭のアルパカでした。
牛の飼育に慣れていた山古志の人々にとって牛よりも育てやすいというアルパカは早速注目の的となりました。
触ってみて下さい毛を。
どうぞ。
あったかいでしょ。
柔らかい。
この時このアルパカに誰よりも注目した山古志の住民がいました。
アハハハハ。
それは10年前中越地震の直後復興の陣頭指揮を執っていた役場の企画課長青木勝さんでした。
その方が面白いじゃない。
40年間役場職員をやってさそのあとやっぱりまるっきり違う事した方がいいじゃん。
フフフ。
中越地震から7年後役場を退職した青木さんは復興の新たな起爆剤にしようとアルパカを活用する株式会社を立ち上げました。
3頭のアルパカを育てて増やしアルパカ牧場をオープン。
週末には2,000人もの人が訪れる山古志の新たな観光名所になりました。
地震という看板でいろいろ注目されるけれどもそれが永久に続くわけない話ででもそれによって山古志に目が向いてるというのは間違いのない話ですから山古志の人たちの暮らし方そのものに目が向くという事ですからこれは考え方によってはすごいチャンスですよね。
もともと牛飼いが盛んだった山古志。
青木さんは使われなくなった牛舎でアルパカを育てながら地域の産業にしようとしています。
餌やりなどアルパカの世話は地元高齢者の仕事に。
牛飼いの技術を持っていた山古志の人々にとっておとなしいアルパカの世話はちょうどいい手仕事となりました。
こら!アルパカの数が増えると青木さんは更に無理なく少しずつお金を得られるよう取り組みの幅を広げていきました。
手芸が得意な女性たちはアルパカの毛を使ってお土産の縫いぐるみ作り。
手作りのデザインが評判となり年間700個もの注文が来るようになりました。
(草間)ちょっとでも山古志の宣伝になったり自分たちもこれを作る事によってこうやって私らは作るのが楽しみ。
皆さんがかわいいねって言うともっとかわいくしようと思う。
更にアルパカのふんを堆肥に使った…青木さんは棚田で取れる米に付加価値をつけて都会の人たちに売り出す事にしました。
広がるアルパカビジネス。
青木さんの株式会社には山古志の外から働きに来る若者まで現れました。
「限界集落」という言葉自体非常にセンセーショナルな言い方なんだけど…
(青木)これがね実は地域づくりにとってものすごい重要な事なんですよ。
長岡だろうがどこだろうが好きな所に行けたんだけれども山古志で暮らしたいからあるいは死にたいから生きたいから…過疎地域での震災復興に取り組む山古志では去年更に新たな動きが始まりました。
山古志木籠集落の松井治二さんです。
松井さんにはずっと守ってきた山古志の伝統があります。
年間10回以上も行われる地域の伝統行事。
(勢子の掛け声)
(勢子の掛け声)
(歓声)江戸時代から続くと言われる牛の角突き。
松井さんは地震から9年たった時その伝統を変える決断をしました。
ねらいは若者を山古志に引き込む事。
大きな手振りと掛け声で牛の動きをさばく勢子。
本来は山古志の男性だけが許されてきた名誉ある役割でした。
その勢子に山古志の外の人でもなれる仕組みに変えたのです。
(歓声)都会では味わう事のできない迫力のある体験とあって参加する若者が増え始めました。
(歓声)面白いっす。
新潟市でイベント企画の仕事をしています。
初めは軽い気持ちでしたが都会にはない山古志の空気に触れるうち月に何度も訪れるリピーターとなりました。
牛の角突きだけでなく山古志自体に魅力を感じ始めた廣川さん。
暇さえあれば友人たちを連れてくるようになりました。
木籠地区って所なんですけど山古志の中でも一番10年前今年のあれで10年になるんすけど災害あってで一応うちの山古志闘牛会の会長の松井治二さんの家があれだったと。
(観光客)あれ?
(廣川)あれ。
皆さん見て頂いてこういう事があったんだという事を伝えたいという事で。
10年前のあの日突然小さな山里を壊滅させた大地震。
そして地震後もずっと続く過疎化の波。
幾多の困難を乗り越えてようやく山古志は地震から10年を迎えました。
今年10月。
中越地震発生からちょうど10年を迎えたこの日。
山古志木籠集落ではふるさと会の人々が集まり感謝祭が開かれました。
うわあ〜すごい!よかったね〜!あっという間だね10年。
はいどうぞ〜。
どんどん来て〜。
初めは自分で作った野菜が売れるかさえ不安だった住民たち。
都市とのつながりを深め身の丈に合った独自の復興を模索してきました。
今やふるさと会の輪は全国に広がりその数およそ130人。
北は北海道から南は九州まで東日本大震災で被災した人々もやって来ます。
・「うさぎ追いし」復興10年の締めは「故郷」。
地震直後避難先の体育館で口ずさみ励まし合った歌です。
・「こころざしをはたして」・「いつの日にか帰らん」・「山はあおき故郷」・「水は清き故郷」
(拍手)ありがとうございました。
来たよ〜!懐かしい。
ここまでご苦労さまでしたね。
本当にありがとうございました。
元気です。
過疎の村を襲った新潟県中越地震から10年。
山古志の人々は先祖代々守ってきた山里の暮らしを生かしながら今も独自の復興を続けています。
2014/12/27(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「それでもここで生きる〜山古志 復興の10年〜」[字][再]
10年前の中越地震によって、消滅の危機にあった旧山古志村。しかし小さな山里は以前にも増して元気な地域としてよみがえった。その鍵とは。山古志の復興の10年間を描く
詳細情報
番組内容
10年前の新潟県中越地震によって過疎地の旧山古志村は消滅の危機にあった。しかし、険しい山々にあるわずかな土地を耕し生き抜いてきた人々は「土とくわさえあれば生きていける」と7割もの住民が帰村。その後「都市との連携」をキーワードに復興に臨み、以前にも増して元気な地域としてよみがえった。リゾート開発や企業誘致とは一線を画す、小さな山里で身の丈にあった生活を再建しようと歩んできた山古志、復興の10年を描く
出演者
【語り】上田早苗
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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